不登校状態はなぜ発現するのか~学校教育制度との関係~
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不登校状態はなぜ発現するのか~学校教育制度との関係~

2018年05月09日(水)10:15 AM

文部科学省の学校基本調査によると、長期欠席児童・生徒の中で、「学校嫌い」を理由とするものは、多少の消長は見られるものの、増加傾向をたどっています。

 

 

 

 

 

とはいえ、不登校状態を呈する子供は依然少数派でしかなく、学校を絶対視して、「子供は学校に行くのが当たり前」としか考えられないような大人の多い社会の中では特別視・異常視され、わがまま、こらえ性がないなど、その子供自身の気質や性格、その他の面での資質が問題とされたり、育児環境のゆがみなどとみられ、不登校状態発現の要因は、ほとんどが子供自身がその両親に求められるのが常です。

 

 

 

 

 

ところで、国立精神・神経センター精神保健研究所児童精神保健部で首都圏の中学生約 8000人を対象として行なった精神衛生調査によると、「あなたは不登校したいと思いますか」という質問に対する回答が、3年生では、「時々したい」も含めると男43 %、女50%が「したい」という高い率に達しています。

 

 

 

 

 

このことは、不登校という状態に、現象化していないという点で相違はあっても、一般の多くの子供たちの学校に対する態度を示すものであり、不登校の逐年的増加に意味を与える一つの事実ではあるといえるでしょう。

 

 

 

 

 

そして、不登校に際してその中心的状態といえる不登校発現の要因を、多くの人たちが機械的と言えるほどに子供自身とその養育環境においてきたことは、あまりにも単純で偏った見方をしてきたものだと思います。

 

 

 

 

 

このことは、明治以来、日本に学校教育が施行される中で、容易には批判することはできないくらいに学校を聖域視し、絶対化するという観念が一般に植えつけられてきたためでもあるでしょう。

 

 

 

 

 

そこで、不登校発現に最も関係が深いはずであった学校教育の状況を見直し、不登校が発現する可能性のある場合をあげてみます。

 

 

 

 

 

ストレスとしての学校教育

 

 

 

 

 

学校教育の状況が子供を中心に十分配慮され、たとえ子供の生活の、学びの場として極めて理想的な内容を持ち、理想的に運営されたとしても全国に一千万人以上いるといわれる義務教育年齢の子供のすべてが十分満足し、喜んで意欲的にその学校教育に参加できることは本来ありえません。

 

 

 

 

 

人は一人ひとり異なっており、多様です。それは、子供といえども同様です。

 

 

 

 

 

多様・多彩な子供がいる限り、学校教育に全員が意欲的に参加することはあり得ません。

 

 

 

 

 

したがって、いつでもどのような状況でも、必ず不登校状態になる子供は出てくるものであり、その子供が特別な存在、異常な子供ということではないのです。

 

 

 

 

 

今、学校に籍を置き学校教育に参加させられている子供で、毎日通学することに努力を払っていない子供は、極めて少ないと考えてよいのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

前に述べた国立精神・神経センターの中学生精神衛生調査の結果、不登校願望が高率であったことがそれを物語っています。

 

 

 

 

 

それにもかかわらず、中学生の欠席日数は僅少にとどまっていることも事実です。

 

 

 

 

 

 

同じセンターが首都圏の中学生約六千人を対象に行った別の調査によると、三分の一が一年を通じて無欠席であり、およそ二分の一は一~四日しか欠席していなかったようです。

 

 

 

 

 

これは、多くの子供たちがかなり強く自己規制し、努力し、我慢しつつ登校していることを示すものだといえます。

 

 

 

 

 

私の経験からすると、例えば不登校に陥っている子供のほとんどが自分の現状に否定的であり、一度は「死にたい」と思った人は半数以上にのぼります。

 

 

 

 

 

それほど学校に在籍している子供の欠席することへの罪悪感は強いのです。

 

 

 

 

 

学校教育制度の本質として

 

 

 

 

 

日本では、現在のような公教育が制度化されて百年そこそこです。

 

 

 

 

 

この制度化は、時の政府が、日本より進んでいる西欧文明諸国の学校教育制度を取り入れることで、諸外国からの遅れを取り戻し、富国強兵政策を推進するために文盲率を減らし、国民の知識向上に役立てようとするものでした。

 

 

 

 

 

日本に限らず制度としての学校教育は、産業革命によって生産過程に大変革が生じ、これに多数の産業労働者を必要としたために制度化されたものです。

 

 

 

 

 

したがって本来、学校教育は、教育を受ける個人のためのものではなく、それを行う国家・社会側の利益のためのもの、つまり、その国の国家体制の維持、経済政策推進など国益を目的として行われているものです。

 

 

 

 

 

それゆえこのような教育は、教育を行う側の意思が優先し、強制することになるので教育を受ける側にとっては個としての存在が規制され、ストレスとなるわけです。

 

 

 

 

 

そうした点から、制度化された学校教育は、本来それ自体が子供にはストレスとして働くと考えなくてはなりません。

 

 

 

 

 

一九六〇年、国は「国民所得倍増計画」のための高度経済政策を推し進めることにしました。

 

 

 

 

 

そして何よりもまず経済、産業を優先させることを方針とし、学校教育にもまたその路線に沿うような「人づくり政策」が打ち出され、教育内容は知的能力を中心としたものに再編成され、複雑となり、高度なものとなりました。

 

 

 

 

 

その結果、このような主知主義的教育方針のもとで学校教育は流動性を失って、多様な子供に対応することができず、それについて行ける子とついていけない子が生じ、能力や適性を理由にして子供を選別教育するということにもなりました。

 

 

 

 

 

そして、ついてけ行ける子は企業に採用され、生活が保障されることから高学歴志向が高まり、受験競争を激化させることになり、主知主義教育は一層拍車がかけられて行きました。

 

 

 

 

 

このようにして極度に知育に傾いた学校教育は、子供のもつ幅広い能力を伸ばすことはできず、とりわけ感性・情緒面といった、人を人たらしめる側面はむしろ切り捨てるという状態になってしまったのです。

 

 

 

 

 

したがって、このような学校教育に参加させられる子供たちは、それぞれの持つ多様な個性も人としての主体性も押しつぶされ、ややもすると他律に依存し、自主を失ってしまう危機に常に直面させられるところとなっているのです。

 

 

 

 

 

学校教育の歪み

 

 

 

 

 

こうした政策による学校教育の歪みは、教師をも「人の教師」であることから「政策に忠実な教師」へと歪め、子供を知らない教師を多数輩出させていきました。

 

 

 

 

 

やや古い資料ですが、N市教育センターが2000年に中学生四十九名を対象に行った教師のイメージについての調査によると、各学年を通じ担任支持率は二〇~二五%にすぎず、M市教育研究所が中学生を対象として行った調査でも、信頼している先生が「いる」と答えたのは三〇%だったといいます。

 

 

 

 

 

また、東京都の資料(2009年)によると、小学生では「先生は自分のことをわかってくれている」が五六、四%ですが、中学生では「教師は自分を理解してくれていない」が五六%となっています。

 

 

 

 

 

これらの調査結果を統合してみると、中学生の六~七割は、教師の生徒理解に対して不信感を向けていることがうかがえます。

 

 

 

 

 

一方、これまでもしばしば問題にされながら、体罰と称する教師の暴力は一向に止む様子はなく、現在でもしばしば体罰を行って処罰される教師が存在しています。

 

 

 

 

 

これらの状況は、教師が子供たちを十分掌握しきれないためであり、指導力の乏しさのゆえでもあります。

 

 

 

 

 

それは、教師の採用や養成課程、特に現場研修のあり方などから、子供を理解できない教師が多数送り出されていることにもよりますが、それにもましてクラス定員の問題や教師の日常業務の増加、多用とともに、国の方針として打ち出された「人づくり政策」とそれに向けた教師への管理体制によって教師自身がゆとりを失っているためでもあります。

 

 

 

 

 

そして教師は、一人ひとりの子供を一個の人として遇することよりも、主として知識に重点を置いた学習を中心に、工業製品のようにすべてを一定レベルに能率よく均質化することを「教育」と信じて、子供に対応するところとなったのです。

 

 

 

 

 

これでは、教師と子供との間に人間同士としての心の通い合いは生じようもなく、子供にとってはそのような教師の授業に参加することがストレスとなっても不思議ではありません。

 

 

 

 

 

学校は、歴史的にみると、本来子供の側で機能するものではないとはいえ、かつては西欧諸国に大幅な遅れをとっていた日本においては、西欧の文明や知識を一般に伝え、その文物に触れる機会を与えうる唯一の場であって、地域の文化センターとしての役割を果たしていた時代もありました。

 

 

 

 

 

しかし現在では、周囲の地域社会より備品にしろ情報にしろ遅れをとっています。

 

 

 

 

 

そして、旧態依然とした権威権力による師弟関係のなかで形式主義にこだわった授業形態を続ける限り、日進月歩する社会の文化的変化に流動的に対応することはできません。

 

 

 

 

 

 

不登校が求めるもの

 

 

 

 

 

このように、学校ないし学校教育を見直してみると、主体性が脅かされ、かけがえのない個性が押しつぶされるような状況であれば、特別な資質の子供や特異な家庭環境にある子供に限らなくても、成長にともなって自我に目覚め、改めて学校の状況を認識し直したとき、子供はたとえ登校の意思はあっても登校できなくなるかもしれません。

 

 

 

 

 

不登校は、知らずに腐ったものを食べたときに生じてくる嘔吐や下痢のようなものです。

 

 

 

 

 

毒物が体内に入ったときに生じる嘔吐や下痢は、個体の生命や存在を脅かす危機的対象を回避しようとする、生き物が本来持っている本能的な防衛反応であって、病的なものでも異常な反応でもありません。

 

 

 

 

 

むしろ、自己を保存するという点では人間の健全な反応だといえます。

 

 

 

 

 

それと同時に、子供は社会人である以前に生き物であるからには、いくら社会の要請だとはいえ、生き物としての限界を超えた規制や枠づけを押しつけられれば危機感を持つので、個体差による多少の違いはあっても、それに対して自己保存のための防衛反応が当然生じてきます。

 

 

 

 

 

理性では登校を意図しても無意識のうちに感性がブレーキをかけ、防衛的回避反応としての不登校状態に陥るのです。

 

 

 

 

 

それにもかかわらず、今なお大人社会は、不登校に対して子供の資質や両親の育児が問題だと信じて強い偏見を持っています。

 

 

 

 

 

それが不登校状態となった子供とその両親への心理的圧力となり、両親はいっそう子供に再登校を願い、子供はさらに引け目や負い目を強く持たされることにもなるのです。

 

 

 

 

 

不登校状態にある子供は、必ずしも人嫌いでひきこもりがちな子供でもありません。

 

 

 

 

 

偏見の眼差しを向ける社会と、その圧力によって学校教育にこだわり、「学校に行っていないと、世間体が悪い」「学歴がないと、将来生きていけない」などと言って不登校を受け入れることができない家族との間では、子供はどこにも居場所がなく、まさに格子なき牢獄につながれたも同然となり、ときにはそれが死を求める動機にもなるのです。

 

 

 

 

 

そこで、不登校への対応は、単純に子供を息詰まる学校に再び戻すことでも、社会の都合に合わせた建前や通念にこだわり、それらによって子供を束縛することでもなく、まず、社会の不登校への偏見をあらためることと同時に、個々の子供の主体性が尊重されて、それぞれの資質に従い本質的な自己を自由に表現することが許され、それによってのびやかな成長・発達が保障されるような子供の居場所を大人側が真剣に考えることだと思います。

 

 

 



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