人間関係を怖がるひきこもり
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人間関係を怖がるひきこもり

2020年02月05日(水)11:02 AM






登校拒否や高校中退後、あるいは入社して数か月で会社を退職し、そのまま家にこもり続けてしまう子どもや若者がいます。




いくら声をかけても返事をしてくれないわが子。彼らの多くは「人間関係がつらい。わからない」と面接室で呟きます。




触れ合いたくても触れ合えない子供や若者たちを「ひきこもり」と名付けて関心を呼んだのが、今から10年前でした。体の前に、心がひきこもっているのです。




そして引きこもる心は、誰もが一度は経験したことであり、理解できるものです。ところが、私が出会ってきた「ひきこもる若者たち」は、孤立に耐え切れず誰かとコミュニケーションを取ろうと思っても、その術がわからないのです。




人の輪の中に「い~れて」と入っていくコミュニケーション能力が、幼いころからの育ちの中で獲得できていないのです。そして今、ひきこもりという言葉が、様々な悲しい“事件„と共にクローズアップされてきたのは皮肉なことです。




だからこそ、安易なレッテル貼りゆえに理解されにくい子供たちの姿を、現代の「ひきこもり」文化と共に語りたい、と思うのです。彼らの抱える問題は、顕在化した時点で医療の援助が必要となることも少なくありません。




しかし、問題の根っこに何があるのかを見ずに、彼らの苦しみに気づくことはできないのです。それは同時に、人間関係がつらいとつぶやく子供たちを育ててきた、私たち大人の生き方をも囲いなおしていくというものです。




もう少し言うと、ひきこもる子どもや若者たちは昭和40年以降の出生であり、その両親の中心層は、団塊の世代だということです。戦後の民主主義による個性尊重の教育は皮肉にも、人が人と群れていく必要性を疎かにしてきました。




人の中で生きていくためのコミュニケーションの知恵の継承が、団塊世代を境に揺らぎはじめたのです。しがらみを引きずって生きることよりも、スッキリ、サッパリ、さわやかな人間関係を求めるようになりました。




しかしそのために、子どもたちは多様な人間関係に身を置き、その中に生きる人の姿を肌で感じるチャンスをなくしたのです。人間関係の下地作りがおざなりにされてきたということです。




思春期や青年期に、学校や職場で、自分から輪の中に入っていく人間関係を強制されたとき、彼らははじめてそのことに気づくのです。そしてそのコミュニケーション不全の怒りや悲しみを、社会性を身につけている団塊世代の父親たちへ向けていくことになるのです。




それは時に激しい暴力という形で表され、その前に大人たちはなす術もなく立ち尽くしてしまうのです。思春期・青年期の子供たちは、コミュニケーション能力の獲得を求めて父親に向かっていくのです。




家にこもって、人と関わるのがつらいという子供たちは、そのやるせなさ、ふがいなさを、最終的には母親ではなく父親に向けていきます。母親への攻撃は十代までで、二十代に入ると、特に男の子はその思いを父親にぶつけていくのです。




いや父親というよりも、父性と言うことでしょう。父性の獲得を考えるときに父親の存在は欠かせないという思いから、父親ミーティングを聞いたことがあります。




父親の多くは、これまで子育てを母親に頼ってきただけに、いきなり子供と関わるといってもその術がわからないのです。その会に、信州からまめに来ていただいていたお父さんがいました。




我が子が高校を中退してこれからの人生をどうしていこうかと迷っていても、彼の人と関われない苦しみが、そのお父さんにはなかなか分かりませんでした。お父さん自身が、我が子とどう関わればいいのか、途方に暮れていたのです。




お父さんは「人と関わることに慣れていけばいいだろう」と言うのですが、人と関わるための土台がもろい今の子供たちは、慣れればいいというものではありません。




お父さんが闇雲に人間関係を強制するほどに、その子はだんだん人が怖くなってきました。働くわけでも、学校に行くわけでもない状態で、お父さんの苛立ちは募るばかりです。




そんな確執を重ねる毎日に、子どもがつらくなったのでしょう。あるいは父親や母親と口を利かないという生活に耐え切れなかったのか、そして自分のふがいなさを思ったのか、なんとか自分の道を探してみたかったのか、少年は一人で突然上京しました。




東京に出て、色々と就職口を訪ねてみるけど、なかなか雇ってくれるところは見つかりません。何軒回っても、自分の道を見つけることができませんでした。




そんな我が子の姿に触れ、ふとお父さんは子供に「もういいからゆっくりしろ」と言ったそうです。このお父さんの「もういい」をカウンセリングで肯定と言います。




あきらめや開き直りではなく、苦しみの中に身を置いている姿に気づくことです。「お前が生きているだけで十分だ、追いつめたようなことを言って悪かった」そんな思いです。




そうするとその子が「お父さんごめんね、僕は18歳にもなって親に頼らなくちゃいけない。なんとかして自分の道を探してから田舎に帰るから」と言ったそうです。




人は、心から肯定されて初めて、新たな一歩を踏み出すことができるのです。その後、そのお父さんに、ある大学での講演会場でばったりお会いしました。




聞いてみると、息子さんがその大学い籍を置いているというのです。私の名前を学校からの案内で見たらしく、遠くから話を聞きにいらっしゃったのです。




縁とは不思議なもので、人間関係も私たちのはからいを超えたところにあるようにも思う出会いでした。多くの人は、相手にもしていない人に対しては、当たり障りなく過ぎ去っていくものです。




人から弱音や愚痴、ある時は悪態をつかれているということは、当てにされているということ、さらに言えば「つながりたい」というメッセージなのです。




「この人、少しは気持ちを分かってくれるかな」と思うから、人はその人にエネルギーを向けていくのです。でも不安もあるから、ちょっと意地悪を言ったり、弱音を吐いたり、愚痴を言ったりして試しの行為をするのです。




でもそれは、相手から信頼されている証なのです。相談業務に携わっている人が、来室する人に弱音も愚痴も言ってもらえないようであれば、少し考えものでしょう。




相談に訪れる人は、弱音や愚痴しか言えない自分が情けないことは百も承知なのです。しかし、こんな情けない自分であっても受け入れてくれると思うから、相談室に来るのです。




愚痴や弱音ばかりの人間関係は確かにつらいものですが、情けない自分を誰にもさらせないことは、人を孤独に追い込んでいきます。誰もがぐずぐず言いながらお互いを支え合ってきたということを、戦後五十年の間に私たちは忘れてきてしまったのです。




キレたり、ムカつくのは愚痴や弱音を吐いてこなかったからであり、聞く日常を重ねてこなかったからです。感情を小出しにできないから唐突になって、人ともつながっていけなくなるのです。




そして私たちは、その孤独感を、個性という言葉で、強がったり、すり替えてこなかったでしょうか。社会と繋がっていこうとしない若者たちの増加は、不況と言う現実だけを理由に語ることはできないでしょう。




何よりも、一人遊びが当たり前で生きてきた世代には、人と繋がりたいということがバーチャルになってきているように思えてなりません。髪を振り乱して生きるしかない娑婆の現実を、ごまかさずに私たち大人が見せていくことです。




しがらみを引きずっても、なんとか生きていけるという実感は、人との絡み合いの中でしか育っていきません。多少の傷を負いながら、それでも生きている姿を見せるのです。




そのためにはまず私たち大人が、一人ひとり、自分の生きてきた絡み合いの道筋を、おごることなく、卑下することなく語り、お互いに確認し合うことです。




それは、責め合ったり我慢し合うだけの関係ではありません。「せめぎ合って、折り合って、お互いさま」の人間関係でこそ、安心して愚痴や弱音を吐けるということです。



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