ひきこもりとはコミュニケーション不全である
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ひきこもりとはコミュニケーション不全である

2020年02月20日(木)10:17 AM





少子化の時代を迎え、小さいときから”ちやほや”されて育つ子どもが増加しました。これまでのように勉強ができるとか、スポーツが得意だとか、そういうことで周囲からちやほやされるだけでなく、子どもの数が少ないから、無条件でちやほやされる時代になっています。





自分から「仲間に入れて」と言う必要がないまま、大人になる子どもが多くなりました。だから大人になっても、プライドが高いために自分から「仲間に入れて」という意味のことを言えません。





小さい頃から人間関係の選択権をとったり、預けたりすることは大切なことです。人間関係の選択権を預けるということは、自ら人間関係を取り結ぼうとしたときに、相手が受け入れてくれないかもしれないというリスクを背負うことです。ですから、人間関係の選択権をいつも自分が握っていると、周囲が自分をちやほやしてくれなくなったときに脆くなってしまいます。





ある会合で聞いた話ですが、いつも声をかけてもらえる職業の人は、退職後に老人会等に入ったときに、”トラブルメーカー”になりやすいといいます。共通しているのは、かつて自分があまり努力をしなくても、周囲が必ず声をかけてくれる立場にいた人たちです。





よく子どもたちが、面接のなかで親や先生に対する悔しさとして「最後まで聴いてほしかった」と言います。それは言葉を聞くのではなくて、気持ちを「聴いて」ほしいということです。





ある小学生が「カウンセラーさんの話は、何が何だかわからなかったが、『聴いた』という感じはした」と言ってくれましたが、嬉しく思いました。体で聴いてくれているんだなと思いました。子どもは理屈で「わかる」ことと、気持ちで「わかる」ことの両方を求めているのです。





「お互いさまだな」とか、「人は絡み合って生きているんだな」ということは、理屈で理解することではなく、かなり感覚的に理解していくものです。「聴く」生活は、そんな育ちを保障してくれます。そして実際に絡み合わなければ、その「どんぶり勘定」的な受けとめ方はわからないものです。人間関係を作っていくには、傷つくリスクを背負いながらも、相手に近づくしかありません。ある中学生が、相談室で父親に言いました。





「僕は、中学生になったからお父さんと話さなくなったんじゃない。僕がいくら話そうとしても、お父さんは気持ちを聴こうという姿勢がなかったじゃないか。お父さんは、僕が話したくなるような聴き方をしなかった」。わたしたちは、相手の言った言葉を聞くことは勉強しましたが、積極的に気持ちまでくみ取って、聴いていくコミュニケーションをおろそかにしてきたのではないでしょうか。





口が渇けば心が渇き、紡ぎ合う関係にならなくなっていきます。特に深い意味で言っているのでもないのに、まじめな人ほど、正確に聞こうとして、「それは、どういう意味なのか」とか「つまり・・・・・ということか」と相手に問いつめたりしてしまいます。





それがいつの間にか、自分のもっている理論や仮説に相手を引き込もうとしていることに気づかないのです。結局、こうして「会話の芽」を摘んでしまうのです。





「ひきこもり」という言葉が当たり前に使われるようになりましたが、わたしは従来の「閉じこもり」というイメージではなく、「コミュニケーション不全」という意味を、ここでお伝えしたいのです。ひきこもりの心理状態にある子どもたちは、ある時点になると集団から遠ざかっていく傾向があるので、就職拒否につながってしまうことがあります。





そこで、「不登校・高校中退・その後」という問題も出てきました。わたしは約二十年前から「ひきこもり」の子どもたちの家庭訪問をしてきました。そのころ新興住宅地に都市化の現象という形で不登校が登場してきました。現在のように、全国どこでも不登校という状況とは違っていました。





そのころは、高学歴、しっかりとした家庭、核家族・・・・・・・というようなイメージがありました。そのような状況の中で、わたしのところにまで相談に来るというのは、いろいろな相談機関を訪ね歩いてもう行くところがない、どこに行っても「待ちましょう」と言われ、最終的にたどり着いたというケースがほとんどでした。





「おぼれる者、藁をもつかむ」と言うとおり、なかには占いで高価な壷を買わされたという人も珍しくありませんでした。みんなそれ以前に各専門機関に相談に行っていました。





ですから、わたしのところに来るような段階になると、学校に行ってほしいとか、仕事をして自立してほしいということにあまりこだわってはいない方が当時は多かったのです。ただ、ひきこもりの状態になる前に見た、「あの子の笑顔をもう一度見たい」という親の切なる思いだけだったように思います。





また、子どもに何か与えたいとすれば、それは学歴等ではなくて、「この子が誰かと人間関係を築いてほしい」ということだけを願っている親御さんが多かったのです。





人と何かを折り合っていけさえすれば、それでもう十分だということです。文部科学省が、新学習指導要領の総合的学習の時間のなかで「生きる力」の次に言い出した「伝え合う力」というのは、このことではないだろうかと思います。





「この人がだめでも、この人とつながっていこう」という「人間関係をあきらめない力」です。その力が育っていかなければ、いくら学歴が高くても、いくら財産があっても孤独で寂しい人生なのです。現代のような少子化やゲームが盛んな時代にあっては、コミュニケーション・スキルは当たり前に身につくものではなく、学習していくものになってきています。





たとえば、父親が「いいよ、俺がやっておくから」とか、「俺が我慢するからいいよ」などと言って、他者とのコミュニケーションを自分ひとりで済ませています。





それで一見、平和で穏やかな家庭ができています。ところが実際は、夫婦のやりとりが少なくなりましたし、本当は妻が何も言わずに我慢していたのかもしれません。





結局、会話のやり取りの不足した家庭生活が、子どもにコミュニケーション・スキルを提供できなかったのです。たとえ、夫婦喧嘩をしても、仲直りするところまで子どもに見せれば、コミュニケーション・スキルが見えてきます。そして子どもは、「喧嘩してもああやって、人間関係を取り結んでいけばいいのか」「どうすれば仲裁をうまくやれるか」なども学ぶことができたはずです。





このようなことを、わたしたちは日常の家庭生活のなかで、手間暇かけてやらなくなってしまいました。ですから、子どもたちはどうやってコミュニケーションをとっていったらいいのかそのノウハウがわかりません。ただ「人とコミュニケーションがとれることが偉いのか?」とか「嫌な人間とは、つき合わなくてもいいのではないか」と言う人もいるでしょう。





でもそれは、つき合わなくても生きていける人の言い分でもあります。人間関係が不器用な人や自信がない人は、人の輪の中で人間関係を強制されると動きが不自然になってしまい、それを周りの人が笑ったり、からかったりします。





本人はさらに適応しようとして、ひょうきんさを出して面白い人間を演じます。親は相談の中で「小学校のときはとても明るい子だった」と言います。でも、実は「浮いてしまっている」状態だったのかもしれません。





浮いてしまうから、惨めだから面白い子を演じてその輪からはずれたくなかったのかもしれません。戻りたくなったらまた戻ればいいと思いきや、一度外れてしまうとなかなか戻れなくなってしまいます。





こうなると自分だけが取り残されてしまった気持ち、見捨てられ感が残ります。また、人とどういうふうに内面世界を深めていったらいいのかわからなくなってしまいます。だから焦ってしまって、いきなり関係を深めようとして失敗を重ねてしまいます。



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