「刻苦勉励」の親たちが子に授けたもの
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「刻苦勉励」の親たちが子に授けたもの

2019年09月07日(土)12:22 AM

 

 

 

 

 

子どもはなぜ「いい子」になるのでしょうか。それは子どもは本来的に、親の助けを借りなければ幼き時代を育ちきれるものではないからです。

 

 

 

 

 

その不安を感じるからこそ、親の期待に応えようとするのです。悪く言えば子どもにとって「救い」と「期待」は、取引にもなっているのです。

 

 

 

 

 

親から救われる「権利」を獲得するために「期待に応える」義務を子どもは宿命的に背負わされているともいえます。

 

 

 

 

 

この関係を、母一人子一人で育ち、中学3年間を”シンナー漬け”になって生活した少年が言いました。

 

 

 

 

 

「子どもはいつも親や先生の喜ぶ顔を見て成長するんですよね。子どもはいつも親や先生に喜んでもらおうと思って、生きているんですよね」

 

 

 

 

 

これは実によく言い当てているとわたしは感心します。子どもにとって親の喜ぶ顔が善であり、悲しむ顔が悪となるのです。

 

 

 

 

 

親の喜ぶ方向で子は「いい子」になっていくわけです。そこで相談に見える「いい子」の親はかつて何を「善」として子どもに寄り添ってきたかが問題になってくるのです。

 

 

 

 

 

実は「いい子」たちを取り巻く親を中心とした大人にもある傾向が見えるのです。それは戦後、日本の社会が求め、つくりあげてきた「いい子」の典型例がそこにあるとわたしには思えるのです。

 

 

 

 

 

具体的にいうと、次のような”型”です。全体としてまじめで実直、勤勉で日本の経済成長を支え、リードしてきた人たちが親となり彼らが口癖のように子どもたちに言うセリフです。

 

 

 

 

 

「がんばれ、我慢しろ、しっかりやれ」「弱音を吐くな、泣くな」「他人に迷惑をかけるな、後ろ指をさされるな」

 

 

 

 

 

「○○をしてはいけない、○○しなければならない、約束(納期)は絶対に守れ」

 

 

 

 

 

特に昭和40年代以降、”企業戦士”といわれた父親たち、そして”内助の功”で支えてきた母親たちは、このセリフを呪文のようにとなえることで「努力が報われた」わけです。

 

 

 

 

 

効あってか経済的な豊かさと、人を頼らなくても生活できる”核家族化”を得たのです。

 

 

 

 

 

それはそのまま「がんばれば努力は必ず報われる、結果よければすべて良し」の価値観をときに妄想的と思えるほどに、確固たるものにしたのです。

 

 

 

 

 

結果主義はプロセスを軽視し、二分法(白・黒、やるか・やらないか)を生活の隅々まで浸透させていったのです。

 

 

 

 

 

それは「あいまいさ(不純)」を否定するものでもあったわけです。しかし、そうなんでも「すっきり」と割り切れるものではないのです。

 

 

 

 

 

「努力して報われるときもあるが、報われないときもある」と了解して努力していればいいのですが、すべて報われると思ってしまうと「不純さ」を背負ってしまうことになるのです。

 

 

 

 

 

戦後「弱音を吐くことなく努力し、報われてきた」親世代は、息抜きや逃げ場を子どもに与えることは”怠け”につながるのではないかと不安に思えていたのでしょうか。

 

 

 

 

 

だからとにかく目標を定め、達成するまで休まず、「刻苦勉励」することを”強迫的”に子どもたちに強いたのです。

 

 

 

 

 

そのことに何の疑いも持たなかったのです。なぜならそれでこそ、社会から「いい人間、優れた人間」として評価されたからです。

 

 

 

 

 

また、それゆえ日本社会の経済的豊かさが達成されたことも事実だからです。

 

 

 

 

 

そして、経済成長に「刻苦勉励」してきた親世代が子に授けた次なる目標は何なのでしょうか。それは、学歴、偏差値主義の「受験地獄」をわき目もふらずに突っ走っていくことでした。

 

 

 

 

 

「22歳までに大学を卒業する」、そのことを”納期”にして、より”商品価値”の高い大学を弱音を吐かないで目指す子が「いい子」となったのです。

 

 

 

 

 

「いい子」ほど、肯定感をほしがっている

 

 

 

 

 

「いい子」というのは、親や先生に対して、いざというときには「肯定される」という思いを幻想と思えるほど強く持っているようにわたしには思えます。

 

 

 

 

 

特に親子関係では「絶対に裏切らない」と思っているのです。現実にはいくらでも裏切られてしまうこともあるのに、いい子はそういうことは絶対にないと信じている傾向があります。

 

 

 

 

 

だから、いざというときに否定されたりすると、根の深い傷を持ってしまうのです。

 

 

 

 

 

余談ですが、わたしは勉強があまりできませんでした。学校の勉強はできませんでしたが、生活力のある子どもでした。

 

 

 

 

 

さほどの努力をしなくても、いろいろな人間関係を受け入れることができました。これは単に、「なじむ、なじまない」の問題です。

 

 

 

 

 

わたしは勉強にはなじみませんでしたが、人と付き合うことは面白さを感じるほどなじんでいたのです。話しを戻しましょう。

 

 

 

 

 

肯定とは、自分がなじまないものに出会ったときでも、「それでいいんだよ」と言ってあげられることでもあると思います。

 

 

 

 

 

だから、努力して報われても「いいんだよ」、努力しなくて報われても「いいんだよ」、そして努力したけれど報われなくても「いいんだよ」なのです。

 

 

 

 

 

「うちの子は努力しない。努力していたらわたしは何も言いませんよ・・・・・」と言う親御さんがいます。努力は本人にしかわかりません。

 

 

 

 

 

努力が足りないというのは、本人でしか決められないものなのです。

 

 

 

 

 

ハンディを背負った人が、いろいろと努力して機能訓練をしている姿を時々テレビなどで見ます。

 

 

 

 

 

でも、わたしにはあれがとても残酷に思えてしまうときがあるのです。

 

 

 

 

 

努力している姿を見て、褒めて、さらに努力を促す・・・・・、努力が取引条件になっているような気がするのです。

 

 

 

 

 

努力しないと認めてくれないという関係になってはいないかと思ってしまうのです。

 

 

 

 

 

「ハンディがあっても、それでいいんだよ」と言ってもらえる関係がなければ、何の努力も報われないと思うのです。

 

 

 

 

 

最後にある青年が言った言葉を紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

「誤解されるのを覚悟で言いますが、障害者の人はいいですよね。失礼な言い方かもしれないけれど、手の不自由な人に誰も手を使えとは言わない、足の不自由な人に、山に登れとは言いません。

 

 

 

 

 

もし必要があれば、誰かがそれを手助けしようとします。でも、心が弱い人に対して、『わたしが手助けしましょう』とは誰も言いません。

 

 

 

 

 

いくら努力しても小心な人は小心、気の弱い人は弱いままの場合があります。でも、それを本気になって『それでいいよ』とは誰も言いません。

 

 

 

 

 

『困ったことがあったら、僕に言えよ。付き合うだけなら付き合うから』とはなかなか言ってもらえません。だから、心とは違って人の目に見える障害者に人はいいなと思ってしまいます」とその青年は言ったのです。

 

 

 

 

 

何でも言い合える間柄、けんかしても仲良くなることへの努力をあきらめない、怒って、泣いて、そして、いつか折り合って、明日には一緒に笑える「お互いさま」の関係・・・・・そういう人間関係があればこの社会の中で、「透明な存在」にならなくてすむはずです。



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