対人恐怖と引きこもり
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対人恐怖と引きこもり

2020年03月04日(水)10:10 AM



心の問題は、その時代を映し出す鏡であるとはよく言われることです。





そういう点では「引きこもり」は今、注目を浴びている問題です。この問題が社会的に注目されるようになったのは、引きこもり状態の若者の犯罪や事件が大きくマスコミなどで取り上げられたことが影響していると思われます。





精神科医の斎藤環氏は社会的引きこもりの定義として「20代後半までに問題化し、6カ月以上自宅に引きこもって社会参加をしない状態が持続しており、ほかの精神障害がその第一原因とは考えにくいもの」と定義しています。





この問題を疾病単位でなく状態像として取り上げ、またそのような状態にいる若者が数十万人いるであろうと指摘しています。この点が大きく注目をされるきっかけにもなっています。このようにきわめて今日的に注目されている問題に対し、対人恐怖はいささか時代を反映させた問題としては古くなったようにも思われます。





しかし、かつては青年期の問題として、さらには日本人に非常に多い神経症問題として論じられていた時代もありました。まずは、そのような日本が今ほど豊かでも国際的な交流も少ない時代に、多く論じられていた対人恐怖の問題について振り返りながら、今日的な引きこもりの問題を対比させて社会的な視点から考えてみたいと思います。





引きこもりのケースの中でも、もともとは人中に出ると緊張したり、人の目が気になり、外に出られなくなる場合もあり、対人恐怖的な問題の訴えも見られます。そのことを踏まえつつ、少し対人恐怖の概観について取り上げてみたいと思います。





対人恐怖とは





対人恐怖の一般的な定義としては、その内容が一つの症状につけられた診断名ではなく、いずれもが対人状況において生じる不安や緊張を基本的にもっており、それと結びついた症状です。





その主な問題としては①対人緊張(人前で緊張することを気にして悩む)。②赤面恐怖(緊張し赤面することを、人に見られることが恥ずかしくて悩む)。③視線恐怖(人の目が気になる場合と、自分の目つきが周りの人を不快にしているのではないかと悩む場合がある)。④表情恐怖(自分の表情がこわばり、ぎこちなくなり、自然にふるまえない)。⑤醜貌恐怖(自分の容貌が醜いために、周囲の人にいやな思いを与えているのではないかと思い悩む)。⑥自己臭恐怖(自分の身体からでる臭いが周囲の人を不快にさせているのではないかと思い悩む)。





このように病態的にも様々なレベルの問題を、すべてが対人状況において発生する症状の状態像からまとめた症状群です。今日ではこのように 大くくりにして、対人恐怖と診断することはなくなっています。病態水準としてもかなりの違いがあります。





状態像からまとめた診断名であるところは、対人恐怖も引きこもりも同じです。対人恐怖の場合は、その問題を抱えている人の訴える悩みを中心に、つまりは人に会うのが怖いという主観的心情から、その訴える内容を中心に 状態像をを分類しています。





それに対して、引きこもりは第3者が見た状態像から記述しています。これは単なる表面的なことのようでありますが、意外に深い意味をそのとらえ方の違いに見て取ることができます。





つまりは、人が怖いという主観的な訴えを中心にこの問題を考えていった時代から、その結果として外へ出るのが苦痛で出られなくなり、人と関われなく、引きこもった状態になっているという行動化した状態にその主眼が移ってきていると考えられます。





「意識的な悩み」から「行動化した状態」に問題の主眼が移ってきています。それは今日的な時代状況を反映しているといえなくもありません。この点に関しては、引きこもりと関連する不登校にも言えるのではないでしょうか。もともと不登校が注目された当時は、学校恐怖症という当事者の心理的状態を記述していました。





対人恐怖と同じようです。それが登校拒否となり、学校へ行かないことに対する出張が込められた言葉になり、現在では不登校という状態だけを記述した言葉に変わってきていますより包括的に問題をとらえようとする中に、このような言葉がもつ時代性や社会性の反映をやはり感じられるように思います。





時代的変遷について





日本は経済的にも豊かでない発展途上の時代、海外から新しい知識や技術を取り入れ、追いつき追い越せを合い言葉に経済成長に邁進していた1960年から70年代にかけて、大学の保険診療所や保健管理センターに来談してくる学生に対人恐怖の学生の割合は非常に多く見られたといわれています。





高橋徹(大学生の神経症・社会精神医学)は、10大学の保健管理センターに関わった精神科医が1975~1980年までの間に診た神経症と診断した事例の中で、対人恐怖と考えられる症例は11.3%であったといいます。





さらに一般大学生においても、ある大学の新入生2418人を調査した結果、「人前で赤面しやすい」995人(40.1%)「他人の視線が気になる」798人(32.2%)であったといいます。





さらには、小学生から大学生までの2500人について調査した結果、15歳から18歳の者で30%以上の者が、対人恐怖的傾向をもっていることを明らかにしています。同じような報告はこれ以外にも多く見られました。このように一般大学生でも、対人恐怖的な悩みは多くの者が抱えており、非常に親和性のある問題でした。





それは、青年期心性と結びついた時代性を感じさせる問題でもありました。自我に目覚めた青年が初めて社会に出て行く場面で、その社会からどう見られ、評価されるか、非常に気にしており、できれば認められ評価されたいと希望を強く持っており、それが逆に緊張感や劣等感を増幅させているところがありました。





まだ日本全体があまり豊かとは言えず、経済的に先進国に仲間入りすることを目指して励んでいる時代です。そのような大人の姿勢や価値観に若者は反発することはあっても、結局は大きな流れにのみ込まれて行ったといえます。





この時期、対人恐怖と無気力大学生といわれるスチューデント・アパシーが注目されていました。スチューデント・アパシーの場合、大学を長期に留年し、本業である学業には身が入らず回避しているが、それ以外での社会生活ではほとんど問題なく過ごしていました。





80年代以降特に後半になると高度経済成長に伴い、大学のレジャーランド化が指摘されるにつれ、個人的に真剣に悩むことを表に出す学生はだんだんと少なくなっていったように思います。





わたしの個人的なごく狭い印象ではありますが、この頃、心理療法を求めてくる対人恐怖の悩みを持った女性が多くなっている印象を持ったように記憶しています。





境界例やアダルトチルドレンが注目される前です。女性の総合職がいろいろな会社で話題になったころです。その後90年代になり、バブルがはじけてからは、大学生の問題は背景に追いやられ、時代は中学生や高校生の問題に社会的注目を向けるようになってきます。





このころから町中の若い人たちの行動に違和感を覚えるようになりました。一番それを身近に感じるようになったのは、電車の中で若い女の子がものを食べたり、化粧を平気でするようになったことです。人前できわめて個人的な化粧や通勤用の電車という空間でものを食べることを恥ずかしいと思わなくなってきました。





自分の行動が、人に見られることを意識し、恥ずかしく思うことが良い意味でも悪い意味でも人間の行動を律してきたように思われますが、その規範性がずいぶん緩くなってきたと考えられます。時はまさに バブルの絶頂期からはじけるまでの時期と重なっています。





対人恐怖的な訴えを一般大学生の間でもあまり聞かなくなったのもそのころからのようです。このような中で対人恐怖の問題そのものがなくなったとは思われませんが、意識的に訴えていた悩みがより潜伏化してきたのではないかと考えられます。





それに対応するかのように不登校の問題が注目されてきます。まさに行動化した問題です。1978年には約1万人であった不登校の中学生の数が、82年には 2万人を超え、87年には3万人になっています。





そして90年代になってもますます増え続け、92年には5万8千人になり、97年には8万4千人、そして 99年から今日まで 10万人を超える不登校者が全国の中学校にいます。





当然この中の多くがその後は社会復帰していっており、過半数以上が社会生活を普通に送れるようになっているといわれています。その一方で、10~40%が社会的適応が不良な場合もあるといわれています。





不登校のままある割合の子供が社会的適応ができない状態で存在していると考えるならば、確かに引きこもりといわれる状態の青年が数十万人いることもうなずけます。





不登校も引きこもりも社会的な場面での対人関係がうまく取れないことが大きな問題です。ある不登校の子供が、学校で一番苦痛なのは休み時間であり、特に20分休みと昼休みが苦痛である、同級生の子供たちとどのようにふるまってよいかわからないというのを聞いたことがあります。





対人恐怖の問題で、対人状況での間が持たない、「間は魔物です」といわれている悩みと共通すると思われます。これは引きこもりの人たちにも共通する苦痛な状況なのかもしれません。





ただ、そのような苦痛を引きこもりによって回避してしまっています。それは、もう一方では普段対人状況で見られて恥ずかしいという羞恥の感情が社会全体の中で抑圧されているのと同時に、感じた場合にはすぐに引きこもることで回避しているようです。つまりはいずれにしても極端化し、それを自らの内に内在化して悩むという状態で保持することができにくくなっているのではないかと考えられます。





それが現代的な特徴なのかもしれません。とくに特徴的なのは醜貌恐怖は、かつては自分の顔が変で周囲の人を不愉快にさせているので悩んでいたわけですが、今の醜貌恐怖は自らの外見がおかしいから変だとは思いながら、自分が納得できない悩みであり、それを周囲がどう見るかで悩むとは異なるといわれています。





そのように自己完結的であるために美容整形外科にはいきますが、心理的な治療を受けようとする動機付けは極めて低いようです。これもまた、悩むことを回避している人たちのように思われ、引きこもると通じる今日性を感じさせます。





パーソナリティーについて





ここでは少し対人恐怖のパーソナリティーについての考えを取り上げてみたいと思います。日本独自の文化の中から生まれた心理療法である森田療法の創設者である森田正馬氏はもっとも古くから対人恐怖に注目し独自の理論を展開しています。





森田氏は対人恐怖の症状そのものよりもそのような症状を持ちやすい人の性格傾向をより重要視する立場をとっています。それら森田神経質という性格特性です。





それは持って生まれた素質によって規定されており、一種の精神的傾向や素質としてのヒポコンドリー性基調であり、その傾向の高い人のことを森田神経質という形で総称しています。





ヒポコンドリー性基調とは、内交的、自己内省が強く、理性的であり、したがって自己の身体的・精神的不安や異常、病的感覚に細かく気づき、こだわり心配する傾向があると述べています。このヒポコンドリー基調は、固定的ではなく、環境の変化とともに変わりうるものであり、原始的ではありますが力動的な精神の基礎状態といわれています。





森田学派の人からもこのヒポコンドリー基調については様々な考え方がだされています。近藤章久(神経症に関する精神分析派の理論とこれに対比してみた森田の神経質論)はこの特徴を、自己保存傾向が強く、自己の心身の快適良好な状態の維持が生存のために不可欠の要であるとして、その維持が危険な場合に自己の存在が脅かされると感じる不安を特徴としていると述べています。





その基調を分析し、①観念主義的傾向、②完全主義的傾向、③自己中心的態度がその特徴であると述べています。近藤氏がこの論文を書いたのはかなり昔のことですが、今改めてみると今日的な引きこもりの青年にも共通する性格傾向もあるのではないでしょうか。





さらに西園昌久氏(対人恐怖の精神分析)は精神分析の立場から、対人恐怖のパーソナリティーについて、幼少時に周囲の過度の支持・受け入れ・賞賛などの幼児ナルシシズムの満足を十分に受けた人が、次第に周囲の期待を得ることで精神的安定と自己意識の安定をはかろうとして無理やり作り上げたす過補償的な理想自我を形成します。





その結果、自己観察が厳しく自我理想が容認する自己像を求め安定をはかろうとして、自己卑下的にみられる行動を取りやすくなると述べています。これは親とのかかわりの中で、このような幼児ナルシシズムと理想自我が形成されると論じています。





4 社会的な視点から





今では考えられないくらい大変な苦労をしながら 1950~60年代に心理療法を学ぶために欧米に留学した先人たちの多くは、心理療法の対象となる神経症の代表的な問題として対人恐怖について、森田療法の影響を踏まえつつ日本の文化と結びついた形でこの問題を論じています。





神経症の問題で幅広く日本の社会や文化の問題との関連で多くの人によって論じられたのは多分、対人恐怖が最初ではないでしょうか。その中でもっとも知られているのがベストセラーとなった「甘えの構造」で有名な土居健郎氏です。土居は、日本の神経症において鍵となる概念として「甘え」の問題を取り上げ「甘えたくとも甘えられない」という葛藤や歪曲した心理を指摘しています。





日本人の場合このような心理が容易にみられるのに、欧米ではそれに性愛的感情という形でしかうかがうことができないとのべています。日本人に対人恐怖が多い理由として、近代社会に変化することで容易に人を甘えさせなくなっていること、また恥の感覚への評価が否定的になっている状況があると指摘しています。





これは対人関係的空間としてもとらえることができます。家でもあり、内でもある「ウチ」と「ソト」との関係からみると、「ウチ」は甘えの許せる密着した関係を保つことのできる世界であり、「ソト」は社会であり、社会的役割によって成立する契約関係の社会であり、甘えの許されない社会になっています。





対人恐怖の症状が生起するのはそのようなウチとソトとの中間的な領域であり、密着した甘えの関係を持つことができるのか、それとも拡散した社会における契約的役割に規定されている関係なのか、そのまさに「間」をとることができないところから起きてくると考えられていました。





一番苦手とする相手が半知りの人であるというのも、そのような距離の取れなさを表していると考えられます。子供が成長して家から自立していくことは、ウチなる甘えの世界から出て社会に直面することになります。





そこで、いかなる関係をとってよいか、甘えられる関係をそのまま求めてもやはり甘えられずに葛藤を感じ、周囲に対する緊張や恥を感じ、大いに悩むことになります。人目が気になり、緊張し不安も増加します。しかし、それはソトなる契約的な社会ルールを身につける前段階として存在しているとも考えられます。





それは、個人の内的レベルではまさに葛藤しに悩むことがこの中間領域と対応しているようにも思われます。そのように悩みつつ徐々に社会性を身につけることで、青年期の悩みとしての対人恐怖は消失していくと考えられていました。このことを山下格氏(対人恐怖・金原出版)は「対人恐怖は、まず青年期の病であり、それは本来人生経験を積み、他者の中で自己を確立するにつれて自然治癒に向かうべき仮の病態である」と述べています。




この枠組みから見ると、対人恐怖に悩んでいること、つまりはウチとソトとの中間的状況でその境界を作っていく過程が悩みに直面している状況であるといえます。





引きこもる若者にも共通する課題です。ただソトに出て行くための、つまりはウチとソトの境界を作ることに悩むことを引きこもることでより回避していると考えられます。





それが負け惜しみの意地っ張りとスキゾイドの違いのように思われます。しかし、そのようであったとしても、その中間的な領域に直面し境界をいかに作り出していくことができるのか、そこが課題であることは、対人恐怖でも引きこもりでも違いはないと思われます。



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