学校教育について
ホーム > 学校教育について

学校教育について

2019年12月15日(日)5:35 PM




皆さんは、誰でも利き目を持っていることをご存知でしょうか?それになぞらえて言いますと、機械的に言ってはいけませんが、教師は「評価の目」が利き目になりがちだということです。





それは、教師は職業柄、子どもがきちんと人間として必要な能力を身につけながら一人前の社会人になってゆく、その発達や成長を援助するのが仕事ですから、きちんと発達してきているかどうかを評価しないといけないわけです。ですから、「評価の目」が利き目になっても当たり前だとも言えます。





一方、わたしたちカウンセラーは、ちょっと仕事が違います。心の中が苦しくしんどい人を相手にして、その心を癒すことを主な仕事にしていますので、どうしても相手の立場に立って、相手の心を理解することが大事になってきます。





ですから、「共感の目」というのが利き目になってくるのです。そして、すぐれた教師もすぐれたカウンセラーも、どちらが利き目になっているかの違いはあれ、子どもたちを両方の目で見ていないといけないということです。





ところが残念ながら、今の学校の教師たちの目は、この「評価の目」に偏っているのではないでしょうか。しかもその「評価の目」が、子どもの成長や発達を援助するような「評価の目」ではなく、子どもをえり分けていく、もっとひどい場合には、子どもを否定してしまうような恐い「評価の目」になってしまっているのではないでしょうか。





そういう恐い「評価の目」を向けられて、子どもたちがすくんでしまっている、そういう姿が浮かんできます。わたしが相談を受けていた不登校の女子学生が、昔のことをふり返って話してくれた中に、こういうことがありました。





「小学校の低学年の通知表を見ていたら、『だいぶしゃべれるようになりました。もう少ししゃべれるようになりましょう』と書いてありました。そんなことばっかり三年間書かれてきたんです。今から思うと、子ども心に先生からあまりよく思われていないなあという感じがありました。





先生とよくしゃべれる子がいると、うらやましかったです。それでも、帰りのときなんかに先生に会ったりしますと、あいさつぐらいはしないといけないと思って、『先生、さようなら』って言いますよね。その時先生に、『あんた、帰りのときだけ声が大きくなるわね』って言われてしまいました。それがショックで、いまだに心に残っています。





そんなに悪気があって言ったわけじゃないんでしょうけど、そういう言葉がグサーッとつきささったまま、抜けないでずーっと大きくなってきました。」この子はさらに言いました。





「四年生から先生が変わりました。その先生は、あまり細かいことは言わず、おとなしいならおとなしいで受け入れてくれるような先生でした。その先生になってから、学校がちょっと楽しくなりました。四年生の二学期ぐらいからは何か解放された感じになってきて、高学年はわりあい気楽に学校生活を送れました。ふり返ると、親戚の家に行っても、『おとなしい』と言われました。だから、『おとなしい』と言われるたびに何か自分が否定され、バカにされているような気がして劣等感になっていました。」





おとなしい子はたくさんいますが、その子に向かって「あんたおとなしいわねえ」と言うことは、時には「あんた、おとなしいダメな子どもね」というメッセージに聞こえるようです。





わたしは、教育というものは、子どもの前に少しがんばったら跳べそうな跳び箱を置いてやって、がんばらせて跳べるようにしてやること、つまりちょっとがんばったらできそうな課題に挑戦させ、そのことによって子どもの成長や発達を援助すること、これが大事な仕事だと思います。





ですから、「だいぶしゃべれるようになりました。もっとしゃべれるようになりましょう」という評価や言い方がされても、それほどおかしいとは思いません。しかし、それによってこの子が、「もっと、もっと」とがんばることを強いられるような圧迫感を感じているということもまた事実です。





「もっとしゃべれるようになりたい」と自分から意欲する前に、「もっとしゃべれるようにならなければならない」ということで追い立てられてしまいます。そうならないと先生から気に入ってもらえないのではないか、先生から見捨てられてしまうのではないかと思ってしまいます。





そこにわたしは、今の学校や教育、あるいは教師たちの子どもを見る目が、子どものペースに合わせて待ってやれないある種の性急さ、焦り、いらだちといったものを感じます。





そういうものが、「だいぶしゃべれるようになりました。もっとしゃべれるようになりましょう」という、考えようによっては当たり前の言葉を、「あなたはおとなしいダメな子どもね」というふうに、自分を否定する言葉として受け止めさせてしまうような響きを持たせているのではないでしょうか。





学校教育にも企業の論理が





なぜそうなっているのでしょうか。やはり、今の学校や教師の子どもに対する評価が、「ある部分によって全体を否定してしまう」ような評価になってしまっているからではないでしょうか。





今の学校教育には、企業の論理が大きく入り込んでいます。戦後の教育基本法では、教育の目的はそれぞれの子どもの人格の完成、つまり、一人ひとりの子どもの人間性を伸ばすということだったと思います。ところが今は、教育の目的が企業や会社の役に立つ「人材」を育てるというふうにねじ曲げられてきてしまっています。





人間を育てるのと、人材を育てるのはまったく違います。競争原理がどんどん入ってくる中で、教師も望むと望まざるとにかかわらず、子どもを競争にかりたて、管理する役割を担わされています。





自ら積極的に担っている方もいるかも分かりませんが、心ならずもそうなっているという教師も少なくないと思います。そこに見られる教育が、学校や教師の期待にこたえる「良い子」でなかったら見捨てるぞという脅しをかけて、子どもを動かすような傾向があります。





それが日常的には、教師の子どもを見る目や評価の中に具体化されています。つまり、学校や教師が思い描く、こうあってほしいという「良い子像」があり、その「良い子像」に合わないような部分的な特徴をとらえて評価してしまいます。





「宿題を忘れるダメな子ども」「勉強のできないダメな子ども」「決まりを守れないダメな子ども」そういう評価や言葉が口から出ることが少なくありません。





それは考えてみると、「子どものある部分によってその子全体を否定する言葉」です。決まりを守れないとか、勉強ができないとか、宿題をやってこないというのはその子の部分的な特徴なのですが、それによってその子全体を否定するような言い方についなってしまいます。





本当は、「あなたには勉強のできないところがある」「あなたには決まりを守れない弱いところがある」とか言うほうが、まあ正確でしょう。





それが、頭から子どもを馬鹿にし、見下げたような言い方であるなら論外です。そうではないにしても、またそこに教師の余裕のなさや、自分の期待どおりに動いてくれない子どもたちへの苛立ちがあるにしても、そこには明らかに脅しが隠されていると思います。





教師の皆さん方がもしそういう言葉を使っている時は、その時の自分の心をよくのぞいて見てください。そういう部分によって全体を否定するような評価というのは、人間を評価するよりも、人材を評価するにふさわしいやり方です。





人材というのは、部分的なある能力や特性がその企業などに役に立つかどうかで評価されます。そういう能力や特性がなかったらダメだということでカットされるわけです。





ですから、教育がいつの間にか人材養成の場になってそういう評価の仕方が、無意識のうちにはびこっているのではないだろうかとわたしは思います。



メニュー

過去の記事

団体概要
団体名
関東自立就労支援センター
理事長:
大橋秀太
理事:
大畑健太
理事:
杉下真理
住所
東京都東久留米市浅間町1-12-9
TEL
042-424-7855
メール
ki6jt7@bma.biglobe.ne.jp
活動内容
・若年者の就労支援、
 学習 支援、生活訓練
・共同生活寮の運営
・教育相談の実施
・各種資格取得支援