ひきこもり等が家庭内暴力・幼児化に走る心理
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ひきこもり等が家庭内暴力・幼児化に走る心理

2016年09月17日(土)1:14 PM

「見捨てられ感」とは、逆に言えば、親とか社会(教師、同級生など)から見捨てられたくないという心理です。

 

 

 

 

たとえば、不登校でひきこもりがちな子が担任の先生に相談をしているときに、「君に合いそうなフリースペースが新聞に載っていたから、行ってみたらどうか」

 

 

 

 

とか、「この本、参考になるから、君も読んでお母さんといっしょに著者の相談室を訪ねてみたら」といった言われ方をするのがとてもつらいのです。

 

 

 

 

つまり、見放されたような感じを受けてしまうのです。そうではなく、その場で先生がいっしょになって電話をしてみるというようなことが大事なのです。

 

 

 

 

「あそこに相談室があるから、行ってみたら」ではなく、「そこにAさんというおもしろいおじさんがいて、先生も会ったことがあるけど、とにかく会ってごらん」と、具体的に指名することが肝心です。

 

 

 

 

ただ機関を紹介するのではなく、人と人とのつながりを仲介してあげることが重要です。

 

 

 

 

ほんのちょっとの違いかもしれませんが、苦悩している子どもには、とても大きな違いになります。

 

 

 

 

「先生はこの本を読んで、これを書いた〇〇さんという人にとても身近なものを感じた」というようなことがあってはじめて、子どもは見捨てられ感を回避することができます。

 

 

 

 

親にしても同じです。「近くにとてもいいフリースクールがあったよ」と言うと、子どもは、「どうせ僕のことをゴミみたいに思っているから、そこに放り込んでおこうと思っているんだろう」と思ってしまいます。

 

 

 

 

子どもの中に常にあるのは、「自分は親にとって迷惑な人間なのではないのか」という疑いの気持ちです。

 

 

 

 

ひきこもり状態が長期化すればするほど、彼らは自分が「リサイクルに出しても役に立たない人間」だと思うようになっていきます。

 

 

 

 

千葉県の高校中退の子が、親や教師たちの尽力で、北海道のある高校に入れてもらうことができました。

 

 

 

 

そこは高校中退者を全国から積極的に受け入れている高校です。たまたまわたしが札幌に講演に行った帰りに、そこに立ち寄って彼と会ってみたところ、こんなことを言っていました。

 

 

 

 

「俺、ゲンチャリ(原動機付き自転車)でも帰れないような最果ての学校に来ちまったよ」

 

 

 

 

彼はツッパリで、いわゆるヤンキーです。その彼が、「俺、すごく寂しかったよ」と言います。

 

 

 

 

「ここは海とカモメしかいないじゃないですか。一日目なんか、とんでもないひどいところに来ちゃったなあと思って、寂しくて寂しくて、思わず家に電話をしましたよ」

 

 

 

 

彼が家にいたときは、家の中はいつもシーンとしていました。家族は彼の家庭内暴力におびえていたからです。

 

 

 

 

ところが、その家に彼が電話したら、電話口から妹弟たちの明るい声が聞こえてきました。

 

 

 

 

そこで彼は、「なんだよ、その楽しそうな声は」と言ったら、父親は「いや、なにも楽しくなんかはないぞ」と言います。

 

 

 

 

「みんな、ゲラゲラ笑ってるじゃないか。俺がいないと、そんなに楽しいのかよ」

 

 

 

 

「そんなことはない。いつだってお前のことを考えているんだ」

 

 

 

 

「ほんとかよ。じゃあ、俺、これから帰るからな」

 

 

 

 

そう言ったら、急に電話の向こうが静かになってしまったといいます。

 

 

 

 

見捨てられ感を回避しようとして出てくる子どもの行動の代表的なものは、家庭内暴力と幼児化です。

 

 

 

 

家庭内暴力は、自分を信じてほしい、見守ってほしい、理解してほしいという気持ちのあらわれです。

 

 

 

 

だから、必ず自分が頼りにできる人のところに向かって発せられます。あてにならない人のところには向かわないのです。

 

 

 

 

自分の気持ちをわかってほしい、見捨てないでくれという叫びが、家庭内暴力にほかなりません。

 

 

 

 

言葉は「クソババア」とか「バカヤロー、センコウ」でも、それこそ自分を見捨てないでくれというメッセージであり、その人は彼らにとって大切な人なのです。

 

 

 

 

ほんとうは「お母さん」とか「先生」と呼びたいんだけど、それが言えないから、そういう言葉を使っているだけなのです。

 

 

 

 

わたしも「何回、面接を受けたって、相談室に何年通ったって、俺はちっともよくならないじゃないか」と言われ、「アンタ」呼ばわりされたりします。

 

 

 

 

「このクソジジイ」と言ってものを投げつけられたこともあります。でも、そういうとき、彼らは絶対に相手に命中させようとはしていません。

 

 

 

 

必ず少しはずして投げます。激情しているようでも、ちゃんと後ろの壁にぶつけたり、ナイフを持っていても、こちらの膝元近くの畳に突き立てたりします。

 

 

 

 

だから、そういうときは、こちらもそのままじっとしていれば安全です。それを間違えて、あわててよけたりすると、かえって当たってしまいます。

 

 

 

 

子どものほうははずしたつもりなのに、それが当たってしまうと、大事な人を傷つけたことになるから、心がすごく痛んで、ますます暴れるようになります。

 

 

 

 

子どもの家庭内暴力によって傷だらけにさせられている母親がいますが、たいていはあわてて制止しようとしたり、逃げ惑ったりするために、逆に当たってしまうケースが少なくありません。

 

 

 

 

子どもにとって自分は大事な人なのだから、その自分を子どもに傷つけさせるようなことは、極力避けるべきです。

 

 

 

 

身の危険を感じて、一時的にその場から逃げることがあっても、どこかのビジネスホテルなどに何日も泊まってなかなか帰ってこないというのでは、子どもを見捨てたことになります。

 

 

 

 

どこかに避難しても、すぐに帰ってこなければいけません。すぐに帰ってくることが、子どもにとっては癒しになっているということに自信を持つべきでしょう。

 

 

 

 

ひきこもる子どもはいつも、「どうして自分はこうなってしまったんだろう」という気持ちを抱いています。

 

 

 

 

できることならやり直したい、仕切りなおして旅立ちたいと思っています。だからこそ、自分の不安を支えてくれる人がほしいのです。

 

 

 

 

人は、悩みをひとりで背負っていると不安になります。その悩みを誰かと共有できたらずっと気が楽になります。共感とは、ようするに心と体で触れ合うことです。

 

 

 

 

二つのものが一つになることを、日本語ではあまりいい意味には使われていませんが、「癒着」といいます。

 

 

 

 

「癒」とは「癒す」ということで、二つのものが一つになると癒しという状況が生成されます。

 

 

 

 

共感するとは、癒すことにほかなりません。触れることでも癒しの状況は生まれます。

 

 

 

 

たとえば歯が痛いときに、歯科医が頬にそっと手を添えてやると、歯の痛みはとれないけれども、心の痛みはとれます。

 

 

 

 

熱がある患者に、医者が体温計を差し出す前にそっと額に手を当ててやります。熱は下がらないけれども、心の熱は下がります。

 

 

 

 

つまり、二つのものが一つになったとき、人は癒されるのです。だから「手当て」と呼ぶのでしょうか。

 

 

 

 

ひきこもる子どもが心の中で求めているのも、薬ではなく、癒しなのです。癒しがあってはじめて、子どもは人間関係の原点を再確認し、自分の還る家を見つけることができます。

 

 



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