「不登校その後」の若者たち
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「不登校その後」の若者たち

2019年06月07日(金)10:33 AM

「僕は体は大人でも精神年齢は14歳のままです。20歳を過ぎた僕のような不登校児っているんですか?」

 

 

 

 

 

やつれた父親に連れられて相談に来たA君(22歳)は、向き合うわたしに尋ねると、あごひげをなでました。

 

 

 

 

 

今、学校を見限って新しい人間関係の中で羽ばたいている子どもたちがいる一方で、その場が得られずに年を重ね「20歳の壁」を迎えて経済的自立におびえる「不登校その後」の若者たちがいます。

 

 

 

 

 

彼らに共通した訴えは、人間関係が「つらい、分からない、信じられない」と心にカギをかけながらも、その奥深くでは人と触れ合いたいのに触れ合えないという、葛藤した心理状態に置かれていることです。

 

 

 

 

 

中学2年で不登校になったA君は、実直な父親と遠慮がちな母親の下で育ちました。

 

 

 

 

 

父親の口癖は「個性尊重・主体的選択」で、互いに迷惑をかけず、「自分らしく」生きることでした。

 

 

 

 

 

「無風状態」の家庭は周囲から「さすがご両親が先生だから」と言われていました。

 

 

 

 

 

しかし、よくできる先生の子のA君も、中学に入学すると「並みの子」になりました。

 

 

 

 

 

思うように伸びない成績をプライドで隠そうとする行動が、不自然さをクラスの仲間に印象づけ、いつも声をかけてくれた幼なじみもしだいに他人行儀になっていきました。

 

 

 

 

 

中学2年になると、教室の片隅で「お客様」になっていました。

 

 

 

 

 

目の前の楽しそうなグループのおしゃべりも、心の中では遠くに見えました。

 

 

 

 

 

内心、友達と人間関係を結ぼうとしても「自分の気持ちに正直になれ、それが個性的な人間になることだ」との父親の教えが頭から離れず、友達と意見が食い違っても譲ることができませんでした。

 

 

 

 

 

「正直に自分の気持ちを言っていたら、理屈っぽいやつと呼ばれて友達は一人もいなくなっていた」と言います。

 

 

 

 

 

そんな日々を送っているうちに「個性」が「孤性」になってしまっていました。

 

 

 

 

 

二学期になると学校に行くと体がしびれるようになり、帰宅すると治るので学校を休むようになりました。

 

 

 

 

 

両親は初めこそ心配しましたが、本人の「主体的に選んだこと」として不登校を「積極的に」認めてくれました。

 

 

 

 

 

高校進学は意に反し、「個性的生き方としての不登校を貫き」拒絶しました。

 

 

 

 

 

18歳のときに、中学の級友に、「おまえ、今なにしてるの?」と聞かれてA君は躊躇しました。

 

 

 

 

 

A君には3年間の存在証明が何もありませんでした。

 

 

 

 

 

20歳の成人式を一人、部屋で迎えるとそれまで「受容的」だった父親が豹変しました。

 

 

 

 

 

「いつまでブラブラしているんだ!」と言われ、ゲームのスイッチを消されてしまいました。

 

 

 

 

 

「僕は平和な家庭に育ったので、けんかして仲直りしていく友人関係に自信がありませんでした。

 

 

 

 

 

対立することが予想できる仲間とのふれあいに恐れていました。でも、父親の言う個性尊重が僕の自己弁護でした」

 

 

 

 

 

人間関係を修復するという体験不足を抱えるA君の本質的な悩みは20歳になっても変わることはありませんでした。

 

 

 

 

 

それを知った父親は、A君の不登校以来理解できず胸につかえていたものをやっとおろすことができました。

 

 

 

 

 

優しく叱ってほしい

 

 

 

 

 

浪人生活を「鼻持ちならないプライド」に引きずり回され、今も「現実検討」を避けてしまうという若者Z君(23歳)が、父親の運転する車で母親と3人で面接に来てくれました。

 

 

 

 

 

口ごもる彼を見ながら、わたしに頭を下げて恐縮する母親、そしてその傍らで目をしばたかせ腕を組む父親がいます。

 

 

 

 

 

わたしはその場の緊張感を解くため、両親を別室に案内し、彼と2人の空間を作りました。

 

 

 

 

 

「今の僕には母性はいらないんです。父性が必要なんです。でも母性しか知らないで育った僕は、怒鳴って励ますだけの父親には、どうしても反抗してしまうんです」

 

 

 

 

 

息をつなぎながら彼はこう言うと、遠慮するように2冊の本を出しました。

 

 

 

 

 

1冊は鍛錬教育を説くヨットスクール校長の本で、もう1冊は拙著でした。

 

 

 

 

 

「失礼ですが、僕にはどちらもダメなんです。両方が合わさったような施設はありませんか。

 

 

 

 

 

父親にもこの気持ちを理解してほしいんです」わたしはうつむく彼の表情から、このひと言が妙に納得できてしまいました。

 

 

 

 

 

建築業を営む父親は非常に子煩悩で、休みになると川で彼を泳がせ、釣りをするのが趣味でした。

 

 

 

 

 

彼は幼い頃から父親の使う道具を持ち出しては「お父さん、お父さん」で育ってきた子のようでした。

 

 

 

 

 

「財産はないけど、子どもが宝だね」が両親の口癖でもありました。

 

 

 

 

 

父親は、請け負い仕事で長期に家を不在にするときは必ず、彼に「お母さんと弟を頼むぞ」と言って出ていました。

 

 

 

 

 

その間、母親が留守をして帰宅するたびに、彼は丸太ん棒を持って玄関に立っていました。

 

 

 

 

 

小中学校と「虫取り名人」だった彼は、学習能力も運動能力も持ち前の集中力で、努力することもなく高水準を維持できました。

 

 

 

 

 

父親にとっては「トンビがタカを生んだみたいで、自分の苦労話をする必要もないほど、既に息子は自分を越えていた」自慢の子どもでした。

 

 

 

 

 

「三拍子(遊・頭・体)そろった理想の子」の子育てに「やんちゃな父親」の出番はありませんでした。

 

 

 

 

 

高校は進学校に入学しました。「心配したとおり、虫ばかり取っているような子はいなかった」と彼は言います。

 

 

 

 

 

そして「自己中心的に守られて育ってきた性格は、融通の利かない偏ったまじめさと几帳面さばかりが表に出てしまった」ようです。

 

 

 

 

 

現役で合格できる大学は「学校で口にすることさえはばかられる私大」でした。

 

 

 

 

 

国公立を目指した浪人生活は、ただプライドを維持することに費やされ、腕と世渡りで「中卒を誇り」に生きる父親に嫉妬しました。

 

 

 

 

 

そして「分からない子育てには無駄口をたたかず、仕事に専念した」父親は、いつの間にか「忍耐」「努力」以外のことを言わなくなっていました。

 

 

 

 

 

 

かつて、失敗談を照れながら語ってくれた父親がなつかしいとZ君は思っていました。

 

 

 



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