家の中に自分の家
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家の中に自分の家

2016年09月25日(日)12:14 PM

PPS_sumidagawawotoorudennsya_TP_V1「夢破れ、仕方なく帰郷し、家の中に自分の家を作り、孤独で退屈な日常」を過ごすA子さん(21歳)はそんな生活を送っていました。

 

 

 

 

小柄なショートカットに軽装のA子さんは茶畑を背にし、フェンスに寄りかかると夕暮れの稜線を見ながら話を続けてくれました。

 

 

 

 

「食堂を経営していた両親は、わたしを近所に住む祖父(母方)に預けて働いていました。

 

 

 

 

祖父はわたしをかわいい娘の子とかわいがってくれましたが、ときどき叔母さん(嫁)の目が怖くなるときもありました。

 

 

 

 

いつだったか、わたしと叔母さんと2人のとき、わたしが姪のノートを借りて漢字の書き取りをしていたんです。

 

 

 

 

するといきなり、お母さんに似てきたねと皮肉るんです。自分だけ得してと言われた時は、母を責められているようで、わたしはどんなに寂しくてもひとりで家にいたほうがいいと思いました。

 

 

 

 

小学校に入学するころ、妹が生まれ、母は家にいてくれるようになりましたが、他人に対して臆病になる性格はもう身についていました。

 

 

 

 

どんなにひどいことをされても、いつも黙って我慢するほうを選んでしまうんです。

 

 

 

 

わたし、アトピーなんです。小6のときでした。運動会のダンスの練習でも誰もわたしの手を握ってはくれませんでした。

 

 

 

 

冷たくて、しわしわでガサガサの手は気持ち悪いと言われてしまうんです。

 

 

 

 

わたしだってそんな手、好きではありません。でもどんなに一生懸命、みんなに嫌われないようにと薬を塗っても治らないんです。

 

 

 

 

それに自分でもやだなと思っていたので、言い返せないんです。

 

 

 

 

このときも仕方のないこととわかっていましたが、つらくて母に泣きながら治して、と頼んだんです。

 

 

 

 

すると、お母さんを困らせないでよ。妹も弟も我慢しているんだから。お姉さんらしく甘えないで、しっかりしてよとわたしにとってはいつものむなしい励ましでした。

 

 

 

 

わたしは小さい頃から、働いていた母に心配かけてはいけない、困らせてはいけない、とたくさんの悩みを自分で抱えていました。

 

 

 

 

それだけに母の口癖は・・・・」

 

 

 

 

A子さんは、少し荒れているかな、といった程度の手をさするとシャツの袖を伸ばしました。

 

 

 

 

「困らせないで、か。何も言えなくなっちゃうね」わたしは宿舎(廃校)の校庭にある平均台に彼女を誘うと、腰掛けて一言うなずきました。

 

 

 

 

「わたし、本当に嫌われたんです。中2のとき、市の中学校の記録会があってクラスの男子がトラックを走っていたんです。

 

 

 

 

ひとりで帰ろうとしたわたしは、クラスの女子が応援しているので悪いと思って、戻ると、がんばってと手をたたき、自分でも信じられないような声援をしていたんです。

 

 

 

 

でもその男子はわたしの顔を見ると、迷惑そうにそっぽを向いて走っていきました。

 

 

 

 

そのころからわたしは「ブス」という言葉がとっても気になりだしたんです。

 

 

 

 

友人のことをよく「ブス」と言うかわいい女の子がクラスにいて、わたしを親友にしてくれていました。

 

 

 

 

わたしも影では「ブス」と呼ばれているんだろうなとは思っていましたが、嫌われて一人になるのが怖くて・・・・。

 

 

 

 

わたしは顔でのマイナスを勉強で取り戻そうとしたんです。それが結果的には孤立することになりました。

 

 

 

 

必死で友達の輪に引っかかっていた努力をしなくてすむようにできたんです。

 

 

 

 

勉強は一人でするもの、といった言い訳が自分にでき、心が楽になった分、孤独は深まるばかりでした。

 

 

 

 

母は成績が伸びるわたしを喜び、つらい過去もふっきれ安定してきたと思っていたようです。

 

 

 

 

それは当然です。わたしはもう甘えて相談することをやめていたからです。母との分かり合えない壁を厚くしたくなかったのです。

 

 

 

 

「両親の子にしてはいい高校」に入ったわたしですが、勉強は予想以上に難しくなり、疲れはたまるいっぽうでした。

 

 

 

 

わたしは疲れた表情を家族に見せて心配かけたくないと思って、家では明るく振る舞っていました。

 

 

 

 

妹や弟と冗談をとばしあい、部屋でぐったりしていたんです。明るいわりには成績について一言も話さなくなったわたしに、母も何かを感じたのか、「蛙の子は蛙なんだから、無理しないで」とぽつりと言ったこともありました。

 

 

 

 

わたしはそれを親の愛情とは思えず、読まれてしまった、と驚いたことを覚えています。

 

 

 

 

わたしが母にはっきりと距離を置くようになったのは、高2のときでした。

 

 

 

 

何日か続いてテスト勉強を図書館でしていて、ある日帰宅時間が夜の7時を過ぎてしまったんです。

 

 

 

 

母がその理由を尋ねるので、正直にそのことを言ったんです。すると、どうだかと一言疑うような言い方をしたんです。

 

 

 

 

それはまるでわたしを遊び人扱いしているんです。わたしの母への心づかいはないがしろにされ、母は勉強で遅くなったわたしを信用してくれませんでした。

 

 

 

 

このくやしい気持ちをせめて父親に聞いてほしいと思い、深夜の帰宅を待ってみましたが、中学以来、ほとんど口をきいてこなかったので、話しかけ方がスムースにいかず、顔を合わせるとすぐ目をそらし、二階にある自分の部屋に戻ってしまいました。

 

 

 

 

わたしの雰囲気に何かを感じてくれたのか、階段を少し上がってくれた気もしますが、やっぱりわたしはひとりでした」

 

 

 

 

A子さんは進学への親の疑問にも答えることなく、高校を卒業すると、郷里を出て東京に職を見つけ、寮生活に入りました。

 

 

 

 

「過去を捨て、解放された気分でした」と言います。そして、「本当の友達をつくろうと躍起になり、無理して明るく振る舞い、バカを言い、何でも笑顔で引き受けているうちに」ここではからかいの対象にされていきました。

 

 

 

 

A子さんには安らぐ友達や場所は、郷里を離れて求めても得られませんでした。行き詰まったA子さんは「恥を捨て」母親に助けを求めて電話をかけました。

 

 

 

 

「職場に行けない。どうしてくれるの」母親との間に壁は感じていたものの、それだけに乗り越えたときへの期待感は大きかったようです。

 

 

 

 

母親に素直な気持ちを伝えられないもどかしさも、離れて苦しんでいる子どもを思う親なら必ず受け止めてくれると思いましたが、壁は厚く高かったのです。

 

 

 

 

「そんなことを言われても、自分で決めたことでしょ。今はスランプなのよ。もう少し我慢してみたら。

 

 

 

 

おまえは調子者だから、もっと落ち着いて行動しなさい。泣き言を言うのはまだ早いわよ。しっかりね」

 

 

 

 

母親の「励ます言葉」はA子さんの心を「傷つける言葉」となっていきました。まもなくすると、思いついたようにたびたび帰省し、母親への暴力と自傷が繰り返されました。

 

 

 

 

彼女が人の輪から遠ざかるようになったのは、それからまもなくでした。

 

 

 

 

「記憶喪失になって過去を忘れてしまいたいと寮の部屋の柱に頭を何度もたたきつけているうちに」両親が迎えに来てくれました。

 

 

 

 

母親は能面のような表情のA子さんを見てはじめて親の無頓着をわび、抱きかかえました。

 

 

 

 

仮死状態のA子さんは、そのときはじめてひとりから解き放たれ、母親の腕で心癒され、眠ることができたといいます。

 

 



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