ひきこもり体験記~大学受験の失敗から始まったひきこもりと家庭内暴力~
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ひきこもり体験記~大学受験の失敗から始まったひきこもりと家庭内暴力~

2019年08月08日(木)12:41 PM

「34歳・男性・東京都」

 

 

 

 

 

僕がひきこもりを始めたのは高校を卒業してからです。

 

 

 

 

 

大学受験の失敗、挫折から始まりました。当時は一流でなければだめだと思い込んでいました。

 

 

 

 

 

だから受ける大学も偏差値もなんとかひっかかるところを狙っていました。

 

 

 

 

 

滑り止めなんて、もってのほかで、とにかく少しでもランクアップするためには一流大学ということしか頭にありませんでした。

 

 

 

 

 

でも、無理なところを受験しても当然不合格になるわけで、それを突きつけられたころ、僕の人生は狂いはじめました。

 

 

 

 

 

ひきこもりの傾向は、今考えると高校二年のころにあったように思います。

 

 

 

 

 

ゴールデンウィーク前、まだクラス替えして間もない頃、体育の授業で創作体操というものがありました。

 

 

 

 

 

列をつくって並びました。その中で創作体操のリーダーを選ぶのです。

 

 

 

 

 

ほかの列はあっという間に決まる中、僕の列はなかなか決まりませんでした。

 

 

 

 

 

ずっと嫌な雰囲気が漂いました。体育教師もイライラしているのがはっきりわかりました。

 

 

 

 

 

その雰囲気に耐え切れなくなった僕は、「はい、僕がやります」と手をあげてしまったころからトラブルが始まりました。

 

 

 

 

 

最初、メンバーみんなが放課後に残ってくれるものだと思っていました。ほかの列がそうしていたからです。

 

 

 

 

 

ですが、僕の列は誰も残ってくれませんでした。今考えてみると、僕のかけ声がとても弱々しかったのかもしれません。

 

 

 

 

 

一人はひどいやつでクラスの掃除もせずに帰っていきました。あまりの非協力的な皆の態度に僕は嫌気がさし、プチひきこもりになりました。

 

 

 

 

 

一人相撲のようなものだったと今では思えます。それから二週間、学校に行きませんでした。

 

 

 

 

 

ゴールデンウィークのころをはさんでなので、連続三週間ぐらいは学校に行きませんでした。

 

 

 

 

 

まもなく担任の先生が家にやってきました。何を話したのかは今は覚えていません。

 

 

 

 

 

そして、学年主任と学校の相談室の先生もやってきました。また、列をつくった友人もうちまで来ました。

 

 

 

 

 

彼は「無責任だ。俺たちの列だけ創作体操ができていない!」と怒りの手紙をポストに入れていきました。

 

 

 

 

 

僕は彼らが来てくれたとき、一切会いませんでした。だから彼らも怒りが爆発したのだと思います。

 

 

 

 

 

僕はとても苦しみました。家にもいられず、公園のベンチで横になったり、電車に乗って知らないところまで行って時間をつぶさないと気がおかしくなりそうでした。

 

 

 

 

 

学校の相談室の先生はとても優しく、うまく僕を誘導してくれて、相談室まで車で 五日ぐらい送り迎えをしてくれました。

 

 

 

 

 

その人は国語の先生でした。相談室で授業を受けたこともありました。ある日、ファイルらしきものを勝手に見てしまいました。

 

 

 

 

 

そこには自殺未遂を繰り返す女の子のファイルがありました。それを見て、「ああ、こういうところなのか」と思いました。

 

 

 

 

 

相談室で先生の授業を受けているうちに、なぜだか今でもはっきりわからないけれども、「クラスに帰ってみよう。何を言われても構わない」と思いはじめました。

 

 

 

 

 

そして思い切って帰ってみました。クラスメートは誰も話しかけてきませんでした。

 

 

 

 

 

学級日誌を見てみると、そこには日直が「何で来ないのだろう?」と書いてありました。

 

 

 

 

 

担任の先生が、なぜ僕が長期にわたって学校を休んだのかを言ったかどうかは定かではありません。

 

 

 

 

 

とにかくいつの間にか僕はちゃんと学校には戻れました。友達もできました。

 

 

 

 

 

つらさも取れ、夏休みも夏期講習(大学受験に備えての)に出て、心身ともに健康的になってきました。

 

 

 

 

 

ただ昼休みだけ一緒に弁当を食べてくれる友達がいませんでした。

 

 

 

 

 

学校の帰りに一緒に帰ってくれる友達はいたのですが・・・・・。

 

 

 

 

 

今にして思うと、いじめられて、傷つき、苦しんでいる人は多いのかもしれませんが、僕の場合は一人相撲でした。

 

 

 

 

 

ほかの生徒とコミュニケートができませんでした。

 

 

 

 

 

クラス替えがあった直後とはいえ、僕のコントロールのきかない人間関係、僕の意に反する人間関係は受け入れがたかったのです。

 

 

 

 

 

わがままだったと思います。我を通すところがありました。

 

 

 

 

 

一流への憧れ

 

 

 

 

 

話は進み、高校三年の卒業のころ、進路を決めることになりました。僕は無理して東京六大学のある大学を含め、四つの大学を受験しました。

 

 

 

 

 

この嫌な思い出しかない高校のある地元を離れ、東京で生活することにあこがれていました。

 

 

 

 

 

東京にあこがれていたというよりは、一流にあこがれていました。

 

 

 

 

 

でも、成績とのギャップを考えれば、それなりの大学、必ず受かる大学も受けるべきだったのです。

 

 

 

 

 

その大学に入学しても、僕の人生はつらいものだったと今では思いますが・・・・・・。

 

 

 

 

 

結局見事に受験に失敗しました。さすがにショックでした。初めての挫折です。

 

 

 

 

 

小学校、中学校、高校までは何とか学校の勉強についていった僕が、成績も良かった僕が、初めて否定されたかのような打ちのめされた気分になりました。

 

 

 

 

 

高校の卒業式も、受験に失敗したことをみんなに言うのが嫌で行きませんでした。卒業証書は父親が取りに行ってくれました。

 

 

 

 

 

実は、僕は努力ということを勉強についてはしていませんでした。それもありだとは思うし、ありがちな話だから僕は自分を責めていませんでした。

 

 

 

 

 

しかし、父には「こいつはゲームばかりやっているから、入試で失敗したんだ」みたいなことを僕の知らない来客に言われて、すごく腹立たしかったことを覚えています。

 

 

 

 

 

甘えかもしれませんが、もう少し気を使ってほしかったです。勉強しなかったことで僕を責めるのは、父親として親として当然だと思いますが、来客、しかも僕の知らない人の前で言われたことは腹立たしかったです。

 

 

 

 

 

大学に受かろうが、落ちようが、僕は東京の予備校なり大学に行くつもりでした。

 

 

 

 

 

しかしわが家には、仕送りするような余裕など経済的にありませんでしたから、新聞配達の奨学金制度で東京の予備校に入りました。

 

 

 

 

 

でも結局これも挫折しました。早朝の配達の厳しさから逃げたのです。

 

 

 

 

 

二週間もたたないうちに、札幌の自宅に舞い戻り、ひきこもりました。

 

 

 

 

 

僕が奨学金の義務、つまり新聞配達の仕事をしなかったおかげで、予備校の授業料などの借金が 五十万ほど父親にのしかかりました。

 

 

 

 

 

家庭内暴力と精神科への入院

 

 

 

 

 

最初は自宅浪人するつもりでしたが、次第に眠れなくなり、首が曲がって真っすぐにならずまともに話せなくなって近くの病院に入院しました。

 

 

 

 

 

注射を打たれるとすぐに回復しましたが、親が僕のひどい家庭内暴力のことを訴えたため、一か月入院することになりました。

 

 

 

 

 

当時はリモコンを放り投げたり、家の中の物を壊したりして暴れることが頻繁にありました。

 

 

 

 

 

病院では、「心因反応」と診断され、「内観療法」を強制的にやらされました。内観療法といえば聞こえはいいのですが、ただ無理やり反省のため保護室という独房に閉じ込められました。

 

 

 

 

 

そこでは製造することを強制され、ずっと正座をさせられていました。たまにチェックに来る職員がいて、僕にノートをつけさせました。

 

 

 

 

 

いかに親に迷惑をかけたか、人から何をしてもらったかなどを書かされました。

 

 

 

 

 

僕はそれである程度は親に迷惑をかけたことを反省し、両親に十日目で面会したときに泣いて詫びました。

 

 

 

 

 

しかし、僕の家庭内暴力はこの後も続くことになります。なにせ半強制的に反省させても、それは僕の考えでは嘘でごまかしだったからです。

 

 

 

 

 

父親の自殺未遂、再度の入院

 

 

 

 

 

その後、自営業でやっていた店がつぶれ、父は自殺未遂をしました。タバコを鍋で煮詰め、それを飲んだようでした。

 

 

 

 

 

僕は唖然としていました。病院へ救急車で向かいました。僕が病院にいったころは命には全く問題はありませんでした。

 

 

 

 

 

僕には心のぶれも動揺もありませんでした。父が死のうが生きようがどうでもよかったのです。

 

 

 

 

 

父には悪いと思いますが。父は自殺してもお金が出る保険で、何とか借金を返してほしいと自殺未遂をしたと後で遺書を読んでわかりました。

 

 

 

 

 

父は三ヶ月ほど病院に入院することになりました。わが家はマンションからアパートに引っ越すことになりました。

 

 

 

 

 

引っ越しの準備をしていた時、僕はおかしくなってせっかく詰め込んだ荷物を全部出してしまいました。

 

 

 

 

 

そして大声で「絶対に引っ越しはいやだ」と言っていました。母が警察に連絡し、僕は精神科の病院に強制的に連れて行かれました。

 

 

 

 

 

僕は半年入院しました。そこでの体験は僕にとって貴重なものとなっています。同じ病棟の入院患者さんたちと交流できたのはとても大きかったのです。

 

 

 

 

 

僕の入院した病院はとても良い病院で、婦長さんをはじめとする看護士の皆さんはとても優しく、設備は整っていて体育館もあり、作業療法士の先生たちも本当に優しく接してくれました。

 

 

 

 

 

アルバイトを繰り返す日々

 

 

 

 

 

やがて僕は退院しました。そして大学受験は頭から離れ、何とかアルバイトをすることを考えました。

 

 

 

 

 

父と僕とで土木関係の仕事に四ヶ月ほど行きました。いわゆる飯場で、24時間ほかの作業員たちと共に過ごしました。そこは、お酒とギャンブルというすごい世界でした。

 

 

 

 

 

仕事自体はきついけれども楽な面もありました。雨が降れば休みになりました。僕は札幌へ帰るまでに50万円ためました。

 

 

 

 

 

その後、自信満々で精神科の主治医と面談しました。そしてアルバイト探しを始めました。けれどもそのとき本当は僕はアルバイトを望んではいませんでした。

 

 

 

 

 

捨てたはずの一流志向がまた出てきてしまったのです。専門学校にも入りたいと思いました。考えてみれば、50万円あれば何か出来たのかもしれません。

 

 

 

 

 

しかし、僕は無駄遣いをして終わってしまいました。アルバイトは単純作業と接客は絶対に選びませんでした。

 

 

 

 

 

当時はまだバブル経済崩壊の前兆があるくらいで、アルバイト情報誌は不況の昨今よりずっと分厚く、面接へ行けばすぐ採用されました。

 

 

 

 

 

でも僕は何をやっても続きませんでした。嫌なことがあるとすぐに逃げてしまうのです。家の外では嫌なことが待っています。アルバイトは早ければ三日、最長 一か月というひどさでした。

 

 

 

 

 

主治医からは無理をしない方がいい、フルタイムのアルバイトはやめなさいと言われても、僕はプライドが高く、フルタイムのアルバイトばかり狙っていました。

 

 

 

 

 

でも全部挫折しました。準社員になれると励まし、評価してくれたところも結局挫折してしまいました。

 

 

 

 

 

何度かそんなことを繰り返しました。そしてこんなゆがんだプライドを持った自分は、主治医の先生に会うことからも逃げてしまいました。

 

 

 

 

 

失敗を先生に言うのが怖かったのです。今思えば仕事してなくたって、先生は怒るわけでもなかったのにと思います。

 

 

 

 

 

また高校時代の一人相撲の悪い癖が出ました。結果再びひきこもることになりました。

 

 

 

 

 

離婚して必死に働く母、ひきこもる自分

 

 

 

 

 

このころ母が父の金遣いの荒さに愛想を尽かし、離婚の話し合いが持たれました。

 

 

 

 

 

父はかなり不本意だったみたいですが、母の意志は強かったようです。離婚後すぐ働き始め、それから10年パートで頑張ってくれました。

 

 

 

 

 

わがまま息子の僕のために・・・・・・・。それに比べて僕は思い通りにならない社会に恐怖心を覚え、逃げ、今までのアルバイトの失敗による自信のなさ、いろんな感情が渦巻いて家にこもることになりました。

 

 

 

 

 

家にいれば、ご飯は働かなくても、家事すらしなくても、三度三度母が用意してくれます。

 

 

 

 

 

ある意味、ひきこもっていれば楽でした。自分で何もしなくてもいいのですから。自分のやってることが正しいと思っていました。

 

 

 

 

 

社会に出ていけなかったのは、父、母のせいにしていました。ひきこもりの原因は親のせいだと。

 

 

 

 

 

思い通りにならなければ、母の作ってくれた温かい食事のテーブルをひっくり返し、冷凍食品の入ったものなんて食えないととんでもない考え方で、母が仕事しながら一生懸命作ってくれたご飯を床にひっくり返していました。

 

 

 

 

 

母親はわがままで家庭内暴力ばかり振るっている僕に恐怖し、僕が欲しいものは買い与え、無条件で何でもしてくれました。

 

 

 

 

 

そんな生活が僕が 19歳の時から 27歳ぐらいまで続きました。僕は社会に出ていくよりは、母との母子密着カプセルを選びました。

 

 

 

 

 

マザコンのため、社会に出ていけず、しかもも出て行くなら一流大学でなければいけないという思いがひきこもりの初期からあり、違う人生もいっぱいあるのだという考え方が全くありませんでした。

 

 

 

 

 

「白黒思考」というものです。真ん中のグレーのゾーンだったら、僕はもう少し早くひきこもりから抜け出せたかもしれません。

 

 

 

 

 

そしてこうも思います。一流大学にもし僕が合格しても、必ずこの心の問題にはぶつかっていただろうと・・・・・・。

 

 

 

 

 

「あなたは悪くない」

 

 

 

 

 

僕が外に出たきっかけは、パソコンを購入したことと、AC(アダルトチルドレン)の本を書店で見かけたことでした。

 

 

 

 

 

本の帯に「あなたは悪くない」というメッセージがあったのが決定打でした。「大人になれない子供」。僕は全部自分が悪いと思っていました。

 

 

 

 

 

そんなことはないんだと本を読んではじめてわかりました。自助グループにも行きたいと思いました。

 

 

 

 

 

そして2年も通うのを中断していた病院にも再び通い出し、主治医にACの自助グループを紹介してもらって通い出しました。

 

 

 

 

 

自助グループのメンバーさんはみな温かく、母の胎内にいるかのような雰囲気がありました。

 

 

 

 

 

インターネットで僕と同じように精神を患っている人、同じACの自覚がある人とつながれたことも大きかったです。そこでできた友達とは、今でも交流が続いています。

 

 

 

 

 

今にして思うと、自分で自分を責め続けて身動きできない状態に陥っていた僕にとって、一度は「自分は悪くないんだ」と親に責任転嫁することが必要だったんだと思います。

 

 

 

 

 

僕は2年間、ACの自助グループに通って、仲間たちに「親にこんなふうに傷つけられた、だから僕はこうだった」という話を続けました。

 

 

 

 

 

でもそのうちに、「自分は何をしてるんだろう」と思うようになりました。

 

 

 

 

 

親の悪口ばかり言って、何も変わらない自分・・・・・・。僕は、親は親で精いっぱいだったんだ、結局のところ自分の人生に責任を取るのは自分しかいないんだということに気づいていきました。

 

 

 

 

 

自分の人生に責任をとるのは自分

 

 

 

 

 

僕は昨年から、生活保護を受けて国に面倒を見てもらってアパートで一人暮らしをするようになりました。

 

 

 

 

 

外に出て、生活して思うのは、世の中は自分の思い通りにはならないということです。

 

 

 

 

 

でも人の中で生きるってこんなに素晴らしいことなのかということもわかってきました。

 

 

 

 

 

まだひきこもりのハンディで人間関係でトラブルを起こしたりしますが、今、小規模作業所に通いながら人間関係の練習をしています。

 

 

 

 

 

いろんな人に迷惑をかけながら・・・・・・。この作業所はアルコール依存症の自助グループにいた人たちが立ち上げた場所で、様々な人が出入りしています。

 

 

 

 

 

僕は週に五日、午後一時から七時まで通って、ビーズづくりや名刺印刷、ホームページの作成などを担当しています。最近では、作業所からの情報発信のための雑誌作りも始めました。

 

 

 

 

 

わずかながらも作業手当ももらえるし、そのぶん責任もはたさなくてはいけません。

 

 

 

 

 

今の僕は、通わせていただいている作業所をはじめ、いろんな社会資源、そこで働く人たち、同じひきこもりや対人恐怖を持っている人たちと心でつながっていると感じながら生活しています。

 

 

 

 

 

当分は作業所での活動を大事にしながら、いずれ少しずつアルバイトを始めて、生活保護の金額を減らしていけたらと思っています。

 

 

 

 

 

「すべての人が挫折を経験するんだ」と作業所の所長さんに言われました。そこで自分を知り、成長していくんだそうです。

 

 

 

 

 

僕は挫折をした自分を見たくありませんでした。認めたくありませんでした。だからひきこもりました。

 

 

 

 

 

なにも一流大学に行かなくても他にいっぱい選択肢があったのに。そして一流大学へ行ったからといって、幸せになれるわけでもないということに気づかなかった自分がいました。

 

 

 

 

 

僕は苦しい家庭に育って苦しかったけれども、結局どんなに人に責任転嫁しても、必ず自分に返ってきます。

 

 

 

 

 

自分の人生に責任を取るのは、自分なんだと痛感しています。父や母だってずっと生きていてくれないし。

 

 

 

 

 

人間は社会的動物だといわれます。やはり人とつながっていると楽しいし、勉強になります。

 

 

 

 

 

自分だけの自我が肥大した世界から、少し自我を抑えるだけで、ひきこもり、または対人恐怖の仲間と交流できる場が札幌にはありました。

 

 

 

 

 

なりたい自分になるためには努力も必要だけれど、まずは人間というのは他者がいる世界にいないと自分のことがわかりません。

 

 

 

 

 

家にいれば、何でも思い通りになります。何でも思い通りになるから、僕はおかしくなってしまいました。

 

 

 

 

 

でも今はもうそんな自分の思い通りになる世界には戻りたくありません。

 

 

 

 

 

今僕は月給三万円のお仕事をさせていただいています。

 

 

 

 

 

父や母、周囲の人々への感謝の気持ちと自分の可能性も忘れたくないと思います。

 

 



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