人間関係の修復能力
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人間関係の修復能力

2019年07月08日(月)10:59 AM

大人も子どもも最近、折り合う、歩み寄る、譲り合う日常の体験が少なくなってきている感じがします。

 

 

 

 

 

システムとしての公助が整備され、経済的な豊かさも得られました。それはそれですばらしいことだと思いますが、その一方で人を頼りにしたり、当てにしなくても生きていけるとどこかで傲慢にもなっていないでしょうか。

 

 

 

 

 

また本来、自助・互助・公助のはずが、公助・互助・自助であると思い違いしている世代が増えてきてはいないでしょうか。

 

 

 

 

 

お醤油が足りない、ちょっとお隣から借りなくちゃと頭を下げなくても、コンビニが夜中でも営業しています。

 

 

 

 

 

寂しいなあ、遊びたいなあと友だちに声をかけなくても、ゲームがあり、インターネットがあります。

 

 

 

 

 

物質的、経済的な豊かさが、わたしたち一人ひとりを孤独にさせている面にも、無頓着であってはいけないと思います。

 

 

 

 

 

人はせめぎ合って、折り合って、お互い様の中でしか、人間関係の修復能力を学ぶことができないという基本を忘れている気もします。

 

 

 

 

 

矛盾を抱えていても、ケンカしても、あきらめなければいつかは仲直りができるとわたしたちは自信を持って次の世代に生身で語ることができるでしょうか。

 

 

 

 

 

子育てを通して伝えなければならないことは、これを理屈ではなく体で体験し、習得してもらうことです。

 

 

 

 

 

 

そしてそれは、情緒を豊かにすることでもあります。人は絡み合ってこそ、やさしさや悲しみなど、すべての情緒が身につくものなのです。

 

 

 

 

 

一人で本を読んだだけで人間関係のやさしさや難しさなどわかるわけがありません。

 

 

 

 

 

ある大学生は、「やさしさについて文章にはいくらでも書ける。しかし僕は、どうすることがやさしさなのかよくわからない」と言いました。

 

 

 

 

 

人は、相手の気持ちや状況を思うほど、矛盾を抱えるものです。でもそのときに人は、人のやさしさや思いやりを感じるのです。

 

 

 

 

 

それは、自分に声をかけてくれる人との新たな出会いを含めてでもあります。

 

 

 

 

 

結局は人を見限れない自分に気づき、そのことで自分自身をあたたかく見つめることができるのです。あきらめではなく、「これでいいんだ」という実感です。

 

 

 

 

 

人は人に誠実であろうとすれば、割り切ったり、はっきりさせることはなかなかできないものです。

 

 

 

 

 

人間関係は本質的には曖昧さを引きずっていくのです。曖昧であるから、しがらみを抱えているから、人はつながっていくわけです。

 

 

 

 

 

すべてを割り切っていったら、孤独で生きていけません。曖昧ではっきりしない自分だから、生きていく意味を考え、足元を見つめるのです。

 

 

 

 

 

今、強迫神経症(強迫性障害)を持つ若者が増えてきています。手を洗う、歯を磨く、でもいつもなんとなく汚い感じがして、1日中ズボンを何度も取り替えたり、手をふくタオルを何十本も取り替える人がいます。

 

 

 

 

 

また、何度も確認をしたり、白い手袋をしないと食事ができない人もいます。

 

 

 

 

 

なぜそんなに手を洗うのかといえば、特に人間関係の曖昧さや不純さやわずらわしさに耐えられないからすっきりさっぱりしたいのです。

 

 

 

 

 

何でもすっきりしないといられなくなるのです。でも人間関係は、テレビドラマのようにすっきりと時間で解決できません。

 

 

 

 

 

わずらわしさを引きずってこそ、今日の幸せがあるのです。生身の人間関係に耐えられない苦しみを、手洗いや何かにこだわることで埋め合わせているのです。

 

 

 

 

 

このような強迫神経症(強迫性障害)を抱える子どもたちの存在が知られてきましたが、その年齢を見るとやはり昭和40年以降の出生の人たちです。

 

 

 

 

 

昭和40年以降、日本の社会は大家族が崩壊し、核家族になってきました。うっとうしい地縁・血縁の人間関係から解放されたのです。

 

 

 

 

 

その家族づくりの中心層が団塊の世代です。友だちはいなくても家族で満ち足りていて、わずらわしい嫁と姑の問題もなくなり、なんとなく人間関係がすっきり、さっぱりになってきたのです。

 

 

 

 

 

団塊ジュニア世代の子どもたちが育ってきた社会では、人を頼らずに経済的自立のために頭を下げる必要がなくなりました。

 

 

 

 

 

でもそのために、人に頭を下げたり、人に甘えたり、人に頼ったりするコミュニケーション・スキルを学ぶ機会が少なくなったのです。

 

 

 

 

 

関東自立就労支援センターに相談に来ている子の多くは甘えるのが下手です。ちょっとまず先に「ごめんね」と言えばいいのに、「今日は中央線の事故で遅れたんです」と先に正当性を主張するので、関係がとげとげしくなってしまいます。

 

 

 

 

 

否定される恐さを持っているように感じます。肩肘張らずに、「ごめんね、すいません。迷惑かけました」と気持ちをオープンにすればいいと思います。

 

 

 

 

 

それが人間関係をつむぐことのはじまりです。自身の事情もあるけれど、相手の事情もあるのです。相手の気持ちも察していかないと、単なる一方通行のコミュニケーションになってしまいます。

 

 

 

 

 

「でもそのことはわたしの責任じゃありません。中央線が悪いんです」常に被害者であることを主張していきます。

 

 

 

 

 

するとコミュニケーションは「せめぎ合い」だけになってしまいます。

 

 

 

 

 

自分の正当性ばかりを主張することは、相手にとりつくしまを与えないということです。もう終わりにしたい関係ならまだしも、つながっていきたいのならあえてスキをつくらなければなりません。

 

 

 

 

 

それが折り合うということです。相手にゆずることは、決して負けということではないのです。

 

 

 

 

 

もしかしたらわたしたち自身、気づかないうちにせめぎ合って、折り合って、お互い様の営みを軽視してきたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

人と群れていたり、隣近所でおすそわけをしたりというような社会がなくなってきたのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

そして何よりも、すっきり、さっぱりしているけれど、味気のない人間関係が夫婦・親子・家族にまで持ち込まれてきたことが、家族の危機として現れているのです。

 

 

 

 

 

せめぎ合おうとしても、折り合うのに自信もなく、手間暇がかかるから最初からせめぎ合わない、そんな冷ややかな家族になってしまったのです。

 

 

 

 

 

もめごとを起こすのはやっかいだから、みんなが引いてしまうのです。

 

 

 

 

 

何か亭主に言いたいな、女房に言いたいなと思っても我慢してしまうのです。

 

 

 

 

 

「僕の家はまるで霞のかかった家族です」ある子がこう言いました。霞がかかっているとは、誰が何を考えているのかわからないということです。

 

 

 

 

 

自分が手の内を見せていないのに、子どもに何でも気持ちを聞いてあげるから話してごらんといっても、話せるわけはないのです。

 

 

 

 

 

子どもはどう手のうちを見せたらいいのかわからないのです。まずお父さん、お母さんからモデルになってほしいのです。

 

 

 

 

 

人はせめぎ合って、折り合って、お互い様の中で2つのことを身につけます。

 

 

 

 

 

1つは人間関係の修復能力です。人はケンカしても仲直りできるんだという実感です。そんな営みを体で子どもに伝えていますか。

 

 

 

 

 

「見なさい、母さんと父さんを。ケンカしても仲直りしているだろう」子どものモデルとなって、体感させていますか?

 

 

 

 

 

もちろんそれは、子どもにも家族のしがらみを感じさせることになりますが、きれいごとではいかないのが人と人です。

 

 

 

 

 

家族の中で傷ついたら、家族の中で癒していけばいいのです。気持ちを伝え合うこと、分かり合うことにこだわらない一人称的な関係は、お互いに楽なものです。

 

 

 

 

 

もめることがありません。でもそれは、つながっていないということでもあります。やはり、1年365日、二人称三人称では疲れるでしょう。

 

 

 

 

 

たまにはトイレで一人称になりたくもなります。けれど、1年365日、一人称ではつらすぎます。それに、今度は二人称になろうとしても、つながる術がわからなくなるのです。

 

 

 

 

 

孤立することにそれほどの努力はいりませんが、つながることにはかなりのエネルギーを必要とするものです。

 

 

 

 

 

「一人は気楽だけど楽しくはない」と言った子がいました。どちらがいいとか悪いとかではなくて、この使い分けが大切なのです。

 

 

 

 

 

これが”間”をとるということであり、現代の子どもたちはこの”間”の取り方が苦手なのです。

 

 

 

 

 

なぜなら現代の子どもたちは、偏差値教育、核家族化、少子化とデジタルな人間など、ずっと一人称的なライフスタイルの中で暮らしてきたからです。

 

 

 

 

 

インプットしたら必ずアウトプットがくると思っていても、人間関係はそうはいきません。そしてまたサブカルチャーの出現です。

 

 

 

 

 

たとえばインターネットは、現代には欠かせないコミュニケーションツールになっています。もちろん、インターネット自体は悪くはありません。

 

 

 

 

 

けれどこれは、一人称的なコミュニケーションにもなりうるのです。

 

 

 

 

 

メールは送りたいときに送れて、しかも相手に迷惑をかけません。この便利さ・手軽さが、人間関係への思い入れを変えつつあります。

 

 

 

 

 

わたしたちのまわりには、自分が気づかずにすむコミュニケーションツールが増え、それに気づかないうちに依存していくことが少なくありません。

 

 

 

 

 

スマホやタブレットなどもそうです。夜討ち朝駆けではありませんが、昔は人に手間暇をかけたのです。

 

 

 

 

 

手間暇をかけることが、その人を必要としているというメッセージなのです。我慢も身につけたと思います。

 

 

 

 

 

何度も何度も電話したり、手紙を書いたりして、「もう、全然連絡取れない人だね」「あんたもしつこい人だね」と言われたり、「ごめんね!何度も!」とねぎらってもらったり、多様なコミュニケーションと出会えたと思います。

 

 

 

 

 

それが今ではメールやスマホ等で簡単に連絡がつきます。これでは、人間関係に手間暇をかける能力が身につきません。

 

 

 

 

 

だから対立するのが恐いのです。もめるのが恐い、触れ合うのが恐いのです。家に友だちを連れてきても、自分はスマホをいじっていて、友だちはその横でゲームをしているのです。

 

 

 

 

 

そうではなくて、友だちと群れになって、関わりあって遊んでいる営みが大切なのです。

 

 

 

 

 

人は、人と関わりあってこそ肯定感が獲得できます。自分は自分でいいんだという実感です。

 

 

 

 

 

僕はこの人から相手にされているという実感を持たないことには、自分はここに生きていいんだという存在感が持てません。

 

 

 

 

 

これを自己肯定感といい、その反対が、神戸連続殺傷事件の少年Aが言った「透明な存在」なのです。

 

 

 

 

 

わが子を、生徒を、「透明な存在」にしていませんか。子どもたちのやさしさや思いやりは、他人事の人間関係の中では伝えることはできません。

 

 

 

 

 

子どもと共に、せめぎ合って、折り合って、お互い様の人間関係に身をおくことです。

 

 

 

 

 

自分の痛みや悲しみを、しがらみだらけの人間関係で受けとめてもらってはじめて、人のやさしさがありがたく思えるのです。

 

 

 

 

 

人間関係で傷つくことを恐れていては、やさしさとは出会えないのです。

 



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