ひきこもりの精神病理について
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ひきこもりの精神病理について

2020年10月27日(火)11:34 PM

 

 

 

 

「ひきこもり」は、時には少年犯罪との関連で語られ、あるいは現代の若者が抱える問題の一つとして取り上げられることもあります。こうしたひきこもり、または社会的ひきこもりは、一部で誤解されているように「病名」あるいは「診断名」ではありません。それは、「不登校」などと同じく、一つの状態を呼ぶための言葉です。

 

 

 

ひきこもりは、最近になって急速に増加しつつあると言われていますが、これは誤解です。こうしたケースは、1980年代半ばからおよそ珍しいものではありませんでした。まだ、ひきこもりという言葉がなかった当時、それは暫定的に「無気力症」「アパシー」などと呼ばれていました。

 

 

これらは本質的には、今で言う「ひきこもり」と同じものです。ただし、無気力などといった表現は、実際には事実に反していて、なおかつ「怠け」にも通じかねないような価値判断を含むため、好ましいものではありません。

 

 

その点からは、いっそう中立的な表現である「ひきこもり」という呼び名が一般化したことは、一つの進歩といえるでしょう。この辺りの事情は、「学校恐怖症」から「登校拒否」、さらに「不登校」へといった呼称の変遷にも共通する意義があります。

 

 

 

ひきこもりとは何か

 

 

 

ひきこもりの多くは思春期、青年期における挫折体験などをきっかけにして自宅にひきこもり、成人して以降も何年にもわたって、ほとんど外出することもなく無為に閉じこもり続けている青年たちです。ただし、はっきりとしたきっかけを欠いていることも珍しくありません。

 

 

問題がそれだけならば、まだ精神科での治療対象とは言えませんが、ひきこもりの事例は、長期化するに伴い、さまざまな精神症状が見られるようになることが多いです。経過とともに対人恐怖症状、自己臭、視線恐怖、醜形恐怖、被害関係念慮、強迫行為、心気症状、不眠、家庭内暴力、抑うつ気分、希死念慮などがしばしば起こります。

 

 

このような症状を伴って遷延化の経過をたどりつつある事例の一部が、精神科の治療を求めて受診行動に至ります。こうした若者は、最近になって急増したわけではなく、1970年代から徐々に増加して今日に至ったと推定されています。また、ひきこもりの事例は、日本に突出して多いと考えられます。

 

 

例えば海外メディアでは、「Hikikomori」として紹介され、あたかも日本に特有の現象であるかのように説明されていることが多いです。もしそれが事実であるなら、ひきこもりが増加した背景には、社会文化的な要因が深く関与することになります。

 

 

私は、このようなひきこもりの状態像について、アメリカ精神医学会による「DSMーIV(精神疾患の分類と診断の手引)」から引用した「社会的ひきこもり」の用語のもとで定義を試みました。その定義の一部は厚生労働省の「地域精神保健活動における介入のあり方に関する研究班」による調査研究でも採用されています。

 

 

すなわち、「社会的ひきこもり」とは、「①6ヶ月以上自宅にひきこもって社会参加しない状態が持続しており、②統合失調症などの精神病ではないと考えられるもの。ただし、社会参加しない状態とは、学校や仕事に行かないまたは就いていないことを表す」とされています。

 

 

ただし私は、ここでいう「社会参加」をやや広くとらえることにしています。すなわち、学校や仕事に関わっていなくとも、家族以外に親密な仲間関係があれば、社会参加をしているものとみなします。言うまでもありませんが、この定義に一致するグループには、精神医学的に見て病理性の高いものから、ほとんど病理性とは無関係のものまでかなり多様なケースが含まれることになります。

 

 

このようなひきこもりのケースは、現在どのくらいの規模に達しているのでしょうか。教育評論家の尾木直樹氏が主宰する臨床教育研究所「虹」が発表した調査研究の結果を見てみましょう。主に尾木氏の講演会参加者を中心とした一般市民2934人を対象に行なったアンケート調査の結果、「ひきこもり」という言葉を知っていた人は全体の94.9%、また、身近にひきこもりの若者を知っていた人は全体の29.2%、うち家族にひきこもり事例を抱えていたのは全体の約3%にも及びました。この数字には驚くべきものがあります。尾木氏はこの調査結果から、ひきこもり人口を80万人から120万人の間と推定しています。

 

 

 

社会的ひきこもりの経過と特徴

 

 

 

ひきこもり事例の多くは不登校の経験を持っています。ひきこもりの契機としては、成績の低下や受験の失敗、友人の裏切りやいじめなど、一種の挫折体験が見られることも多いです。その反面、「きっかけがよくわからない」という人たちも少なくないことは極めて重要です。

 

 

ひきこもりになりやすい性格傾向として、内向性、非社交性、「手のかからない良い子」の傾向などは指摘できますが、これらの特徴に一致しないケースも少なくありません。文部科学省が不登校について、「どんな子供にも起こりうる」としていますが、同じことがひきこもりについても当てはまります。

 

 

彼らの多くは、ほとんど外出しないまま自室に閉じこもっており、昼夜逆転した不規則な生活を送っています。長期化すると病的な傾向が憎悪してくることもあり、さまざまな精神症状が二次的に生じてきます。

 

 

具体的には、対人恐怖症症状、およびその変形としての自己臭、視線恐怖、醜形恐怖、対人恐怖からの発展形としての被害関係念慮、強迫行為、心気症状、不眠、家庭内暴力、抑うつ気分、希死念慮、自殺企図などが主なものです。

 

 

ひきこもりの状態に関しては、そのきっかけとなる体験よりは、むしろ長期化していく過程の方が重要です。それは一種の悪循環によって発展し、ひきこもりの状態をいっそう確固たるものにします。「悪循環」とはどのようなものでしょうか。例えば、もし子供がひきこもりになれば、家族はすぐさま強い不安・焦燥感にかられるでしょう。

 

 

このため家族は、子供に対して、不安から叱咤激励を繰り返し、「学校へ行け」「学校をやめるならすぐに働け」などといった圧力をかけ続けるでしょう。しかし、子供自身はそうした家族からの働きかけにいっそうの不安をかきたてられ、強く反発したり不信感を抱いたりするばかりで、いっそう親を避けて深くひきこもろうとします。そこでますます親が焦ります。

 

 

こうした悪循環の結果として、私が「ひきこもりシステム」と呼ぶようなメカニズムが成立していきます。具体的には、社会・家族・個人の三つのシステムの間をつなぐ接点が失われて、各システムがバラバラになってしまい、互いに接点をもつことができない状態が続いていくのです。「接点」とはコミュニケーションのことであり、バラバラの状態は、システム間にコミュニケーションが起こりにくい状態を意味しています。

 

 

もちろん見方によっては、子供がひきこもった以降も、仕事や近所付き合いを通じて「家族」と「社会」の接点はあります。しかし私はここで、家族がひきこもった我が子を抱え込み、一切誰にも相談しない、あるいは家族会などにも参加しない状態のことを「接点がない」とみなしています。こういったバラバラの状態は、いったん成立すると非常に安定してしまうことが多いのです。これは、先ほど例に挙げた親子間の悪循環に似たものが、いたるところに生ずるためと考えることができるでしょう。

 

 

 

二時的な精神症状

 

 

 

もともとは健康な人間であっても、社会や対人関係から長期間隔離されていることによって、精神的にさまざまな問題を生じてきます。こうした対人的な隔離がもたらす病理のメカニズムを身をもって示してくれています。社会的ひきこもりに伴う精神症状は、その多くがひきこもり状態から二次的に生じてきたものと考えられます。その根拠は次のとおりです。

 

 

〇 いずれの症状も、ひきこもり状態のはじまりと前後して起こる。

 

 

〇 いずれの症状も、ひきこもり状態の長期化とともに憎悪する。

 

 

〇 入院など、なんらかの理由でひきこもり状態が中断させられると、これらの症状は急速に改善、ないし消失する。

 

 

〇 いったん消失した症状も、ひきこもり状態が再開されると、再び出現する。

 

 

例えば「強迫症状」について考えてみましょう。強迫症状は、本来は主に「強迫性障害」と呼ばれる病気の症状として知られています。これは「過度な几帳面さ」、あるいは無意味な行為や無意味な観念への強いこだわりを意味しています。

 

 

ガスの元栓を閉めたかどうか、わかっていても何度も確認したくなったり、本やノートの角をきちんと揃えておかないと気が済まなかったり、外出から戻ると手を何度も洗わずにはいられなくなったりするという症状などが代表的なものです。

 

 

一般的には強迫性障害は、かなり治療の難しい疾患であり、環境の変化程度で症状が改善されることはあまり期待できません。しかし、ひきこもり事例に伴う強迫症状は、入院などの環境変化であっさり消失してしまうことが多いです。このように、強迫行為という症状ひとつとっても、ひきこもり事例の強迫症状と本来の意味での強迫性障害とでは、ずいぶんと異なった成り立ちを持っています。それゆえ、これらを同列に論ずることは、あまり意味のあることとは考えられません。

 

 

あるいはまた、彼らを何らかの「パーソナリティ障害」として分類することも、同様の誤りです。「社会的ひきこもり」状態の人は、しばしば「分裂病質パーソナリティ障害」や「回避性パーソナリティ障害」などと診断されることが多いのです。

 

 

このうち、暴力傾向が激しいものについては、「境界性パーソナリティ障害」、親への依存度が高いものは「依存性パーソナリティ障害」、近隣への被害念慮を訴えるものは、「妄想型パーソナリティ障害」などと診断されることがあります。確かに、ある時点の状態だけを考えるなら、パーソナリティ障害的な問題を持つケースは珍しくありません。しかし、診断となると話は別です。

 

 

ここでパーソナリティ障害については詳しく述べるゆとりはありませんが、もしこれらの診断の根拠となるような症状が、明らかにひきこもり状況に起因するものなら、この診断は適切ではありません。パーソナリティ障害とは言ってみれば、幼少期から成人して以降まで一貫して続くような問題行動のパターンを指す言葉です。

 

 

言い換えるなら、ある特定の状況下でのみ起こる問題に対しては、この診断は当てはまりません。なぜなら、ひきこもってはじめて起こり、ひきこもっている状況下でのみ続いている問題に対してこれらの診断を下すことは、もともとのパーソナリティ障害の定義に反していると考えられるからです。

 

 

 

閉鎖空間の精神病理

 

 

 

それでは、ひきこもり状態がどのようなメカニズムによって、さまざまな精神症状を生じるのでしょうか。ここでは「家庭内暴力」を例にとってみましょう。閉鎖空間の病理が、最もはっきりとした形であらわれるのが家庭内暴力であるからです。

 

 

私の調査では、ひきこもりの約半数に、一過性にせよ暴力が伴っていました。そして家庭内暴力もまた、ひきこもり状態から引き続いて生じることが多いです。さらに詳しく見るなら、まず「ひきこもり」が起こり、ついで一種の「退行」が生じ、この退行状態に基づいて暴力が生じるということになります。

 

 

家庭内暴力について、まず強調しておきたいのは「家庭以外の他人の前では起こらない」ということです。これはほとんど、家庭内暴力の定義のひとつと言っていいような特徴であり、家庭内でも家庭外でもしばしば暴力を振るうようなケースについては、別の診断を考えなければならないでしょう。繰り返しますが、家庭内暴力は「家庭という密室」の中でしか起こりません。

 

 

 

なかばは余談ですが、家庭内暴力をふるう子供を、「犯罪を犯しかねないから」と判断して強制的に入院させるような対応は間違っています。まず第一に、例え刃物を持ち出すほどの暴力があっても、それが家庭内暴力であるのなら、家の外で深刻な犯罪を起こす可能性は極めて低いです。また、強制的な入院治療は、退院してから両親への報復的な暴力に繋がりやすいです。

 

 

家庭内暴力に対する有効な対策は、原則として「家庭という密室」を開くことしかありません。これは夫から妻に対する暴力であれ、子から親に対する暴力であれ同じことです。具体的には、①第三者の介入(他人の同居)、②公権力の介入(警察への通報)、③避難、の3通りということになります。

 

 

それではなぜ「家庭という密室」において、人は暴力的になるのでしょうか。私は先ほど、家庭内暴力の背景には一種の退行状態があると述べました。退行とは「幼児退行」という言葉があるとおり、「子供返り」のことを指しています。本来、退行は健康な人なら誰にでも備わった能力の一つであり、それ自体は異常でも病気でもありません。

 

 

社会的に高い地位のある人であっても、家庭でくつろぐとき、あるいは長期間の入院などの場合に、普段からは想像しにくいような幼稚な振る舞いをすることがありますが、これも退行現象です。それが「能力」であるという理由は、他人に依存したり頼ったりする場面においては、退行していたほうが効率が良いためです。

 

 

自我のヨロイを外して、他者からの良い影響を受け入れやすい態勢にすることは、信頼関係さえ基本にあれば望ましいことには違いありません。「催眠」も退行現象の一つであると付け加えておけば、多少はイメージしやすくなるでしょうか。

 

 

ひきこもりの状態で退行が起こるのは、最も典型的には母子密着状態が存在する場合であり、子供は密室の中で母親から一歩通行のお世話を受け続けることによって、容易に退行してしまいます。ひきこもり続けることから起こる不安や恐怖・焦燥感がこれに拍車をかけます。退行してしまえば、こうした苦痛からも逃れることができるからです。

 

 

退行した場合、人間の心の有り様は、大げさに言えば幼児のそれに近づいていきます。小児の精神分析を試みたことで著名な精神分析家であるメラニー・クラインは、こうした心の状態を「妄想ー分裂態勢」と呼んでいます。これは物心がつく以前の幼児が外界をどのように認識し、どのように感情が動かされているかを考える際に、きわめて役に立つ発想です。

 

 

クラインの考え方について、少し詳しく説明しましょう。まず「分裂」のほうですが、これは言ってみれば、成人の場合ならば「白黒はっきりつけてグレーゾーンを受け入れない」ような態度を指しています。クラインによれば、乳児の自我は不安定なものであり、乳児は母親を良いところも悪いところも兼ね備えた一人の全体的な人間として感じることができないと言います。

 

 

乳児の知覚の中では、母親は乳房や手といった部分的な対象として知覚されます。この時母親は、乳児に満足を与えてくれる「良い乳房」と、空腹になっても母乳を与えずに欲求不満をもたらすような「悪い乳房」の二つの異なった別々の存在として認識されます。これらはそのまま、良い母親、悪い母親に対応します。

 

 

クラインによれば、乳児はけっして天真爛漫で善意にあふれた存在ではなく、激しい攻撃性や不安をも内面に秘めています。こうしたネガティブな感情は、それが自分の内面にあるというだけで乳児を不安にしてしまうため、自分の中に存在するのではなく、あたかも外に存在するかのように扱われます。つまり、その存在は「否認」され、外部に「投影」されるのです。

 

 

こうした悪い感情が投影されるのが、先に触れた「悪い乳房」です。乳児の中に、悪い乳房がこのような不安を引き起こしているという迫害不安が生じてくると、乳児は悪い乳房を憎み、貪り食いたいという激しい攻撃性を抱きます。

 

 

このように、自分の内面にある感情を外界の対象に投影し、それがあたかも、外から自分に向けられた感情であるかのように感じること「投影性同一視」と呼びます。自分が他人に怒りを感じている事に気づかず、逆にその他人が自分に攻撃を加えているように感じる場合など、こうした投影性同一視によって説明できます。

 

 

ある種の被害妄想なども、こうしたメカニズムから生じてきます。もちろん、これらは必ずしも、ネガティブな感情のみに限った現象ではありません。「よい乳房」に対してよい感情、例えば愛情が投影されます。これに対する反応として母親から愛情を向けられることで、良い母親イメージは乳児の心の中にも取り入れられ、内的な良い対象となり、まとまりのなかった自我を統合へと向かわせます。

 

 

さて、家庭内暴力事例を多く経験した支援者には周知のように、彼らはしばしば両極端な態度をとる傾向があります。わずかなことでカッとなっては親に殴る蹴るの暴力を加えておきながら、その後あっさりと反省して泣かんばかりに謝罪し、もうしないと誓いを立てます。

 

 

あるいは「こんなダメな人間は死ぬよりほかない」と自己卑下しておきながら、その一方では「おかしなやつらと一緒にされたくない」と治療を拒否する態度なども典型です。こうした態度は、全ての対象を「良いー悪い」のいずれかに分類し、良い対象には良い自分で、悪い対象には悪い自分で対応するという「分裂」のメカニズムによるものと考えられます。

 

 

ただし、それは必ずしも病的なものとは言えません。私を含む多くの「健常者」にも、しばしば肉親や配偶者に対して強く両極端な感情、すなわち「分裂」の経験があることは疑いないからです。「投影性同一視」についても同様で、互いの腹を探り合っているうちに疑心暗鬼になっていく場合など、このメカニズムが働いています。

 

 

家庭内暴力事例においては、本人が自らに対して抱く否定的な感情を、あたかも両親が自分に対して抱いている感情として感じることが多いです。これが「親はずっと自分を迫害してきた」「役立たずの自分を追い出そうとしている」などといった印象となり、しばしば激しい暴力を誘発します。

 

 

これと全く同じことが、近所の住民に対する被害妄想的な訴え、例えば「近所中が自分のことを噂している」「隣家の住人が自分の動静をいつもうかがっている」「向かいの家が自分が家にいると車の空ぶかしなどで嫌がらせをしてくる」などといった思い込みに発展する場合にも当てはまります。

 

 

ここで述べてきたように、家庭内暴力の事例、さらには多くのひきこもり事例において、こうした「妄想ー分裂態勢」への退行が生じています。これがさまざまな精神症状の温床となっていることはほぼ確実と言えるでしょう。例えば強迫症状については、それがまさに投影性同一視に基づいており、暴力との関連性が高いという指摘もあります。

 

 

 

社会的ひきこもりにおける行為の不可能性について

 

 

 

社会的ひきこもりについては、とりわけその欲望と行為のあり方において、病理性を想定することが可能になるでしょう。彼らを無気力、ないしアパシーとみなすことは、表面的な印象に基づく錯覚でしかありません。確かに彼らには長期的な目標はおろか、たった今自分が何をしたいのか、何を欲するのかという問いの答えすら持ち合わせていないように見えます。

 

 

あるいは、もし目標があり得るとしても、それは「小説家」「ミュージシャン」「大学教授」といった紋切り型なまでに誇大で俗っぽいものであることが多いです。それは言うならば、本物の欲望が持てない代わりの「借り物の欲望」に見えてしまうこともあります。

 

 

しかしそれでも厳密には、彼らに「欲望がない」ということはできません。精神分析によるならば、彼らもまた間違いなく欲望を持っているはずです。ただそれに明瞭なイメージを与え、きちんと名指すことが困難であるだけなのです。それではなぜ、彼らの欲望が希薄なものに見えてしまうのでしょうか。

 

 

それは何よりも、ひきこもり事例において行為が欠けているためでしょう。かつてスチューデント・アパシーについてある専門家は「負の行動化」ととして解釈しました。つまり「行動しない」という行動と考えたのです。その卓見は十分に評価しつつも、しかしやはり、行為の欠如と行為そのものとを同列に論ずることが困難ではないでしょうか。

 

 

「行為の欠如」は、必ずしも「欲望の欠如」を意味しません。しかし「行為」と「行為の欠如」は明らかに異なった欲望の表れです。こうした前提のもとで、ひきこもりにおける行為の欠如について検討してみましょう。

 

 

 

行為の阻害と論理的時間

 

 

 

病理的なひきこもり事例において、その病因として最も考えられるのは「他者性の欠如」でしょう。

 

 

もちろん厳密に言えば、家族も他者には違いないので、ここでいう「他者」とはさしあたり「家族以外の他人」という他者イメージを指すことになります。家族が他者でありにくいのは、先ほど述べたような「退行」のメカニズムによって密着した親子関係が成立していることが多いためです。

 

 

そこではしばしば、家族が本人にとって、あたかも「自分の一部」であるかのように錯覚されやすい、すなわち、「家族の中の他人」は見えにくくなってしまっています。こうした「他者性の欠如」が、行為の欠如の一因ではないでしょうか。

 

 

ひきこもり状態において、彼らは無気力ではありませんが、さまざまな要因によって無為であることを強いられています。それと同時に、彼らの生活には比喩的な意味において時間が流れません。こうした無時間性は、例えば「これまでの〇年間は、振り返るとあっという間だった」という彼ら自身の言葉や、あるいは学校時代のいじめ体験がいつまでも鮮明に記憶されているような状態にあらわれています。

 

 

ここで指摘する無為と無時間の感覚とは、明らかに平行関係にあります。時間と行為については、精神分析家のジャック・ラカンが紹介する3人の囚人の話がよく知られています。これは時間と行為との関係が、極めて論理的に示された寓話として重要なものです。以下にそれを簡単に紹介します。

 

 

3人の囚人に5枚の円盤が与えられます。3枚は白で2枚は黒です。囚人たちの背中に円盤が貼り付けられます。他の囚人の背中を見ることはできますが、自分の背中を見ることはできません。もちろん会話も禁止されます。ゲームの規則は、自分の背中の円盤の色を論理的に推論して言い当てることができた囚人だけが解放されるというものです。

 

 

規則の説明がなされた後、3人の囚人の背中には、3つとも白い円盤が貼られます。ゲームはあっけない結末を迎えました。3人の囚人は一斉に走り出し、3人とも正しい回答を述べて解放されたのです。彼らはどのようにして正しい答えを得たのでしょうか。その思考の過程は以下のようになります。

 

 

〇 囚人Aは、他の二人の囚人B、Cの背中が白いのを見て考える。

 

 

〇 もし自分(A)の背中が黒なら、囚人Bの眼には黒と白の円盤が見えているだろう。

 

 

〇 ならば囚人Bはこう考えるはずです。「もしも自分の背中も黒なら、囚人Cは駆け出しているはずだ」「なぜならCの目には黒の円盤が2つ目に入っているのだから」「しかしCは駆け出そうとはしない」「ということは、私(B)の円盤は白なのだ。駆け出そう」と。

 

 

〇 しかし誰も駆け出す者はいない。

 

 

〇 ということは、私の最初の仮定は誤っていたのだ。

 

 

〇 すなわち、私(A)の背中の円盤は白なのだ。

 

 

この判断には、明らかに時間的な要因が含まれています。囚人Aの論理は「自分以外の2人の囚人が駆け出さないところを見た」という瞬間と、そこから下される事後的な判断なしには成立しないためです。また、この判断を下すには、誰よりも早く駆け出す必要があります。誰かが駆け出す瞬間を見てしまうと、論理的な判断が不可能になってしまうからです。結論を出すには、誰よりも早く判断し、駆け出す必要があります。これを精神分析家は「せき立て」と言います。

 

 

「せき立て」は、このようにして断言=行為の主体を生み出します。なぜならラカンが指摘するとおり、「あらゆる判断は、本質的に一つの行為である」からです。この寓話は、「ひきこもり」を考える際に、きわめて重要ないくつかの示唆をもたらしてくれます。

 

 

病理的なひきこもり事例において、欲望が存在するにもかかわらず行為がうまくいかないのはなぜか、それは先に触れた「せき立て」の欠如に基づくでしょう。それではなぜ、「せき立て」が起こらないのでしょうか。私は先ほど、ひきこもり状態における閉鎖空間の精神病理を「他者性の欠如」として述べました。

 

 

多くのひきこもり事例は、本来的な意味での「他者」が存在しない世界に住まわされています。それは「ひとりの世界」ではありません。ラカンを援用するなら、そこは「自分」と「自分の鏡像」という、二者関係の世界です。

 

 

家族はこのとき、まさに「本人の鏡像」、言い換えるなら、完全に自分のコントロール下にあるかのような存在としてしか認識されていません。他者とは、こうした二者関係の外側、まさしく「第三者」の位置を占めています。要するに、最低3人以上の人間関係があってはじめて、他者の他者性が保証されることになるのです。

 

 

このとき本人は他者の存在のみならず、他者の欲望をも目撃することになります。そして、これを一つのきっかけとして、「せき立て」が起こるのです。ではなぜ起こるのでしょうか。二者関係の相手は鏡像であるがゆえに、本人は相手の出方をひたすら見守りながら、行動のきっかけをつかもうとします。

 

 

しかし、見守り続けようとすること自体が、結果的に本人の行動を縛ってしまいます。しかし三者関係における他者は、自分に見えないところで、いつ自分を出し抜くかわからない存在です。その存在の裏をかくには、少しでも先手を打って行動を開始するしかありません。これが「せき立て」の効果です。

 

 

見方を変えるなら、ここにあるのは「羨望」と「嫉妬」の違いといってもいいかもしれません。いずれもメラニー・クライン の用語でもあります。クラインは、人間の欲望が乳幼児期の「羨望」から発達とともに「嫉妬」へと成熟していく過程について述べています。

 

 

二者関係の世界では、欲望は「羨望」の形をとりやすいです。相手が持っていて自分が持っていない何かが存在する場合、欲望はその「何か」を獲得する方向ではなく、羨望の対象である相手を破壊したり支配したりしたいという方向へと向けられます。ここからは本質的な意味での「行動」は出てきません。

 

 

それは羨望の対象が、しばしば部分的な対象、すなわち幻想でしかないことが多いからです。しかし三者関係では「羨望」は「嫉妬」に変わります。嫉妬の対象は羨望よりも現実的で全体的なものであり、それゆえに欲望の方向は、対象を所有している相手そのものにではなく、対象そのものへと向けられやすいです。

 

 

その時相手を出し抜いて対象を獲得しようと考えるなら、すぐにでも行動を起こすほかないのです。議論の流れを、もう一度整理してみましょう。ひきこもりの空間は、そこが二者関係の密室であるがゆえに、本質的な意味での「他者」が欠けています。

 

 

そこでは欲望は羨望の形をとりやすく、人は欲望の対象よりも、それを所有している相手をコントロールすることばかりに熱中し、欲望の実現が「せき立て」られることはありません。このため、結果的に欲望は行動に至ることはありません。

 

 

以上はひきこもり状態で起こっていることの、あくまでも比喩的な表現ではあります。しかし、「欲望があっても行動できない」ことの一つの解釈として、それなりに有効なものではないでしょうか。

 

 

 

最後に

 

 

 

ひきこもり事例における閉鎖空間の精神病理、及び行為の困難性について、主として精神分析的な観点から考察してきました。ひきこもり事例に行為を取り戻す方法として、私はさしあたり親密な仲間関係を考えています。

 

 

つまり仲間関係(=第三者の存在)をもつことで二者関係の閉鎖空間が開かれ、さらにそこで生じる「せき立て」および「嫉妬」の効果が、本人に行為を取り戻させるということです。ただし、不用意になされる「第三者の介入」は、本人をいっそう傷つけてしまう可能性もあります。

 

 

今後の課題は、本人を傷つけない、あるいは傷つくことがあっても十分に修復可能な過程で、この介入を実現させるための具体的な方法論ということになるでしょう。

 

 

 

 

 

 



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