引きこもり・ニート・スネップ・不登校と密室生活
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引きこもり・ニート・スネップ・不登校と密室生活

2015年08月10日(月)7:47 AM

 

長い間、密室で生活していると、人間関係はしばしば二者関係になりやすいものです。

 

 

 

 

それはなぜでしょうか。互いに互いを鏡像に見立てて、そこにさまざまな感情を投影するからです。

 

 

 

 

ここで問題なのは、二者関係が、しばしば「憎しみ」のみを抽出し、攻撃性を増幅するような関係になりやすいことです。

 

 

 

 

なぜそうなってしまうのでしょう。二者関係における愛の伝達は、しばしば以心伝心的になされます。

 

 

 

 

しかし憎悪や攻撃性は、次なる憎悪や攻撃という反応として、かなりむきだしに表現されやすいのです。

 

 

 

 

両価的な感情、つまり愛と憎悪を同時に向けると、憎悪のみが打ち返されてきます。

 

 

 

 

さらに悪いことには、愛の応酬よりも憎悪の応酬のほうが人を興奮させ、夢中にしてしまいやすいのです。

 

 

 

 

ひきこもりでは、とりわけ家族間で、こうした二者関係が生じやすいのです。

 

 

 

 

それゆえ母子密着のような関係は、攻撃性の温床です。家庭内暴力の攻撃性は、まさに「鏡像としての家族」に対して向けられるものなのです。

 

 

 

 

家庭内暴力に限った話ではありません。ひきこもる行為そのものが、一種の復讐や攻撃としてなされる場合もあります。

 

 

 

 

そうだとすれば、ひきこもり状態にあっては、何とかして家庭を二者関係から三者関係へと開いていく必要があるでしょう。

 

 

 

 

言い換えるなら、家族が本人の鏡像であることをやめて、「他者」として振る舞う必要がある、ということです。

 

 

 

 

具体的には、さまざまなルールによって関係性を整理し、たとえば家庭内暴力に対しては、毅然として拒否するという姿勢を貫くことです。

 

 

 

 

わたしが家族向けに書いてきたマニュアルは、その方法論のほとんどが、「家族の他者性」を強化するために工夫されています。

 

 

 

 

もちろんときには、文字通り「第三者」が家庭に入り込んでくることも有意義です。

 

 

 

 

逆に、絶対してはいけないことは、暴力に対して暴力で応ずることです。

 

 

 

 

その理由はもうおわかりでしょう。力ずくでやりかえすことは、暴力の肯定にほかなりません。

 

 

 

 

暴力の応酬は、しばしば鏡像関係を強めるだけに終わってしまいます。

 

 

 

 

わたしは必ずしも、ひきこもりすべてが治療の対象とは考えていません。

 

 

 

 

しかし、ひきこもりを脱するためには、どこかで必ず「第三者の介入」が必須であると考えています。

 

 

 

 

できあがってしまった二者関係の空間を、自力で脱出するのはきわめて困難だからです。

 

 

 

 

これは何も、第三者が部屋に入り込んで本人を引っ張り出すとか、そういう話ではありません。

 

 

 

 

時おりやってきて、ただそこにいて、また帰っていくだけの他者にも十分に意味があるということです。

 

 

 

 

あるいは実際に家まで来なくても、第三者がかかわっているらしい、という情報でもいいでしょう。

 

 

 

 

もっといえば、実は第三者は、必ずしも「人間」でなくてもいいのです。

 

 

 

 

猫や犬などのペットも、しばしば有力な「第三者」たりえます。

 

 

 

 

たとえば「ルール」も第三者です。わたしはいつも、本人と両親との関係が公正なもの、フェアなものであるべきだと言っているのですが、フェアであるためにもルールは必要です。

 

 

 

 

どんな正当な理由があっても、本人だけが努力を強いられるような関係性はアンフェアです。

 

 

 

 

ひきこもり本人に変わってもらいたければまず家族が変わることが大切です。

 

 

 

 

公正なルールに基づいて本人の権利と意見を尊重し、まず家族が率先して変わって見せることです。

 

 

 

 

そういう努力を続けるうちに、少しずつ本人にも変化の兆しがみえてくるでしょう。

 

 

 

 

さて、家族が他者として振る舞ううえで、もうひとつ、きわめて重要なポイントがあります。

 

 

 

 

それは徹底した「会話の重視」ということです。会話、すなわち発音された言葉は、ひきこもりの本人との関係において、大きな意味を持ちます。

 

 

 

 

これにくらべれば、メモや電話、メールといった手段は、グッと見劣りがします。

 

 

 

 

それらは言葉よりは情報に近く、正確な分だけ貧しいからです。ラカンは、言葉を徹底して重視しました。

 

 

 

 

ラカン理論の特異な点のひとつは、人間の心が言葉だけで成り立っていると断定したことです。

 

 

 

 

ラカンの言い方で言えば、「無意識はひとつのランガージュとして構成されている」ということになります。

 

 

 

 

無意識とは心の本質であり、人間の言動はことごとく、言葉が織り成す複雑で巨大なネットワークの中で決定される、とラカンは考えたのです。

 

 

 

 

たしかに極論かもしれません。言葉よりもイメージのほうが豊かだ、と反論されても、わたしは反論しようとは思いません。

 

 

 

 

ただ、心と言葉を直結させるという大きな制約を受け入れるほうが、愛や欲望のメカニズムをリアルにとらえられる、とわたしは考えます。

 

 

 

 

それでは、人はどのようにして、言葉を語る存在になっていくのでしょうか。

 

 

 

 

ちょっと複雑な話になりますが、これはラカン理論のなかでも、一番肝心な部分のひとつです。

 

 

 

 

ここで重要になってくるのが、エディプス・コンプレックスの存在です。

 

 

 

有名な概念ですし、その説明はここではさほど重要ではないので、ごく簡単にすませましょう。

 

 

 

 

このコンプレックスは、母親と寝て、父親を殺したいという、人間にとって普遍的な欲望と関係があります。

 

 

 

 

エディプス三角というのは、「父ー母ー子」の三角関係を意味しています。

 

 

 

 

この関係において、人間は初めて、深刻な欲望の葛藤を経験します。

 

 

 

 

そうフロイトは考えました。どういうことでしょうか。幼児は初め、母子が密着した幸福な一体感を味わっています。

 

 

 

 

このとき子どもは、絶対的な万能感に浸っています。しかしそこに、邪魔者が介入してきます。そう、父親の存在です。

 

 

 

 

ラカンによれば、父親による介入によって、子どもはさまざまに傷つけられます。

 

 

 

 

なんといっても一番のショックは、母親に父親のようなペニスが存在しないことを発見することです。

 

 

 

 

それまで子どもは、母親のことをまるで自分を守ってくれる万能の存在であるかのように感じていました。

 

 

 

 

この「万能の母親」は、ファリック・マザー、すねわちペニスをもった母親という、象徴的なイメージで表現されます。

 

 

 

 

この母親イメージが、子ども自身の万能感を支える幻想だったのです。

 

 

 

 

ところが、万能なはずの母親に、よく見ると実際には父親のようなペニスがついていない。

 

 

 

 

このとき子どもは、万能の母親という幻想を断念せざるを得なくなります。

 

 

 

 

それはひどくつらい経験なので、子どもは何とかして母親にかけているペニスの埋め合わせをしようと考えます。

 

 

 

 

差し当たり、自分自身が母親のペニスそのものになりたいと欲するのです。

 

 

 

 

しかし、その願いもかなえられません。母親が、本当は別のものを欲していることがわかってしまうからです。

 

 

 

 

実は母親が欲していたのは、父親のペニスでした。そこで子どもは、ペニスになることもあきらめ、今度は父親と同化しつつ、その象徴的なペニスを持ちたいと願うようになります。

 

 

 

 

ペニスそのものにはなれず、父親になることもできない。ならばいっそ、父親のペニスの代理物を所有したい。

 

 

 

 

そうすることで、母親=世界と自分との間に生まれたギャップを、少しでも埋められるかもしれない。子どもはそう考えます。

 

 

 

 

ここで、初めて言葉が生まれます。どういうことでしょうか。子どもが欲する「ペニスの代理物」、これこそがペニスの象徴である「ファルス」です。

 

 

 

 

ファルスをもつことは、「ほんもののペニス」をもつことをあきらめて、そのコピーで満足することを意味しています。

 

 

 

 

存在そのものの所有をあきらめて、象徴、すなわち実態を欠いた存在のコピーで満足しようとすること、このあきらめのことを「去勢」と呼びます。

 

 

 

 

実はこれこそが、人が言葉を獲得するための、一番最初のきっかけなのです。

 

 

 

 

言葉とは記号ではありません。記号は「意味の代理物」ですが、言葉は「存在の代理物」です。

 

 

 

 

わたしたちは、母親の存在そのものを失う代わりに、「ママ」という言葉を得るのです。

 

 

 

 

しかし、そのおかげでわたしたちは、母親が目の前にいなくても、この世界のどこかに実在することをやすやすと信じることができます。

 

 

 

 

世界のすべてが目の前になくても、世界の広さを信じることができます。

 

 

 

 

いや、そればかりではありません。言葉のおかげでわたしたちは、「天国」や「前世」といった、存在するかどうかわからないものまでも、信じることができるのです。

 

 

 

 

このように、去勢は人間が言葉を語る存在になるためには、欠くことができないプロセスです。

 

 

 

 

ただし、それはよく誤解されるように「おのれの分際を知る」ということではありません。

 

 

 

 

不安定な万能感を捨てて、しなやかな「自由」を獲得すること、それが去勢の真の効果です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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