ひきこもりと母子密着
ホーム > ひきこもりと母子密着

ひきこもりと母子密着

2019年04月22日(月)1:13 PM

ふつう、多くの母親たちは「母子密着」という言葉を嫌います。嫌うと言うよりは、まわりが想像する以上にその言葉を重く受け止め、落ち込んでしまいます。

 

 

 

 

「母子密着」という言葉は、母親たちにとって、自分を否定される意味が混入されているようです。換言すると、母を完全に否定する、完全否定語として「母子密着」は母親に届きます。

 

 

 

 

ではなぜ、母子密着は母にとって完全否定語なのでしょうか。それは一言で言うと、子どもに何か問題が起こったとき、原因を「母」に還元してしまう社会的風潮や同意があるからです。

 

 

 

 

たとえばひきこもり支援の場合、支援の中核となる理論に、臨床心理学や精神医学があり、通常それらは、否定的な状況の原因を個人や家族に向けます。

 

 

 

 

否定的な状況の根源には母や家族があり、それを一言で説明する際、「母子密着」はたいへん便利な言葉なのです。

 

 

 

 

母と子どもが必要以上に結びついてきた、そこにひきこもりに至った原因があるというわけです。

 

 

 

 

つまりは。母の子への向かい方そのものが、現在の否定的状況(ひきこもり)の原因であるという思考、こうした思考を手短に説明する言葉の一つが母子密着です。

 

 

 

 

だから母親たちは、母子密着という言葉から、ひきこもりの原因=自分(母自身)という言葉を連想してしまい、深く落ち込み、その言葉は自分を完全に否定する言葉として響いてしまうのです。

 

 

 

 

ここにはいくつかの謎があります。まずは、密着はそもそも悪いことなのでしょうか。次に、なぜ社会は原因を母親に向けるのでしょうか。そして母親は、なぜその母親原因説をストレートに受け止めてしまうのでしょうか。

 

 

 

 

まずは、「密着」について考えてみましょう。母子が密着している親子は、別に珍しくもなんともありません。そのことを題材に作品化している芸術家や文学者などは山ほどいます。

 

 

 

 

芸術家でなくても、たとえば80歳母親・55歳男性会社員という組み合わせにおいて、それなりに密着(つまりはお互いを過剰に意識し合うような行為や発言)している親子なども時々見かけます。

 

 

 

 

そもそも親子というものは、両者が死んでいなくなるまで永久に親子であり続けます。どちらかが死んでも、どちらかが生きている限り、親と子は互いに(それが記憶のなかであっても)親子であり続けます。

 

 

 

 

たとえ初めから親が不在であっても、途中で関係が途絶えたとしても、それは「不在としての親」として、子は親を抽象的にではありますが想定しています。

 

 

 

 

これは善悪の問題でも幸福・不幸の問題でもなく、大げさにいうと人間存在の仕組みのうおうなものとして、初めから人間に組み込まれているものです。PAK85_pennigiru20140312233042500_TP_V1

 

 

 

 

それはたとえば、人間とその身体を切り離して捉えられないように、人間を考えるとき親子という問題はすでに組み込まれています。

 

 

 

 

もっと有り体に言うと、何もないところから人は生まれてこないということです。たとえコンピューターのDNA操作によって人が生まれたとしても、人はその操作から生まれます。

 

 

 

 

生まれるという行為を通して生命体となります。そしてそれがひとつの生命であるということ、その言明のなかに、「親子」ないし「親が子を生む、子は親から生まれる」という意味がすでに組み込まれています。

 

 

 

 

これは単に、人間(あるいは、異なる遺伝子同士の複合により進化する生命体すべて)というものの説明のひとつであって、親子について誇張して語っているわけではない(誇張し、焦点化しているのが心理学ー正確には心理学の一部ーということになるのでしょう。)根源的にはそういうものだというだけです。

 

 

 

 

密着にもどりますと、それそのものは単なる関係性の説明であり、たまたま現在の状況にそれほど問題がない場合は、通常、ほほえましさや苦笑とともに、その関係性は語られます。

 

 

 

 

それが現在の状況が否定的な場合、その密着ぶりは否定的状況の原因として語られ始めます。「今」が否定的状況に陥ったとき、密着はほほえましさではなくダメなものとされ、密着を形成してきた「母」がその第一原因とされます。こうした「思考の癖」のようなものが現代社会にはあります。

 

 

 

 

「母=原因」という思考の癖が形成された社会的背景はいくつも考えられます。まずは、いわゆる「心理学化」された社会です。

 

 

 

 

心理学化とは文字通り、すべてを「こころ」の問題としてとらえるという意味です。社会が心理学化してしまうと、「今」の否定的状況の原因を、個人の内面や家族に向けるようになってしまいます。

 

 

 

 

また、社会学的な視点で考えると、高度経済成長以降に見られる専業主婦の誕生と家事の負担軽減によって、母の役割が限りなく縮小され、子育てが中心となってしまったこともあげられます。

 

 

 

 

核家族化と少子化がそこに重なり、家族において子の存在がどんどん大きくなっている点もあります。

 

 

 

 

現在、働く母は多いですが、家族という閉ざされたサークルのなかでは、母は相変わらず「子育てを担う」存在です。

 

 

 

 

しかし、ここにある種の不思議さを感じます。働くということは「社会」とつながるということです。けれども、いったん家に戻ると、その働いている人は、従来の規範的役割を与えられた「母」になってしまいます。

 

 

 

 

「母」に戻ることで、社会という外の風がなかなか入ってきません。社会人としてのその人と、「母」としてのその人の間に分断化が起きます。分断化のあと、問題の原因を「母」は担わされます。

 

 

 

 

さて、その「母=原因」の源流はどこにあるのでしょうか。それは、精神分析つまりフロイトの議論に行き着くのではないのでしょうか。

 

 

 

 

やや単純化して説明しますと、フロイトやフロイト主義者たちは、乳児の最初の対象を母親の乳房だとしました。

 

 

 

 

乳房は自分の身体を身体という全体性として捉えておらず、口や目や耳がそれぞれの機能を果たしています。

 

 

 

 

欲動(生命のエネルギーのようなもの)に突き動かされるまま、乳児は口を乳房に当てます。すると暖かいものが口を通過し、胃のなかに入ります。ここに快感が生じ、再び乳児は乳房を求めます。

 

 

 

 

やがて、そこに乳房がなくとも乳房をイメージするようになるといいます。このイメージ化をフロイトは人間の根源的「欲望(欲動とは違います)」の発生とし、その象徴的行為を「おしゃぶり」とします。

 

 

 

 

やがて年齢を重ね、乳児は幼児となり、そこに「父」が登場します。父に母を奪われないために幼児(ここでは男児を想定)は父に妥協し社会化していく、というのがいわゆるエディプス・コンプレックスです。

 

 

 

 

「母=原因」の源流には、このエディプス・コンプレックスが通俗的に解釈されて広がったことがあるだけでなく、乳児時の、最初の欲動の対象としての乳房=母という理解が大きな影響を及ぼしています。

 

 

 

 

母の乳房を乳児の口が吸うという行為そのものに原初的な生命力を見ること、またそこから生じる欲望の考察などから、人間の決定的原点にフロイトは「母」を置いています。

 

 

 

 

そして「母」は乳児にとって始めての対象、つまり他者なのです。フロイトはもう少し複雑な議論をしているものの、エディプス・コンプレックスと同様、最初の他者である母という概念が通俗的に広がり、それは、心理学化された社会でより強調されています。

 

 

 

 

原因を探すという行為は、心理学だけの営みではありません。科学全般に言えますし、通常のわたしたちの思考に深くしみこんでいます。

 

 

 

 

繰り返しになりますが、原因を見つけ、解決する方法を考えるという「癖」は、現代のわたしたちの習慣なのです。

 

 

 

 

ひきこもりの場合、この思考の癖・習慣に見事に「母」が当てはまりました。その癖は、母親自身も現代を生きる以上、当然内面化しています。

 

 

 

 

母=最初の他者=子どもに大きな影響を与える存在=子どもの問題の原因、という思考の癖をもとにする一連のイメージ連鎖は、社会に広がっているし、母親自身にも確実に内面化されています。

 

 

 

 

内面化されているということは、母親自身が、自分で自分を原因化しているということです。

 

 

 

 

加えて、ここに「愛情」の問題もかかわってきます。子どもがひきこもりになったのは、母親の愛情不足という、これまたきわめて心理学的で通俗的な議論なのですが、母親たちはこれに非常に弱いです。

 

 

 

 

「愛情不足によって子どもがひきこもりになった」と指摘されることは、母親たちを大きく傷つけます。

 

 

 

 

そしていつまでも後悔を持ち続けます。ですからよくあることなのですが、「ひきこもりについて原因をあれこれ考えても仕方がない」と支援者からアドバイスを受けても、母親の多くは言葉にしないものの、自分に原因があると思い続けます。

 

 

 

 

最初の他者である自分が子どもに上手に愛情を注ぐことができなかったという後悔や自責感は、なかなか薄らぐことはありません。

 

 

 

 

一方で密着と言われ、一方では愛情不足と言われます。母親という存在に対して、社会は本当に難しいあり方を求めています。

 

 

 

 

親対象のセミナーでもわたしたちは、「ひきこもりの原因は家族関係を含めてたくさんありますが、原因探しそのものは、ひきこもり支援にとって優先順位で言えば下のほうになります。ですから、原因探しはもう少し楽になったあとにしましょう」とたびたび訴えてきました。

 

 

 

 

しかし、いつものことですが、セミナーの最後のほうになって母親から、「やはりわたしの愛情不足が」とか「「わたしの育て方が」という意見が出ます。

 

 

 

 

それは、腹の底から搾り出したような、なんとも言えない苦渋の声としてわたしたちに響きます。

 

 

 

 

どう理屈づけられても残ってしまう、母親たちの本音なのです。こうした本音に対して、さらなる理屈の提出も可能です。

 

 

 

 

たとえば、「所有」の概念を持ち出し、母の愛情の裏返しとして「子どもを自分だけが所有している」という考え方をどこかでいだいていて、それを客観化しない限り親子の距離はとりづらいだろうという指摘です。ELL63_cherryseiji500_TP_V1

 

 

 

 

たとえば、内面化された母イメージを抱き続けることで母は自分自身のアイデンティティを維持し続けていて、そのアイデンティティそのものが現在の親子関係を延長しているというような指摘です。

 

 

 

 

このように、自分で自分を責める母親に対して、別の見方もあると提示することもできます。けれども、それもいたちごっこに終わるのではないでしょうか。母親たちはたぶん、どんな理屈を持ってこられても、原因探しをやめないでしょう。

 

 

 

 

でも、それを責めることはできません。なぜならその原因探しを続けることそのものが、母親たちのまさに「倫理」だからです。言い換えますと、他者への責任の取り方だからです。

 

 

 

 

でも現実には、原因探しはひきこもりの支援にはあまり訳に立ちません。母親たちの本音を尊重しつつ、「サポートのスモールステップのなかの一ツール」というような表現で家族を位置づけ、「動くこと」を奨励していきます。

 

 

 



メニュー

過去の記事

団体概要
団体名
関東自立就労支援センター
理事長:
大橋秀太
理事:
大畑健太
理事:
杉下真理
住所
東京都東久留米市浅間町1-12-9
TEL
042-439-4355
メール
ki6jt7@bma.biglobe.ne.jp
活動内容
・若年者の就労支援、
 学習 支援、生活訓練
・共同生活寮の運営
・教育相談の実施
・各種資格取得支援