不登校の娘と母親の苦闘
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不登校の娘と母親の苦闘

2016年09月03日(土)12:18 PM

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10月はじめの日曜日、乱雑になりつつある押し入れの中を、意を決して片付け始めたところ、いろいろと取り出していくうちに、ビニール袋に入れられた20通ほどの封筒の束が出てきました。

 

 

 

 

 

これこそが、私達家族に大きな試練をもたらした、事の始まりでした。

 

 

 

 

 

夫は「もう10年も前のことだ。いい加減に破棄したら」といい、私も一度は同意したものの、処分できずに、夫には内緒で押入の奥深くにしまいこんでしまいました。

 

 

 

 

 

心の片隅に、「まだ終わっていない」という気持ちが引っかかってくるからだと思います。

 

 

 

 

 

私自身のこの10年間を顧みると、自分の性格を180度、変えざるをえませんでした。

 

 

 

 

 

そして、それは家に閉じこもっている娘と付き合っていくうえで重要な事でした。

 

 

 

 

 

細かいことにもこだわらなくなったし、何よりも物事を太っ腹に考えられるようになったことが、生きていくうえでとても楽になったと思っています。

 

 

 

 

 

また、娘の問題と取り組んでいくうちに、数多くの友人たちにも巡りあい、本音で話し合える幸せを感じています。

 

 

 

 

 

ある書物に、「生きていくうえで、忘れていいこともある、それも神様がくれた才能だから」というのがありました。

 

 

 

 

 

私はこの言葉に出会った時に、ほっとした安堵感を感じて救われる思いがしたものでした。

 

 

 

 

 

娘は、子供を授かることを諦めかけて共働きをしていた私たち夫婦に、結婚7年目にして授かった命でした。

 

 

 

 

 

夫は夢中で可愛がる甘い父親でしたし、祖父母にも愛され、幸せなスタートでした。

 

 

 

 

 

そんな中、私たちは新興住宅地に移り、同世代の母親とその子どもたちと付き合うことになるのですが、いま思いますと、高学歴を持つ個性の強い地域だったように思います。

 

 

 

 

 

私自身も負けまいという気持ちが常に働いていました。

 

 

 

 

 

ときに「ひとりっ子とおばあちゃん子は三文安い」という言葉を吐く人に対して、私はことさらそんなふうに見られないように、だらしのない子などと言われないようにしなければという意識が常に働いていて、まさに典型的な甘い父親に真面目な教育ママという型が出来上がっていました。

 

 

 

 

 

小学生時代の娘は、明るく運動が好きで活発な子に成長していきました。

 

 

 

 

 

中学に入ると、将来家族で一緒に楽しみたいという気持ちもあり、自ら進んでテニス部に入部、朝練、夕練と称して、クタクタになるまで学校にいる生活を送っていました。

 

 

 

 

 

ところが、5月末ごろから朝起きることができなくなりました。

 

 

 

 

 

医師に低血圧による起立性調節障害と診断され、起きた時点で学校へ行けばいいと指導されました。

 

 

 

 

 

しかし、遅刻の回数が増えるにつれ、勝ち気な担任の女性教師から、「少しくらい熱があっても登校してくるのが中学生でしょう。こんなことをしていると、不登校になりますよ」という言葉で私の心は動揺し、夫の急な入院とも重なって、すべて担任の言うままにしてしまったのでした。

 

 

 

 

 

そして、事件は起こりました。

 

 

 

 

 

学校が目の前に見える我が家に、出勤途中の教師が朝迎えによるということになりました。

 

 

 

 

 

そして月曜日、案の定、起きられずにいる娘の部屋に「失礼します」と言って駆け上がり、外にまで聞こえる罵声を発するや、グズグズしている娘を階段から階下へ突き落としたのです。

 

 

 

 

 

私はその情景に仰天し、夢であって欲しいと懸命に念じたのをはっきりと覚えています。

 

 

 

 

 

背中と腰を強打した娘は、当然、学校には行けなくなり、毎夜、「朝になるのが怖い。先生が殺しに来る」と言って怯え、強度の不安状態に陥りました。

 

 

 

 

 

挙句の果てに自殺を試みようとするので、退院してきたばかりの夫と交代で寝ずに見張ったり、もうこの子は正気ではないのではないかと、絶望感さえ覚えました。

 

 

 

 

 

そんな時に貰ったのが、担任の度を超した行為に対する校長や学年主任からの謝罪の手紙などでした。

 

 

 

 

 

これからが親子ともども、地獄の日々でした。

 

 

 

 

 

どうしていいかわからず、よき相談者を求めて全国どこにでも出向きました。

 

 

 

 

 

娘は昼夜逆転はもちろん、45kgだった体重は80kgを超え、まるで白熊のようでした。

 

 

 

 

 

それでも高校へは行きたいということで、幾つかの高校に出向いたのですが、試験すら受けさせてもらえませんでした。

 

 

 

 

 

その後、フリースクールとの出会いがあり、通信制高校に入りましたが、課題の多さなどから挫折の繰り返しで、高校を卒業するまでに7年あまりかかりました。

 

 

 

 

 

これと並行して、段々と落ち着きを見せるようになり、自分でも外に出てみようと思ったのか、求人広告を見るようになってきました。

 

 

 

 

 

そんな時に電車で10分ほどのところで新規オープンした百貨店のパート募集の面接を受けました。

 

 

 

 

 

「学歴不問」の文字があるにも関わらず、200人中1人だけ「アルバイト」という身分での採用でした。

 

 

 

 

 

世間の表裏を本人もひしひしと感じたようでしたが、有名ブランドのキャラクター売り場に配属され、かわいいエプロンをしめての接客に、娘はいきいきしていました。

 

 

 

 

 

まるで幼い時にしていたお店やさんごっこの楽しさを味わっているようにも見えました。

 

 

 

 

 

アルバイトというなんの保証もない身分にもかかわらず、閉店までの勤務や発注、配置換え、残業と、仕事の内容はほとんど社員並みのようでした。

 

 

 

 

 

それでも、遅い夕食をとりながら1日の出来事を話す様子に。よくここまで立ち直ってくれたという気持ちと、働き出してからスリムになり、口紅を引いた姿に、誇らしささえ覚えたものです。

 

 

 

 

 

親としては、男性社員の見下した言葉遣いが心配にはなりましたが、それにもまして、同期入社の女性社員がいろいろな行事に参加させてくれたり、カラオケに連れて行ってくれたりと、楽しみも非常に多かったようでした。

 

 

 

 

 

そして、何よりも人生経験の豊富なパートの方々が、いろいろ助言してくれたり、教えてくれたりしたことがとても多かったと思います。

 

 

 

 

 

中学、高校と、世間に出ていく大事な準備期間をとばしての勤めでしたから、よく支えてくださったと感謝しています。

 

 

 

 

 

やがてパートになって身分的にもしっかりし、本人は満足そうでしたが、腰痛が再発して、約5年勤めたデパートを退職することになりました。

 

 

 

 

 

現在は失業保険を受けながら、履歴書を何通か出しているようです。

 

 

 

 

 

現実は厳しく、次の就職先はまだ見つかっていませんが、充電して動き出すのを信じて待つことにしようと思っています。

 

 

 

 

 

そして、手紙の束を、「つらかったけど、こんなこともあったね」と言いながら処分できる日が来ることを念じています。



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