ひきこもりの「対話する関係」の喪失
ホーム > ひきこもりの「対話する関係」の喪失

ひきこもりの「対話する関係」の喪失

2016年03月04日(金)7:29 PM

これまで子どもたちのひきこもりは、学校が子どもにとっての社会的な場であったことから、大雑把に不登校とほぼ同一に扱われてきました。

 

 

 

 

しかし最近は、学校という場を離れ、あるいは学齢期をすぎてもなお、社会に出て行くことができずに、ひきこもりを続けざるを得ない人たちがたくさんいる、という事実にわたしたちが直面することになりました。

 

 

 

 

そこから、「ひきこもり」という言葉で、それらの人々を表現するようになった、といってもよいでしょう。

 

 

 

 

わたしの言う「対話する関係」とは、お互いに察したり、語り合いながら、いろいろなことをわかちあいつつ、ズレることをも体験し、傷ついたり傷つけたりしながら、それを修復していくことによって、互いにより深く理解し合える、ということを学んでいく相互的なやりとりのことです。

 

 

 

 

人と人との関係は、このような相互的な不断の繰り返しによって豊かに発達していくものです。

 

 

 

 

しかし、それが居間の子どもたちには難しいのです。傷つきやすく、いったん傷つくとそこから立ち直ることがなかなかできません。

 

 

 

 

わたしは「ひきこもり」という現象は、その人の社会との関係をめぐる問題であり、その底流に「対話する関係」の喪失がある、つまり人と人との関係性の原点における障害ではないか、と捉えています。

 

 

 

 

関係性とは人間の存在そのもののありようです。そして、ひきこもりは現代の人間の存在に関わる問題です。

 

 

 

 

「人間にとって、他者との関係性の喪失ほど、致命的なものはないのである。他者との関係性は、人間が人間であることの必須条件であって他者との関係性において自分が存在すると確信できることこそは、人間として生きる意欲の源泉をなしているとわたしは思う」(なぜ人を殺してはいけないのか)「洋泉社」と、小浜逸郎氏は述べています。

 

 

 

 

多くの人間が「関係のなかで生きる」「社会的存在として生きる」ということを放棄してまで親に、家族に、そして社会に対して訴えかけているものは何なのか、その根っこの部分をしっかりと捉えなければ、彼らの命を賭けた問いかけに真剣に答えることにはならないのではないか、とわたしは考えています。

 

 

 

 

最近ではテレビによる、ひきこもりの青年たちの実際やそこからの脱却の過程が放映されたり、彼らに対するインタビュー集など、関連する書物がたくさん出版されています。

 

 

 

 

それらは生のかたちで、彼らの内面をわたしたちに伝えてくれる貴重な資料です。

 

 

 

 

しかし、それらを見聞きすると、ひきこもりといっても、完全にひきこもっている人から限定的にではあっても、コミュニケーションの扉が開かれている人まで、そのあり様は多種多様、抱えているテーマも個々それぞれです。

 

 

 

 

けっしてひとくくりにできないことが、改めて確認されます。ただやはり、ひきこもっていく動機はそれぞれでも、ひきこもっている間に人とのかかわりがつらくなる、怖くなる、きつくなる・・・・でも、ひとりで孤独でいるのもつらいという「人との関係性のなかでの生きにくさ」というテーマを抱えていることは、共通する要因でもあるように思います。

 

 

 

 

そこでは主に、本人がどう考えたかということに焦点があたっています。しかしわたしの場合、家族との関係を調整することのほうが多いでしょうか。

 

 

 

 

もちろん、ひきこもりの本人にも会っていますが、実際には両親が子どもをどのように理解し、対応していくかということに多くの精力を傾けています。

 

 

 

 

困っている親への援助を通した本人援助、それゆえに、「家族の関係性の変容」という視点が自然に生まれてきたのかもしれません。

 

 

 

 

しかしそれは、わたしが積極的に親を呼んで指導している、あるいは必ず関係性を問題にしている、ということではありません。

 

 

 

 

子ども自身が相談に来る場合、家族関係を問うことなく進んでいくケースもたくさんあります。

 

 

 

 

もしもわたしが、家族との関係に問題があると思ったとしても、それを彼らに押しつけることはしません。

 

 

 

 

あくまでも、その子どもの問題意識に合わせて面接を進めて行きます。わたしはこれまでも何度か繰り返し言ってきたように、ひきこもりという現象それ自体を、その本人と家族にとって意味あるもの、と捉えようとしています。

 

 

 

 

子どもが自分の存在、そして自分の将来のすべてを賭けて親に問いかけているもの、そこに負の意味しかない、とは思えないからです。

 

 

 

 

そしてそのことに家族が真剣に対応しようとするならば、家族そのものが変容を迫られることになります。

 

 

 

子どもの発信しているメッセージをしっかり受け止めることによって、まず親が変わる、それによって子どもも変わる、そして新たな関係性のなかに生きる親と子、家族が誕生する・・・その円環的な家族全体の心理的変容に伴走しているのがわたしという存在です。

 

 

 

 

しかしそれは、その家族がそれまでよくない生き方や間違った生き方をしてきたから、ということではありません。

 

 

 

 

誰でも、ある一つの生き方を選べば、その他すべての生き方を捨てることになります。

 

 

 

 

選ぶということは、そういうことでしょう。そうして選択されなかった行き方は、その人にとって、その家族にとって、影の部分になります。

 

 

 

 

ひきこもりの子どもたちを見ていると、まるで親や家族のそのような影の部分を生きなおそうとしている様だ、と思うことがしばしばあります。

 

 

 

 

とはいえ、ご両親は自分たちが子どもにどう対応したらよいか、ということに頭を抱えて相談に見えます。

 

 

 

 

具体的な手がかりを求めておられるのです。しかし、あったこともない子どもへの対応です。

 

 

 

 

わたしにわかるはずもありません。では、実際にはどうしているのでしょうか。まず最初に、親の語りを通して自分のなかにその子どもの像をいくつもつくりだします。

 

 

 

 

そしてそういう子どもだったら、こういう時どう感じるか、考えるか、ああいう子どもであればどうなるか、あるいはもっと病理的なものを想定すると・・・・など、さまざまな子ども像を推測し、その内容を仮説として親に伝えます。

 

 

 

 

そして日常の対処場面で、〇〇してみてください、ということを助言し、後日それに対する子どもの反応を聞きます。

 

 

 

 

それによってわたしの読みがどれくらい的を射たものだったのか間違っていたのかを判断し、自分のなかに描き出したその子ども像をどんどん変えていきます。

 

 

 

 

それには本人からの言動、つまり反応がすべての鍵となります。何回も繰り返していくうちに、次第にわたしのなかにその子の輪郭が見えてきたら、しめたものです。

 

 

 

 

それはまた、わたしが作った子どものイメージと、親がそれまで思い込んできた子どものイメージを照らし合わせながら、親の子ども理解を再検討する過程である、といってもよいでしょう。(もちろんこの作業は、容易ではなく、うまくできないことがたくさんあります)。

 

 

 

 

このように親と子の間に援助専門家という第三者が入ることのメリットは、日常の親の対応が微妙に変わる、ということです。

 

 

 

 

にっちもさっちもいかない親と子だけの密室の関係に、「第三の風が入る」といってもよいでしょうか。

 

 

 

 

親の対応がいつもとちょっと違う、と子どもが感じると、子どものほうも少しずつ変化が出てきます。

 

 

 

 

親と子どもの間に、触れ合った、あるいは触れ合えそうな手ごたえのようなものが生まれてきます。

 

 

 

 

ひきこもっていても家庭のなかである程度の関係を持てている場合はよいのですが、多くの場合、彼らは家族との関係からも分断され、閉鎖的なひとりぼっちの状態に置かれています。

 

 

 

 

そしてそのことを本人自身、納得できていません。だからそこに揺さぶりをかけ、動きを起こそうというのがわたしの試みだといってもよいでしょう。

 

 

 

 

このような動きが引き金となってうまく起動しはじめると、ひきこもって以降の、親と子の「無の関係」にいのちが吹き込まれ、子どもは「ひとりぼっちの、かたくななひきこもり」から「ひとりではないひきこもり」へと、緩やかなカーブを描いてはいっていきます。

 

 

 

 

それはいってみれば、「孤立し、社会から疎外されているひきこもり」から「容認され、守られているひきこもり」への変容でもあります。

 

 

 

 

たとえれば、親とのコミュニケーションというへその緒がしっかりついて、子宮のなかに戻って自分の育てなおしをはじめる、というようなイメージ・・・・このへその緒をつくる、のがミソといえます。

 

 

 

 

ひきこもった子どもが、親との対話を通して家族のなかでの関係性を回復していくと、ひきこもりは次第に緩められ、社会との関係性へと駒を進めることになります。

 

 

 

 

人は身近に接する人間との関係を構築しなおさなければ、つまり人との関係性の原点を修復していかなければ、社会との関係性にはいっていくことは難しいものです。

 

 

 

 

あるいは、その家族の変容が絶望的なとき、人は真に身近な関係性の修復に絶望しぬくことによっても、自分を背負っていくことが可能になるようです。

 

 

 

 

 

そのような例が、ひきこもりの15人の若者たちへのインタビューを集めた本(わたしがひきこもった理由)「田辺裕取材・文、ブックマン社」にも描かれています。

 

 

 

 

そして、そのどちらにもたどりつけない人々が、現在渦中で苦しんでいる人たちなのではないでしょうか。

 

 

 

 

わたしは関東自立就労支援センターでこのようにして、子どもの家族との関係性を核として、社会との関係性の回復の手助けをしています。

 

 

 

 

そしてこのようなプロセスを経ていくと、必ずと言ってよいほどに、親御さん自身が、自分の育ち方、育てられかたに根ざした自分自身の行き方にまで戻って、子どもとの関係と自分とを見つめなおす、ということが生じます。

 

 

 

 

しかし、わたしがそのように働きかけているかというと、そんなことはありません。

 

 

 

 

不思議なことですが、ごく自然にそうなっていくのです。そしてそれによって、どうしてそのような子どもとの断絶した事態が引き起こされるようになったのか、という問いかけに対する答えを、親御さん自身が探るようになります。

 

 

 

 

そして最終的には、子どものひきこもりを通して、家族がそれまでの関係性とは異なる、より緊密な関係性をもった家族になっていく、ということが生じます。

 

 

 

 

つまり、マイナスだと思い込んでいた体験が、プラスに変わっていくのです。

 

 

 

 

そう考えていくと、わたしのしようとしていることは、家族の個々のメンバーが個々に背負っている歴史を、今一度、家族で背負いなおそうとする挑戦への協力になる、といってもよいのかもしれません。



メニュー

過去の記事

団体概要
団体名
関東自立就労支援センター
理事長:
大橋秀太
理事:
大畑健太
理事:
杉下真理
住所
東京都東久留米市浅間町1-12-9
TEL
042-424-7855
メール
ki6jt7@bma.biglobe.ne.jp
活動内容
・若年者の就労支援、
 学習 支援、生活訓練
・共同生活寮の運営
・教育相談の実施
・各種資格取得支援