ある家族の不登校体験
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ある家族の不登校体験

2020年04月30日(木)2:22 AM

「自分の魂を安売りするな。自分の気持ちに素直に、正直になれ。自分らしく、自分らしく個性的に生きるとはそういうことだ・・・・たしかに子どもにはそう言ってきたように思います。そして、息子が自分の気持ちを正直に言ってきた結果、友達がひとりもいなくなり、自分の意見を譲れない人間になっていたというんです。その責任をわたしに取れと、毎晩のように責めたてられています」




市役所に勤め、労組の「辣腕書記長」として鳴らした人とは思えないほど、父親はやつれていました。そして、同席する高校教員の母親は、どこまでも遠慮深かったです。2人はかつてわたしが「若者たち」を口ずさんであこがれていた全共闘時代の仲間同士でした。




2人の息子、Aさん(20歳)は、小学校入学まで、日中は父方の祖母のところに預けられて育ちました。内孫がいない祖母は、Aさんを着せ替え人形のようにかわいがったといいます。その子育てに不安を抱いた母親は、Aさんの入学前に退職を決意しました。




その後、Aさんが5年生のとき、退職した職場から母親に講師の口がかかりました。子育てが一段落し、教育への情熱も捨てがたく、復職しました。そのころ、父親は専従書記となり、オルグ活動に余念がありませんでした。




Aさんは、中学に入ってまもなく、「ふつうの子どもならどうってことのない友達同士の挨拶や雑談をすることが不安になった」といいます。父親にそれとなく胸の内を話してみました。




「あのときはわたし自身、組合内部の人間関係に疲れていました。理屈と現実の狭間で、わたし自身の人間性が問われていたんです。だから自分に言い聞かせるつもりで、子どもにも、気にするな、無理して合わせることはない。去るものは追わずだといいました。そのとき十分に聞いてあげなかったんです」父親はそう振り返って後悔します。




中学1年の後半から、Aさんは不思議な寂しさを感じ始めたといいます。彼が友達に話しかけると、「わかった、わかった」と言いながら離れていき、それからあとはまったく声をかけてくれなくなったといいます。Aさんはそのまま仲間はずれにされるのが怖くて、友達の会話の中に入っては注目されようと努めました。




その焦りが、結局は、友達の話の腰を折ってしまったり、自慢話と受け取られることになってしまい、見栄っ張りな嫌われ者になっていったようです。




Aさんは、自分から離れていく友達を見ながら、両親に言われてきた「自分らしさ」にしがみつきました。彼は自分が納得できないと、どこまでも議論して、自分の正しさを主張しました。




「心が鈍感なやつ」「理屈っぽいやつ」と言われても、「自分の魂を安売りするな」という父親の口癖を頼りにしました。しかし、「友達になりたい」というAさんの意に反して、状況はますます孤立化に向かっていきました。




日曜日の夜、夕食を済ませようとしたとき、Aさんがふたたび悩みを父親に打ち明けました。「このときもわたしは子どもの話を簡単に聞いてしまったんです。自己主張もほどほどにしろ。歩み寄ることが友達の痛みを知ることだ。人との付き合いは理屈どおりにはいかないものだ。自分を認めさせるには、相手を認めることだ」と強く言ってしまったんです。すると、息子はそれはお父さんが嫌う妥協じゃないか。




いままでそれは個性を失う屈辱的なことと僕は思っていたんだ。いまさらそんなことを言われても・・・・と泣き喚いたんです」信じてきた「個性」に見捨てられたというAさんは、中学2年になると、不登校になりました。




学校に行くと体がしびれ、帰宅すると治まるという状態が続きました。Aさんは自分以外の友達はみんな人との付き合い方に慣れているように思え、学校にいることが極度につらくなったようです。




両親ははじめこそ慌てましたが、特に父親は、「お前が主体的に選んだことだ。納得していればいい」と、家にいることを認めました。Aさんにとって、「1日は長く、1年は短かった」ようです。




Aさんが18歳の誕生日、父親はわが子の「主体的選択」に疑問を感じ、こう言いました。「いつめでブラブラしているんだ。目標はないのか。学校だけが人生とは思わないが、働く意欲まで失ったのか。この状態を続けていたらどうなるか、おまえならわかるだろう」




父親は、「どの子にも潜在的可能性があり、まわりがとやかく言わなくても、自分から歩みだす力がある」と信じていました。その苛立ちでもありました。母親も進学校を目指す妹に、女性の自立を話題にすることが多くなりました。Aさんは家族のみんなから、自立できない兄貴と思われているようでくやしかったようです。




「わたしたちは戦中派の親たちの抑圧的な生き方を戦後民主主義の中で否定的に見てきたと思います。もっと自分を大切にしていきたい、それ個性尊重でした。そして、そのことを仲間と確認しあいながら歩み、気づいてみたら、高度経済成長が生活面を個性的につくってくれていたんです。この生きる自信を子どもに当たり前に強要していたのかもしれません」それは父親の慟哭にも近いものでした。




人は人なくしては生きていけません。自分の個性を大切にすることは、他人の個性も尊重することです。それは、わずらわしさをともなうことかもしれません。でも、だからこそ、そこに人とのつながりを感じることができるのです。




Aさんは関東自立就労支援センターの相談室に通いながら、人は孤立した無縁な存在ではないことを学んでいます。




ある若者がこう言いました。「母は父の通訳だった」子どもたちはいくつになっても、そのときそのとき親の本音と直接出会い、世代葛藤をしながら、高等数学でも割り切れない人間関係や人生を学んでいきたいと思っています。




子どもにとって親はもっとも身近で、いつまでも裏切らない人間関係のモデルであってほしいのです。そのことを実感する意味でも、親や大人は子どもたちにもっと自分の過去をかしこまらないで語ったほうがいいと思います。




夫婦や親子になったいきさつを、わが子に何かのついでに、それとなく話したことが、わたしたちはあるでしょうか。



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