ひきこもりの日本的文脈
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ひきこもりの日本的文脈

2019年09月20日(金)8:51 PM

 

 

 

 

 

豊かな社会による価値観の多様化、規範の解体、虚無的な不安感や自己愛への傾斜、自明性の喪失や生存における脆弱性をいわば、「アメリカ的民主主義」に根ざした社会的背景の 一側面とすれば、対照的にわが国に突出して多くみられるひきこもりを日本的文脈からとらえる観点があります。

 

 

 

 

 

具体的には、日本的な育児のあり方や自立のイメージ、派生する母子密着の問題、及び「恥の文化」や「ウチとソト」、「オモテとウラ」などの二重性に代表される日本的な社会構造や対人関係の在り方、その基礎となる「甘え」概念などに着目するものです。

 

 

 

 

 

母子一体感と日本的自立観

 

 

 

 

 

日米の典型的な育児の仕方は非常に対照的であり、日本の平均的な家庭では、「添い寝」や母親の先取り的なケア、非言語的ななだめなど、母親と子供が身体的、情緒的に一体化したメタ言語によるコミュニケーションが基本です。

 

 

 

 

 

したがって、子供は早期の密着した母子関係を通じて自然に基本的信頼感を獲得しやすい反面、行動が制限され、エネルギーの外部への発散が抑えられがちで、内向的で自己主張の乏しい性格になりやすく、日本の家族にありがちな物理的・心理的父親不在も相俟って、あまりに母子密着が強くなり、その共生的段階を容易に抜け出ることができなくなるという危険性があります。この母子密着傾向が、ひきこもりの日本的背景となっているという指摘があります。

 

 

 

 

 

関連して、「家から出る」という意味での自立心・独立心に最大の価値を置く欧米型の社会とは対照的に、同居する両親を養えるまでになってはじめて「一人前」、自立した個人とみなされる「親孝行モデル」の自立概念が強い日本人にとって望ましい親子関係は、互いに「甘え」、「甘やかす」関係としてイメージされます。

 

 

 

 

 

子供をしかる時に罰として外出を禁止する欧米型の「home」とは逆に、家から追い出して懲らしめる日本型の「家」の感覚はその裏返しであり、外での人間関係に傷ついた際、家にひきこもるという選択を比較文化的にはるかに容易にするでしょう。

 

 

 

 

 

恥の文化と対人関係における ダブルスタンダード

 

 

 

 

 

「ひきこもりセキラララ」、「hikikomori@NHKひきこもり」、「ひきこもりカレンダー」など、ひきこもりに関する体験談は、「みっともなく恥ずかしい」、「生きる恥」、「人に会わせる顔がない」、「恥ずべき存在」、「世間体を気にして、人の目を気にして、嫌われないよう、仲間外れにされないよう、それだけを気にして生きてきた」などの強い公的自意識とそこから生じる「恥」の感覚に染まっています。

 

 

 

 

 

ルース・べネディクトが、日本文化を「恥」という概念で説いて以来、「恥」の概念は発展的・批判的に研究、論述されてきています。ここではその詳細を論じる余裕はありませんが、我が国において「恥」の感覚は、自我形成やアイデンティティ形成に至るまで根深く影響しており、日本人の意識の根幹を形作っているとされています。

 

 

 

 

 

その背景として、集団意識が「資格」より「場」におかれ、「ウチ」と「ソト」を区別し、集団内の情緒的な結束感、一体感に基づいた「タテ社会の人間関係」、あるいは、社会規範に取り入れられた「甘え」、依存的人間関係を柔軟にこなすこと、さらには、対人関係において「オモテとウラ」、「本音と建前」の二重性、ダブルスタンダードに敏感であることなどへの暗黙の社会的要請が、歴史的に周囲の目や評価、動向、対面、体裁などを極端に気にする文化を形成しています。

 

 

 

 

 

その結果、さまざまな機会において「恥」の感覚が生じやすく、その恥の体験、恥の意識は個々人にとって達成的にも抑制的にも作用し、長い間その影響力は人をコントロールする「しつけ」の手段とされ、時代や文化の「教え」として、「恥をかいたものは去るのみ」という受け身的な羞恥体験が理想化され共有されています。

 

 

 

 

 

そして、穴に隠れるがごとくの一時的な撤退によるわが身の姿が、二次的な「恥」の対象になり、ひきこもりへと移行していきます。さらに、ひきこもる自分への自己嫌悪から逃れる選択肢はまさにいっそうひきこもることでしかないという悪循環に陥ります。かくして、「強い恥の体験、一時的撤退、ひきこもり」という道筋は、歴史的、文化的文脈によっても維持され支えられています。

 

 

 

 

 

「二重性」の機能不全

 

 

 

 

 

北山修氏「恥の取り扱いをめぐって」(星和書店)は、社会適応のためには、公私の二重性の使い分けによる隔離隠蔽機能が適切に働くことが重要であるとし、ひきこもりに関しては、「オモテとウラ」、「ウチとソト」、「本音と建前」の二重性がうまく使い分けられず、たとえば、真実の自分のあり方を、建前で成り立っている世界に持ち込んで、大変な痛手や傷を被った結果、ひきこもってしまうと述べています。

 

 

 

 

 

また、倉本英彦氏「思春期のメンタルヘルス」(北大路書房)はイシダ氏「Conflict and   accommodation :Omote- Ura and Uchi-Soto Relations」の日本社会の二重構造に関する「ウチーソト」、「オモテーウラ」による四分割仮説図式を参照して、ひきこもりの特徴を外的あるいは公的な世界の縮小、ウチーウラの場の相対的な優越、ウチーソト、オモテーウラの境界の柔軟性が失われ、日本の社会に伝統的とされる二重構造の存在理由が崩壊の危機にさらされている状態と分析しています。

 

 

 

 

 

豊かに生きるということ

 

 

 

 

 

ひきこもりの社会的背景に関して、二つの観点から振り返りました。一方では、「アメリカ的民主主義」にたとえられる豊かな社会を基盤とする価値感の多様性や虚無感が、他方では、歴史性に根ざした「恥の文化」、日本的価値観への膠着といった一見相反する論点が語られています。

 

 

 

 

 

当然、「ひきこもり」といっても、その状態像は多種多様であり、その原因論や背景論についても相容れない見解があってしかりではあるでしょう。

 

 

 

 

 

この点、たとえば、昨今の「察する心」の欠如がひきこもりの背景であるとする見解などは、日本的心性をひきこもりの背景とする論調に反駁するものであるでしょうし、昨今は自立志向が強すぎて「甘え」が満たされないことがひきこもりの背景になっているという主張もあります。

 

 

 

 

 

また、「あらゆる価値観が許容される中で個人が社会に埋没する」、「個人的な分裂を社会が共有することで多様性より均質性の元で個人がイメージされやすくなり、個人が徹底して孤独であることは困難になり、孤立することに過敏な感受性を形成する」、「豊かな社会における虚無感が、極端な他者志向に向かわせる」などといった総合的観点や統合的試みも重要でしょう。

 

 

 

 

 

ただし、歴史的に日本人的心性や気質を受け継いできた我々が、近代以降の豊かな社会において多様性や個性の追求に迫られ、しかも同時にメタメッセージで同調性を求められているというダブルバインドを打ち破るのは相当に困難なことです。

 

 

 

 

 

現代に追従して個性や自由を追い求めれば、過去からの同調性の桎梏が乗りかかり、日本的な同調性、他者志向性に生きようとすれば現代人が謳歌する個性的自己実現、自己優先性の前提に自己存在を否定されます。

 

 

 

 

 

ダブルバインド論を持ち出すまでもなく、そのような状況は人を拘束し、身動きを取れなくします。打開策として、エネルギーのある人は極端な行動化に走り、そうでない人はひきこもって矛盾する社会に生きることから撤退します。

 

 

 

 

 

多様性や個性、自由が謳歌される風潮において、実は多様性や個性が許されず、同調性、他者志向性に強く拘束されているという二重性は、「母性社会日本の病理」とパラレルな構造にたとえられるような、まさに「日本的な病理」といえるかもしれません。

 

 

 



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