生への実感が乏しい社会
ホーム > 生への実感が乏しい社会

生への実感が乏しい社会

2018年10月04日(木)11:29 AM

忙しそうに見える子どもたちですが、生活のあらゆる面が合理化され、実は時間は余っています。

 

 

 

 

 

暖房一つとっても、今はエアコンやガスストーブのスイッチさえ押せば温風が出てきますが、少し前までは石油ストーブが主流でした。

 

 

 

 

 

石油が切れると、こぼさないように気をつけながらタンクから石油を入れ、まわりを拭き、ポンプをきちんとしまい、といろいろな手順が必要でした。

 

 

 

 

 

タンクの石油がなくなれば、燃料店に電話もしなければなりません。もう少し上の世代では、石炭に苦労して火をつけた経験もあります。

 

 

 

 

 

こうした省力化は料理、洗濯、お風呂の湯張り、湯沸かしなど家事のすべての面に及んでいます。

 

 

 

 

 

家事は雑用ともいえますが、実は「食べる」、「体を暖める」、「身につけるものを清潔に保つ」というように、生きていくために必要な生活の基礎そのものでもあります。

 

 

 

 

 

家事の簡略化に伴い子どもたちは手伝いから解放されましたが、同時に生きるための基本からも遠ざかったのです。

 

 

 

 

 

余った時間をどうするか。「子どもにとって意味がある」と「大人が認めたこと」で、埋めるように求められます。

 

 

 

 

 

勉強ができるようになるとか、スポーツがうまくなるとか、英語が話せるようになるとか、何か成果が上がるものが大人が考える「意味ある時間」です。

 

 

 

 

 

では、生活を成り立たせるために必要な時間の使い方と「意味ある」時間の使い方、どちらが子どもにとって自然に納得できるでしょうか。

 

 

 

 

 

例えばコンビニがない時代、「お母さん仕事で遅くなるから、何か作って食べておいてね」と親から言われます。

 

 

 

 

 

コンビニがある今は、「何か買って食べて、勉強しておきなさいね」と言われます。どちらがすんなり受け入れられるでしょうか。

 

 

 

 

 

人は食べなくては生きていけないから、簡単なものでも作らざるを得ない、しかし、勉強はしなくても叱られるだけで、特に今現在生きるのに困るわけではありません。

 

 

 

 

 

体で納得できないことを「しなくてはいけない」からやっても、時間の意味が空虚になります。

 

 

 

 

 

大人の考える「意味ある時間」は、子どもには体で納得できる「意味」にはならないのです。

 

 

 

 

 

子どもの時間は「生きる」ことから離れていきます。

 

 

 

 

 

そしてまた、ご飯を作る、掃除する、洗濯するという生活を支える家事にしても、食物獲得の基本の基である農作物にしても、体の動きを伴います。

 

 

 

 

 

それが日常の中から失われ、勉強やデスクワークへと振り替えられます。体を動かす場所も時間もありません。

 

 

 

 

 

子どもは部活以外の時間は脳を動かすこと、つまり頭の中で言葉を連ねることが奨励されます。

 

 

 

 

 

「勉強」にこだわり、体を動かすのが難しい社会には、「ひきこもり圧力」が内在しているようにさえ思えます。

 

 

 

 

 

逆に「思いっきり飛ばしているときだけ『生きている!』って感じる」という暴走族の少年たち、腕にカッターナイフを当て肌を伝わる血の暖かさに「生きていること」を実感する少女たち。

 

 

 

 

 

大人が「問題」とする子どもたちの行動のひずみの中に、大人が作ってきた社会の空虚さが見えてきます。

 

 

 

 

 

「生きている」感から遠ざかるよう、遠ざかるよう、社会全体が動いているように感じられます。

 

 



メニュー

過去の記事

団体概要
団体名
関東自立就労支援センター
理事長:
大橋秀太
理事:
大畑健太
理事:
杉下真理
住所
東京都東久留米市浅間町1-12-9
TEL
042-424-7855
メール
ki6jt7@bma.biglobe.ne.jp
活動内容
・若年者の就労支援、
 学習 支援、生活訓練
・共同生活寮の運営
・教育相談の実施
・各種資格取得支援