不登校・ひきこもり体験記~強迫性障害・親との確執~
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不登校・ひきこもり体験記~強迫性障害・親との確執~

2020年10月06日(火)4:29 AM

 

 

 

世界の成り立ちが崩れていく、自分の存在が自分でなくなっていくとき

 

 

 

僕が不登校になったのは中学一年生の時です。小学校六年生の頃から行けない日もあったのですが、中学に入ったら、オリエンテーションの時からいきなり景色が違ったのです。最初の説明会で体育館に集まって、体操服や教科書を揃えるのですが、その時から違うのです。世界の成り立ちから始まり、全ての景色が今までの見え方と全然違いました。

 

 

緊張もあったのかもしれませんが、これから中学生だというオリエンテーションで圧倒されてしまって、世界の見え方や、世の中っていうのはこういうふうに成り立っていたという今までの認識が崩れていくような、価値観がひっくり返るくらいのショックがなぜかありました。

 

 

それでも最初は頑張って学校に行っていました。その後、一学期の中間テストが終わった頃からいきなり行けなくなってしまったのです。自分の意思で行かないのではなくて行けませんでした。そして外に出ることもできなくなってしまいました。最初は親もびっくりして、無理やりに連れて行こうとしましたが、僕にとってはそういう次元ではありませんでした。

 

 

引っ張って校門まで連れて行けばなんとかなるという問題ではなくて、とにかくそれ以前のパニックで、世界の成り立ちが崩れるというか、自分の存在が自分ではなくなっていくといった感じでした。その頃、親は、教育相談の先生や児童相談所、精神病院とかあちこちに相談に行きました。

 

 

僕としても、自分の存在が崩れていく感じを解明したかったので、藁をも掴むといった感じで一緒に行って、いろんな人に会ったりしましたが、景色の見え方はどんどんひどくなっていきました。夢の中の景色で、カラーじゃないようなカラーの夢、そういう見え方をするのです。

 

 

思い込みかもしれませんが、本当に僕にはそう見えました。その時僕は、自分の存在が崩れるような気がしていたので、街を歩く時に息を止めました。「あそこまで息を止めなきゃ」「十メートル先、十メートル先」というような、今考えるとゾッとするような状態に陥っていました。その後もどんどんひどくなっていきました。

 

 

夏休みになり、ようやく合法的に休める状況になりました。しかし、外に出られない、家の中でも歩けないといった状態が、中二の冬くらいまで続きました。その間、「とにかく自分の外部のものをシャットアウトしたい」と手を洗い風呂に入っても、外部との繋がりが取れないような気がして、そういう行為に一日中追われる生活をしていました。

 

 

 

自分の生活は自分で作る

 

 

 

強迫観念が強くなると、自分が生活しているという感じではなくて、自分の体から外部のことを洗い流すことに始終追われます。それだけの生活が一年半ぐらい、中二の十二月頃まで続いていました。中二の冬に、なぜか急に母親も自分から専門書を読むようになってきて、たまたまAという施設を見つけました。そこでは不登校の子供達が共同生活をしていました。

 

 

僕もその頃にはようやく、親が探してきた本でも触れるようになっていました。本で読んだ森田療法というのとAのやっていることが偶然似ていて興味を持ちました。そこは子供が主体で、スタッフも一緒になって生活を作り上げていくという仕組みでした。スタッフの言う通りに子供が動くのではなく、子供が主体でその子供ができること、やりたいことをやって、行動している間はスタッフは見守っているというところでした。

 

 

そこに行くまでの過程が大変でした。大変なのは、「自分の中で思い込んでいるしがらみ」でした。外部との関係を完全にシャットアウトして、しがらみを切り捨てて、つまり自分の存在以外を全部切り捨てて外に出て行きたい、全てを洗い流して生きたいと考えていました。親との関係も僕の中では完全に切れていて、ただ単に一緒に住んでいるだけでした。

 

 

だからすごく大変な思いをして親になんとか言ってみたら、すごくほっとしました。とりあえずは逃げられるというような感じでした。そこのスタッフはかっこいい人でした。Wさんという人なのですが、僕がAに行った時は他に誰もいなくて、そのWさんというお兄さんと二人で暮らすような感じでした。山の中で、それこそアルプスの少女ハイジのような感じでした。

 

 

僕にとっては夢のようでした。それまで一年以上、とにかく洗い流すだけの生活だったのが、やっと自分のやりたい事というか行動できるというか・・・・・。例えば食事を作って食べるというごく当たり前のことを、楽しく当たり前のこととして出来るというのが、「こういう生活をしなくてはいけないんだよな」という感じでした。

 

 

しかし、そこも期間限定で行ったので家に帰らなければならないのですが、家に帰ったその日は良かったのですが、すぐにまた元の生活に戻ってしまうのです。つまり、また、外部をシャットアウトした生活になってしまいました。

 

 

 

家に戻ると牢獄のような気がする

 

 

 

その頃、Bという施設の存在を知りました。Bは学校に行っていない子が来ていました。そこなら、まともな生活ができるのでは、生きている心地がする生活ができるんじゃないかと思いました。そして、Cという不登校の子供が共同生活する寮に住んで、Bに通うという生活が始まりました。

 

 

その頃、A以上に、まともに生きている心地を感じました。家にいるのとは感覚が違いました。家だと自分が存在しているという実感が得られませんでした。もちろん、AもCも、大人達が運営してその中に子供がいるのですが、子供自身が主体となって、自分たちで自分の生活を作っていくという環境がありました。

 

 

多分どこの家もそうだと思うのですが、家庭は親が作るものです。子供は、そこで一緒に生活を作っていくというよりは、ただ単に参加しているだけです。親が主体で、それに納得できれば気分よく生活できるのでしょうが、納得できないと、とんでもない牢獄のような気がしました。

 

 

本当は、子供が主体的に、自分にとって必要なやるべきことを見つけられる落ち着ける場所というのが、家庭の在り方なのだと思うのですが、うちの親も世間一般の親と同じように、すごく保守的というか封建的というか、親の言うことだけ聞いていれば良い、親の言うことに文句があるのはおかしいという感じですごく抑圧されていました。

 

 

CからBに通う生活が始まって、だいぶまともになれていろいろな状況が見えてきて、自分の辿ってきた経過など、冷静に自分を判断できるようになりました。その後、いろいろな事情があって、Cを出て、自宅からBに通うことになりましたが、そうなるとまたひどい生活に戻ってしまいました。

 

 

家では自分の生活づくりができませんでした。どうしても自分が家の付属物になってしまう感じがして、経済的な自立ができていないからなんでしょうが、すごく制限がありました。自分の思うような生活スタイルができませんでした。そんなこともあって、Bに通っているうちに、帰りたくなくなってしまいました。「帰れない」のではなくて、「帰りたくない」のです。

 

 

まともな気分で人と接したり、勉強をしたりできる状況を、なんとか増やせないかと思って考えた方法が、昼と夜にBに通うというものでした。Bは、昼間は学校に行けない子、夜は地域の子が勉強をしているのでその両方に通いました。今考えるとそれが、僕にとってすごく今の生活の土台になっていると思います。Bに昼間来る子供たちの多くは、すごく傷ついていました。

 

 

ほとんどの子が、自分の価値観を真っ向から否定されてすごく傷ついていました。Bのスタッフの人たちの良いところは、そういう人たちに対して、完全にゼロからOKという感じに受け入れてくれたところです。自分の気持ち的にはまともな生活がしたい、一日中風呂に入って手を洗っているだけの生活ではなくて、まともに生きたいんだというところを認めてくれました。

 

 

僕らからしてみれば、その気持ちを初めて認めてくれたところがBでした。夜通ってくる子は、普通に学校に行っている子供たちですが、なぜかBではそういう人たちとも接することができました。自分で自分の生活を切り開いている実感があったので、外部をシャットアウトする必要がなかったのだと思います。幸いそういう生活を続けることができました。

 

 

しかし、中三の夏頃になって、また自分の存在が希薄になってきたのか、状況がおかしくなってきました。また世界の見え方が変わってきたというか、中一の時に見たあの世界ではないけれど、また違った世界が見えてきたのです。また外に出られなくなってしまって、部屋の窓を全部閉め切り、二階の自室に一か月くらい閉じこもりました。食事もあまりとれなくなってしまいました。

 

 

二階にある冷蔵庫にはビールが入っていて、ビールばっかり飲んで生活していました。ビールを飲めば眠れるし、眠れば異常な世界を見なくてすむし、感覚を麻痺させれば嫌なことを洗い流そうとしなくてもすむし、そういう生活を続けていました。

 

 

 

みんなが自分の存在を認めてくれる

 

 

 

ここでラッキーだったのが、Bのサマースクール、中1の時に行ったAでキャンプをやったのですが、それに参加して窮地を脱しました。家にいると自分の存在が希薄になるし、その頃親は呆れ返って、父親なんか僕が手を洗ったり、風呂に入ったりしていると殴りに来ました。

 

 

でも僕は抵抗できませんし、触りたくないし、殴られてひどい顔になって・・・・そういう状態でした。とにかく家にいてはダメなんだという感じでした。それで施設の人と相談して、またその寮に入ることになりました。それが中三の九月でした。それでまた一段とグレードアップした生活ができました。

 

 

翌年の三月までの期間、生き返ったというか、中一の頃に不可解だった景色について、その成り立ちが納得できたというか、何で自分が外部をシャットアウトしなくてはならなかったのか実感として理解できた気がしました。そう感じられるようになったのは、寮で共同生活する中ではある程度お互いを認め合い、理解しあって、嫌なことを譲歩し合う関係が出てくるので、その中で皆が自分の存在を認めてくれていると実感できたからです。

 

 

自分の存在感が希薄になるとやばいんだ、生き生きとした生活を送れるような状況を自分で作り出すことができれば、ある程度大丈夫なんじゃないかと思えるようになりました。学校には行きませんでしたが、Bで勉強はやっていました。お正月も家に帰らずに勉強しました。一応自信はついたのですが、今家に帰ったらやばいんじゃないかと考えて、施設のスタッフの方に相談して高校に行くことにしました。

 

 

高校はあまり考えていなかったのですが、寮のある高校なら合法的に家出できるぞと考えました。中学校に行っていなくて成績がないので公立高校が受験できず、全国の私立高校を探し回って条件に合った学校を二校見つけました。一つは横浜、もう一つは大阪の学校で、大阪の学校に合格して行くことになりました。

 

 

高校に入って、自分の存在が崩れ落ちる感じがなくなったわけではありませんでしたが、なんとか自分なりの認識ができてそれと付き合えるようになってきました。また逆に、高校で多くの人に会ったことで、強迫観念的なものというのは実は自分にとって必要なのではないかと思えてきました。

 

 

自分の存在が希薄になって、自分で納得できるリアルな生活をできていない時、状況を改善しなくてはならない時には、シグナルみたいに必ず強迫観念が出てくるのです。それがなくなると、自分にとってリアルな生活を確立する必要もなくなってしまうのかもしれません。ですから、強迫観念的思考パターンを大事に思うようになりました。

 

 

自分の生活を確立しようと思うと世間的には無茶苦茶になってしまうので、高校の時には寮が閉鎖されるような事件を起こして停学にはなりましたが、退学にはならずになんとか卒業できました。その後、自分にとって最も気持ちの良い生活を確立しようと、大阪から横浜に出てきました。

 

 

僕がきっかけなのか知りませんが、その頃両親が離婚寸前で、母と弟が東京から大阪に引っ越してきて、またそこで家族と暮らさなければならない状況を作ってしまいました。でも、自分の生活を確立するためには親元にいたのではだめだ、すぐに自立するべきだということで横浜に出てきました。今は通信制の大学に行って勉強しています。

 

 

特に大学に行きたかったわけではありませんが、単なる憧れですが先生になりたいと思っていました。Bにはすごく魅力的な先生がたくさんいたのです。それまでは学校の先生しか見たことがなかったのですが、Bの先生を見て、先生というのはすごくかっこいいんだなと思ってとにかく教職はとりたいと思って勉強しています。

 

 

いろいろな仕事をやりましたが、今は塾の先生をやっています。学校に行っている生徒も来ているのですが、不登校の子供が多い学校がありまして、その学校から僕のいる塾に数人の不登校の生徒が来ています。学校に行けない子供を僕が教えているという不思議な状況ですが、目標に向かって毎日頑張っています。

 

 

 



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