家庭内暴力と家庭環境(24歳女性のケース)
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家庭内暴力と家庭環境(24歳女性のケース)

2016年10月02日(日)10:38 AM

「わたし、やっとシンプルに生きていけそうな気がしてきたんです。基本に戻って、自分のテンポを自分で作りたいんです。

 

 

 

 

それにしても両親と波長が合うまでには、ずいぶんと時間がかかりました。

 

 

 

 

わたしって、小さいころから、まわりの大人の言いなりに育ってきたとおもうんです。

 

 

 

 

ちょっとニュアンスが違うなと思っても、対立して調整していくより、相手に合わせていったほうが気が楽だったんです。

 

 

 

 

でもその積み重ねがいつの間にか自分の意思すらもてない人間になっていったんでしょうね。

 

 

 

 

それにいつも相手に対する気持ちを丁寧にしすぎていたようにも思うんです。それで動けなくなったときもありました。

 

 

 

 

そして、どこか違うな、というズレがゆがみになって、なぜわかってくれないのと親に向かって叫ぶしか、なす術がない行き詰まりの生活を送っていたと今、思います。

 

 

 

 

みんなわかっていたんです。こういう自分を作ったのも自分だということを・・・・。

 

 

 

 

だから母にお母さんに問題があるの、どこを直せばいいのと詰め寄られて言われると、つらかったんです。

 

 

 

 

ただどうすることもできないこの不安を聞いてくれて、そこにいてくれればよかったんです。

 

 

 

 

わたし、当たり前の本来の自分ってどこにいるのか、大切な親に物を投げつけながらずっと探していたように思います。

 

 

 

 

わがままで、勝手でしょう。それだから、近所のアパートから毎晩深夜、母に電話し続けていたある日、お母さんもこのままだと疲れて、おまえを守ってあげられなくなると母から言われ、電話を切られたとき、正直言って安心しました。

 

 

 

 

両親に向けて暴力をふるっているときも、当たらないように計算して物を投げていたんです。

 

 

 

 

親は無抵抗でした。わたしは物をぶつけながら、当たってしまったらどうしようと思いながら暴れていました。

 

 

 

 

それだけに、あるときから両親が、わたしの感情が高ぶりだすと、逃げ出してくれてまもなくすると戻ってきてくれる、そうなったとき、わかってくれたとわたしは思えて、とてもうれしかったんです。

 

 

 

 

子どもに親を殴らせてはいけない、傷つくのは、大切な親をまた殴ってしまったという子どもの心だ、そんなことをスタッフの方からアドバイスされていたと両親から聞いて、なんとなく、弱虫集団と思っていた相談室に足が向いてしまったんです」

 

 

 

 

わたしがA子さん(24歳)とはじめて出会ったのは、一年前の蝉時雨の季節でした。

 

 

 

 

かわいらしい猫のマークの入ったTシャツに、おしゃれなリュックを背負い、スニーカーをはいていました。

 

 

 

 

わたしには、軽やかであろうと無理しているA子さんの心情が察しられ、痛々しかったです。

 

 

 

 

そこにはなんとか新しい状況を作り出し、生き直しのチャンスをつかみたい、という彼女の思いの深さも感じられるのでした。

 

 

 

 

「いつも両親がお世話になっております」と神妙に一礼すると微笑み、今の心境をゆったりとした口調で話してくれました。

 

 

 

 

それはまるで、自分の人生のテンポを見つけ出そうとするプロセスにも似ていました。

 

 

 

 

二人姉妹のA子さんは、勝気な3歳年上の姉に比べて、「まじめで、おとなしくて、明るく、がんばりやさん」で育てやすい子だったといいます。

 

 

 

 

朴訥な東北出身の父親と地味さばかりが目立つような九州出身の母親は、「あの奥手な2人が・・・・」と噂される中で職場結婚しました。

 

 

 

 

A子さんは父親の転勤により、幼稚園から中学卒業まで、「のどかな町の都会っ子」として山陰の地で育ちました。

 

 

 

 

飾り気のない両親ではありましたが、どこかに品のよさも漂っていました。

 

 

 

 

「母は自分のペースに乗らない意地っ張りな姉への不満もあって、柔なわたしに期待をかけてきました。

 

 

 

 

親にしてみれば、わが子の可能性を援助したいというやさしい心もあったと思いますが、いつの間にか子ども中心が、親中心となってわたしの要求が叶えられるようになっていったと思います。

 

 

 

 

わたしは5歳の頃から、母の思い込みでピアノの英才教育を受け始めました。姉がピアノを弾くその横で、わたしがとっても楽しそうにして座っていたというんです。

 

 

 

 

ところがその姉が小2くらいから、子どもは外で元気に遊ぶもの、と母を諭す父に保護されてレッスンをさぼるようになったんです。

 

 

 

 

するとわたしが姉に代わってその椅子に座っていたんです。母は、わたしが喜んでいたからピアノを習わせたいといい続けてきましたが、最近になって姉や父への意地もあったことを認めてくれました。

 

 

 

 

ピアノは毎日練習する癖をつけなければだめという母は、どんなに家事仕事があってもわたしについてくることを最優先にしていました。

 

 

 

 

監視の中での毎日の練習でした。本当は、わたし、遊びたかったと思うんですが、母をひとりぼっちにさせないようにと、いい子になって期待に応えていったと思います。

 

 

 

 

でもわたしは、自分のために一生懸命に尽くしてくれる母を憎むことはありませんでした。

 

 

 

 

むしろ発表会のたびに、ひときわ目立って、スターになっていく自分には、母親はかけがえのない人だったと思います」

 

 

 

 

A子さんと母親が、ピアノで二人三脚で走り続けるほどに、姉と父親はほのぼの親子を楽しんでいったといいます。

 

 

 

 

休みになるとピアノと山登りの「二家族」を誰もが意識していましたが、その距離を埋め合わせるために、一人ひとりの時間を止める余裕はありませんでした。

 

 

 

 

「母は気弱そうな性格に見えて、じつは九州の頑固者でした。父にとってあまりかわいい奥さんではなかったと思います。

 

 

 

 

母に愛想をつかしたのか、わたしが中学のとき、発表会を間近にしてわたしが練習をさぼって母に怒鳴られるんですが、ヒステリックになった母に冷静になりなさいと言うと外出して帰ってこないんです。

 

 

 

 

たぶん、母をこれ以上刺激したくなかったんでしょうが、わたしには頼りない父に思えました」

 

 

 

 

A子さんは唇を閉じると首を横振りし、目を閉じました。中二の後半から母親は音楽系の大学を口にし、A子さんも「音楽の先生ぐらいになれたらな」とそんな希望を抱くようになりました。

 

 

 

 

姉の短大合格は「冷静」に祝いましたが、A子さんの有名音楽大学付属高校合格に母親は「逆立ち」せんばかりに喜びました。

 

 

 

 

そのとき姉は、いつとはなしに席を立っていました。そして父親は、東京の祖母の家に同居することへの「負い目」と授業料への心配ばかりが募りました。

 

 

 

 

「高校に入って、ピアノを弾くのが楽しみから義務になったんです。そしてレベルも技術の段階でしかなく、ピアニストとしてはあまりに田舎っぺだったんです。

 

 

 

 

そして、自分だけ早く帰ってピアノを練習する友達を見て驚いたんです。学校は人のつぶしあいなんです。

 

 

 

 

わたしは他人と競争するという意識が薄かったんですが、それはピアノの世界ではまずいんです。

 

 

 

 

わたしは他人を押しのけ、上に立つことが苦手なんです。競争をしたくないのにピアノの世界ではさせられてしまうんです。

 

 

 

 

競争心のないわたしがどうしてダメなの、わたしは何度も心でこう叫び、くやしさでバイエルに歯型がつくほどでした。

 

 

 

 

でも他人を押しのけようと努力してみましたが、これまでの自分を否定するようでつらくてつらくてたまりませんでした。

 

 

 

 

わたしは弱音を誰にもはけませんでした。お世話してくださるおばあちゃん、期待を寄せる母を悲しませたくなかったんです。

 

 

 

 

父と姉への意地もありました。なんてことになってしまったんだと思うと泣けてくるので、雨でもないのに傘をさして泣くのを隠したこともあります。

 

 

 

 

家で自炊していると包丁が目に入り、このまま・・・・と思ったこともあります。

 

 

 

 

そしてひとりぼっちに付き合ってくれる友達は、飼い猫だけでした」

 

 

 

 

自分はもう終わりだ

 

 

 

 

A子さんは高二で体調を崩し、級友の「下半身デブ」の噂にダウンしました。「ダイエットすることで強烈なつらさを紛らわした」とA子さんは振り返ります。

 

 

 

 

「わたしは家が好きでした。学校が終わるとすぐに家に帰りました。友達をたくさん連れてきて母に怒られたこともありました」。

 

 

 

 

そんな思い出が何度も夢に出てきました。以来五年間、東京と山陰の自宅を「悲劇の主人公として地獄」をさまよいました。

 

 

 

 

素直に人に近づけない自分を持て余し、自傷を何度もしました。孤独さと将来への不安感は両親の子育ての「不始末」として転嫁するしか術がありませんでした。

 

 

 

 

どうしようもない苛立ちを、DVDのケースとともに母親に投げつけました。みぞおちを押さえ「ウッ」とうなる母親・・・・。

 

 

 

 

「死んじゃう、お母さんが。お父さん、お姉ちゃん!」呼ぼうにも声が出ませんでした。

 

 

 

 

そのときA子さんは、「自分は終わりだ」と思ったといいます。両親はA子さんの感情の起伏に逆らわないことを誓いあいました。

 

 

 

 

夜寝るとき、父親と母親は各々片手を木綿糸で結びました。A子さんの混乱を互いに知らせるかすかな絆でした。

 

 

 

 

A子さんの悩みの深まりが夫婦の絆を少しずつよみがえらせていきました。

 

 

 

 

「わたしは一度として平気で悪態をついていたことはありませんでした。それだけにつらかったです。

 

 

 

 

自分の体調に関係なく、わたしを見守ってくれた両親がいなかったら、もうずっと前にわたしは生きることをやめていたに違いないと思います」

 

 

 

 

A子さんの顔が和らぎました。「わたし、最近、笑える時間が増えた気がします。

 

 

 

 

これからはアンダンテ(ほどよくゆっくりと)で生きていこうと思います。そしてまた何かあったらいつでもダカーポ(はじめに戻る)で」

 

 

 

 

彼女の去った相談室に涼しげな夏の夜風がさわやかさを運んでくれていました。

 

 

 

 

 

 



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