失って初めてわかる真実~息子が自死した母親~
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失って初めてわかる真実~息子が自死した母親~

2020年02月14日(金)1:05 AM




「わたしは鬼のような母親です。一人息子が自ら命を絶ってしまったにもかかわらず、今もって涙ひとつ流れません。むしろ心のどこかで『しかたがなかったんだ』とほっとしてしまう気持ちも正直あるんです。





こんな鬼のような母親がいますか。いませんよね。いないって言ってくださいよ。黙っていないで・・・・・。わたしは鬼ですよね」あまりの語気の強さに茫然自失のわたしは、その母親に返す言葉も見つからず、頼りなく、ふがいなく、情けなく、面接室でただ椅子に座って身をかがめているしかありませんでした。





まるで自分に言い聞かせるかのように語り続けた母親は、一瞬、目を潤ませると会釈して立ち去っていきました。九年前のことでした。年金生活のそのご夫婦が、一人っ子で二十七歳になる息子さんを連れて面接に訪れました。白髪の父親は、少し足を引きずりながらも気丈さを隠さない妻をかばうようにして、椅子を譲りました。





そして”感情のないロボット”のような印象を与えるその息子さんに近づき、もう一つの椅子を差し出して腰掛けるように諭しました。その配慮に慌てたわたしは、父親が座るにはオモチャのような丸椅子を、机の脇からひっぱりだして渡しました。





「一度はあきらめましたが、どうしてもこの子に笑顔をもう一度与えてあげたいんです。それだけです。働いてほしいとかそんなことはまったく思ってもいません。





わたしたち夫婦も、この子の笑顔をもう一度見たいのです。そうならないと死んでも死にきれないのです。あの世に持っていくお金は、いりません。どうぞいくらかかってもかまいませんので、とにかくこの子に笑顔を与えてください。お願いします」





わたしに向かって懇願する母親でした。父親は一歩引きながらも、わたしと息子のA君を見てうなずき微笑みました。まさに「独活の大木」と揶揄されそうな育ちかたをしたA君は、小学校の高学年になるとすっかり寡黙になっていました。





中学では、運動部系から誘いを受けて柔道部に入りましたが、すぐに退部してしまいました。「おまえは愚図でのろま」と言う先輩や、迷惑をかけてしまう同級生との部活動に心底疲れ果ててしまったようです。勉強にも身が入らず孤立し、独りでギターをつま弾くようになっていました。高校は志望していた工業高校の電気科に入学できました。





しかし、気後れ気味な性格に変化は起こりませんでした。ところが「自分を表現できる」道に出会いました。それはロックでした。彼は高二あたりからギターを手にすると、作詞、作曲にも興味を持ち始めました。





一人でいても孤独感に襲われることは少なくなっていきました。ときに教室で笑顔を見せることもありました。当時、若者の間でロックがブームとなり、彼も「ミュージシャンになりたい」と思い、音楽学校を受験しました。





しかし願いはかなうことなく、楽器店に就職しました。ところが彼にとって、店の販売員の仕事は地獄でした。自信喪失で、もともと声の小さかった彼は店長から、「おまえが店にいると、店が暗くなる」とたびたび怒鳴られました。





それを周りにいる若い女性職員が冷笑しました。これをきっかけに、赤面という苦しみを彼は抱えてしまいました。何度か転職しましたが、彼にとって安らげる場はなく、赤面はいつのまにか被害妄想と理由づけするしかありませんでした。





克服に向けて心理療法も受けましたが、期待するほどではなく、両親と相談のうえ、入院して治療に専念することになりました。しかし、薬物療法とカウンセリングで彼の痛みきった心を癒すことはできませんでした。両親にとって退院は外科手術のように完治したと思いたかったのです。





薬物で不安を鎮めるしか術のなかった彼は、心を奪い取られる新たな恐怖感を抱くと服薬を拒絶しました。でも両親は、仕事にもつかず、医療も拒絶する彼を受け入れることはできず、「わがままで、ブラブラしている困り者」にしか思えませんでした。





同時にそれは、彼の状態を何ひとつ変えることも支えることもできない「ふがいない親」のわが身と向き合うしかない、苦渋の日々でした。親子の絆を積み重ねるには、就労しない彼の笑顔は怠け者の顔にしか見えず、職に就くことだけが親の信頼を得る証でした。





母と子は互いを罵り、父と子は他人を装うしかありませんでした。そして夫婦は将来への心細さに、いつ過ちを犯しても不思議ではない精神的混乱を背負う毎日を送っていました。





いつしか親子の確執は深まり、ひとつの屋根の下にいても対話する機会はなくなっていきました。外出することもほとんどなくなった彼は、独り自室に引きこもる生活になりました。食事も両親の外出を見計らってするようになり、まともに顔を見ることもなくなっていきました。それから四年が過ぎての来所でした。





「じゃあ、せっかくだから明日からおいでよ。待ってるよ」わたしは面接を終えると出口のところまで両親を見送り、あわせて彼に声をかけました。彼は抵抗する意思すらなく、母親に勧められるままにわたしを見つめて、軽くうなずきました。そしてその背に父親が、着古した彼のコートをかけて、肩をそっとたたきました。





それからA君は律儀に通ってきました。面接が終わると、不登校している十代の若者たちとおとなしく時間を過ごしていました。そんな繰り返しの日々の中で、いつもギターを弾いている中三の少年と顔を合わすことが増えていきました。





ときに、その少年のギターに触れていると、周りの若者たちが彼に近寄ってきました。人は人に傷つき人に癒されるのでしょうか、彼は捨てていたはずのギターを自室の押入れから取り出すと、面接に以外にも毎日のように来所し、その空間に嬉々として”たむろ”できるまでになっていました。三ヵ月後、彼はわたしに立ち話しながらこう言いました。「僕は人を信じることを忘れていました。あきらめていた恋もできました」





スタッフの女性を好きになっていました。母親は彼に「カウンセラーだから優しいんだ」と咎めました。そして「ご迷惑をおかけしました」とわたしにあやまるほど母親も律儀でした。外出があたりまえになると、それまで彼について触れることのなかった近所の人たちが、母親に”喜び”の声をかけてくるようになりました。





「どちらにお勤めですか。これで安心ですね」母親にとって、そのあいさつは「悪気がないだけにつらかった」といいます。「せめて一日だけでも、どこかへアルバイトへ行ってくれたら」けっして口にしてはいけないと思っていた言葉を、魔が指すように母親はA君に言ってしまいました。





「やはりわが子への期待、せめて人並みになってほしいという親心を完全に捨てることはできませんでした」と後悔しました。「どうして関東自立就労支援センターには普通に行けて、職場に行けないんだ。一時間でもいいから・・・・・・」母親は、近所の人の目と将来への焦りを感じ、抑えがたい感情をぶつけました。





十ヵ月後の秋ごろ、彼に夢が舞い戻りました。「僕は来年から、ギターの専門学校に行く」両親にとってかつて夢にまで見ていた息子の笑顔のひと言でした。でもそのときの母親には、「わがまま」にしか聞こえませんでした。それでも父親と二人になると、母親は「薄情な自分が情けなくて悔しくて」泣いていました。





そして息子さんの「抵抗」を「意欲」とは、頭ではわかっていても体では受け入れられませんでした。年が明けた一月十一日。彼は二十八年の人生を静かに閉じていきました。



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TEL
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活動内容
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 学習 支援、生活訓練
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