過保護と過干渉
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過保護と過干渉

2017年12月22日(金)6:41 PM

「過保護な親」ということが時々問題になります。でも私はあえて言いますが、「過保護はかまわない」と思います。

 

 

 

 

 

ただし、「過干渉はよくない」と付け加えます。保護とは、文字通り守ることです。どんなことがあっても親は子供を守る、そのことを知っているからこそ、子供は安心して成長できるのです。

 

 

 

 

 

それは「安心できる家」があるということです。子供がつらく、悲しい気持ちを抱いている時、親が「安心して懐に飛び込んできていいんだよ」と言えなくて、どうして親になったのでしょうか。

 

 

 

 

 

だから私は、「過保護はかまわない」と思うのです。でも、「過干渉」は過保護とは違います。

 

 

 

 

 

親が子供を見守るよりも先に、親の不安を解消したいがために本来子供が悩んで苦しんで得る貴重な体験を、親が奪ってしまうのが、「過干渉」だと思います。出過ぎ、なのです。

 

 

 

 

 

親であれば、わが子が苦しむ姿はなるべく見たくはありません。できればそれは避けて通りたいのです。

 

 

 

 

 

でも人間関係においては、トラブルはつきものです。子供たちは、そうした人間関係のドロドロした世界に足を少しずつ踏み込みながら、人間関係の難しさやダイナミックさを会得し、人間関係の免疫をつけていくのだと思います。

 

 

 

 

 

でも、そうした貴重な機会を摘み取ってしまうのが「過干渉」なのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

不安な時、人はだれでも保護を求めます。癒し(共感・一体感)を求めます。語りかけながら体にそっと触れ合う関係は、家族以外にはできません。

 

 

 

 

 

まさに「抱く子は育ち、癒しあう家族は絆を生む」と私には思えるのです。

 

 

 

 

 

子供を「孤供」にしない

 

 

 

 

 

「自分(僕・私)らしく」「わが家らしく」といった言葉がもてはやされた時期がありました。

 

 

 

 

 

いかにも自由で、個性的で、民主主義的な言葉です。ほとんどの人は、この「らしく」というセリフを否定はしないと思います。

 

 

 

 

 

自分らしく生きることは、至極当然のことです。ところが、この「らしさ」が拡大し肥大化していくとどうなるでしょうか。

 

 

 

 

 

自分だけが「自分らしく」生きているわけではありません。人間関係は必ず相手がいます。相手もまた自分同様に「自分らしく」生きていると当然どこかでぶつかり、どちらかが「自分らしくない」自分でいないと丸く収まらない事態が生じます。

 

 

 

 

 

つまり、相手に合わせるということです。もっと今日的言葉を使うと、「相手の価値観に合わせる」ということです。

 

 

 

 

 

でもそれは、とてもわずらわしく、面倒で、自我を曲げるようでちょっと窮屈です。

 

 

 

 

 

それよりは、そういった相手に合わせて「自分らしさ」を失うよりは、人間関係を絶ったほうがより「自分らしい」と考えてしまうこともあります。

 

 

 

 

 

そういう生き方も「自分らしい」というわけです。でもその結果はどうなるのでしょうか。

 

 

 

 

 

極端に言えば、孤立してしまいます。そして、対人関係に不安が生じます。集団生活や社会生活がほとんどできないというか、無視してしまうことにつながります。

 

 

 

 

 

そして深刻になると、二人称(あなたと私)の会話すらわからないという世界に入ってしまいます。

 

 

 

 

 

ですから、私は現在のパソコン世代を心配しています。ちょっと昔は、インターホンと留守番電話世代でした。つまり、「自分に都合が悪いと一方的に関係を断ち切ることができることに慣れ親しんだ世代」ということです。

 

 

 

 

 

スイッチ一つで関係を断つことができる、これは機械を介しているから可能であって、生身の人間同士ではこうはいきません。

 

 

 

 

 

古い人間だと言われそうですが、心の通い合う付き合いというのは最終的には切ろうとしても切ることのできない、生身の人間同士の関係の中で生まれるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

子供を「孤供」にしないためにも、生身の人間同士の付き合い、切ることのできない関係、相手の「らしさ」を認めるちょっと窮屈な人づきあい・・・・・・・を、繰り返していく必要があるような気がします。

 

 

 

 

 

うっとうしいセレモニーも絆づくりに一役

 

 

 

 

 

家族、あるいは身内だけのセレモニーも大切だと思います。家族みんなが忙しくても、その日のために予定を空けておくということです。

 

 

 

 

 

何よりも、そのセレモニーを優先させるということで、共通の認識が生まれます。

 

 

 

 

 

「俺は、仕事でそれどころじゃない」とか断る理由はいろいろあるでしょうが、それでも「しょうがないなあ」と言いながら付き合ってくれる父親の姿に、家族は「お父さんも家族の一員なんだ」と共感するものです。

 

 

 

 

 

母親がその日のために、料理を朝から作る、妹は部活をちょっと早めに切り上げて帰ってくる、そして自分もその日は自分の部屋から出てみんなで食卓を囲む・・・・・・・。

 

 

 

 

 

みんなが「しょうがないなあ」と思いながら、それでもこうして共通のセレモニーをいの一番に優先する、これが絆だと思うのです。

 

 

 

 

 

日時、場所を決めることで、家族がまとまるのです。そして家族の絆を意識させるのです。文章でいうと句読点、つまり日常生活の「心の句読点」と解釈できるでしょうか。

 

 

 

 

 

セレモニーとしては、年中行事のような「元旦」「命日」「誕生日」「母の日」「クリスマス」など何でもいいのです。

 

 

 

 

 

もちろん「退院祝い」「出産祝い」「入学祝い」といった”わが家のセレモニー”も必要です。

 

 



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