「なぜ、俺を産んだ」
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「なぜ、俺を産んだ」

2017年12月18日(月)1:04 PM

不登校状態の子供の中には、「なぜ俺を産んだ!」という人をときどき見かけます。

 

 

 

 

 

特に家庭で暴力をふるったり強迫症状を示す子供にみられることが多いように思います。この言葉の裏には、「生まれてこなければよかった」という悔恨の気持ちが潜んでいるのがうかがわれ、その子供がその家の家族として存在すること、さらには、この世に存在することへの否定的感情をあらわすものと考えてよいでしょう。

 

 

 

 

 

それは、みんなが普通にしてることができない、義務を果たしていない、家族に迷惑をかけているなど、よくないこと、あるいはしてはならないことをしているというマイナスの評価を自分に与えているからにほかなりません。

 

 

 

 

 

「どうせ私なんか邪魔なんでしょ」「早く殺せ」などと家族に悪態をついたり、ささいなことで暴力的になるのも、自分で自分を否定的に見て自分が家族から疎まれたり邪魔者にされても仕方がないだめな人間なのだと思い込んでひがんだりやけになっているからです。

 

 

 

 

 

やたらに手を洗ったり周りの物を汚ながったり、また、何度も聞き返すとかやり直しをするのも、自分が不完全で周囲とは異質に見えて自分が汚れた人間に感じられるので自信が持てず、お清め的儀式をしたり、自分のすることや存在することを確認しようとするためだと考えられます。

 

 

 

 

 

たかだか学校に登校できないということくらいのことで、将来ある子供をこれほど思いつめさせてよいものだろうかと考えさせられてしまいます。

 

 

 

 

 

よく文部科学省の発表では、不登校の様態の中では無気力状態が一番多いとされていますが、子供が自分で自分の存在を否定的に考えてしまえば将来はもちろん、今現在に対しても生きがいを感じて生き生きとした生活などできず無気力になっても当然でしょう。

 

 

 

 

 

子供がこのように深刻に思い詰める背景には、そこまで追い込む大人社会があることは間違いのないことです。

 

 

 

 

 

大人は、子供にまかりまちがっても「生まれてこなければよかった」などと思わせるようなことをしてはならないと思うのです。

 

 

 

 

 

「共に生きる」ことの意味」

 

 

 

 

 

不登校状態となった場合、周りの人が登校に向けての様々な刺激を加えなければ、子供は一応落ち着きを取り戻し、家族からすれば「ただ学校に行っていないだけで、それ以外は全く以前と変わらない元の子供に戻りました」という状態になるものです。

 

 

 

 

 

しかし、時には暴力的となったり神経症的状態となって、その後あまり変化がなかったり、あるいはそれほどのことはなくても定時制高校や専門学校などに籍を置いたり、アルバイトなどを始めているのにどことなく世間を憚り、生活が消極的であったりすることがよくあります。

 

 

 

 

 

これは当面、まわりの人々によって追い詰められる状態からは脱しても、子供自身がまだ自分で自分を追いつめ、自責する気持ちが残っているためであることが少なくありません。

 

 

 

 

 

つまり、学校教育(普通とされるコース)をたどれなかったことに負い目を感じてそのような目で自分を見ているためであるといえるでしょう。

 

 

 

 

 

このような状態のままでも何とか社会生活を続けていけますが、当人としてはどことなく自信が持てないので不安で心細く、堂々と主体的でのびやかな人生を送るというようには行きません。

 

 

 

 

 

そこでそのようなときは、不登校という事態はもちろん、その状態となった自分自身やそれが問題にされる社会をも含め、今まで自分を追い詰めてきた見方からではない別の角度から今一度それらを見直してみることが必要です。

 

 

 

 

 

けれども子供は、それまでの学校体験などから方向づけられた学校を中心にした角度からだけで、それらのことを見たり考えたりするように仕向けられているので別の見方ができるようになるには、あらためてそのための新しい価値観を取り入れることが必要です。

 

 

 

 

 

それには、そうした価値観を持つ文化との接触がなくてはなりませんが、まず家族との接触でそれが果たせればよいと思うのです。

 

 

 

 

 

閉じこもりがちな生活、周囲から閉ざされがちな状況を考えると、やはり一番身近で接点の持てる人は家族だと考えられるからです。

 

 

 

 

 

家族、特に両親ですが、両親が変わると子供も変わるといわれますが、それほど両親の考え方や生き方は子供に大きな影響力を持っているのです。

 

 

 

 

 

したがって、子供の考え方、生き方、価値観を変えようと思うのなら、両親自身が社会通念や社会生活上の建前などといった観念的なことにとらわれず、社会の実態あるいは人間の本質に目を開き、耳を傾けることが大切です。

 

 

 

 

 

もし子育てや教育を、学校教育にこだわってそれを中心にした価値観だけで考えているのであれば、両親はそのことから自らを開放することが必要でしょう。

 

 

 

 

 

とはいえ、これまでの間に様々な理由で両親と子供との間に距離ができていたりゆがみが生じていたのでは、せっかく両親が子供にとって有用な価値観を持っていても、それは伝わりようもありません。

 

 

 

 

 

両親のもつ価値観なり文化なりが子供に浸透し、伝えられるには互いに信頼や愛情による心のパイプがつながっていることが前提となります。

 

 

 

 

 

心のパイプがつながっていないのに、ただ口先だけで理屈を言ってもそれは子供の反発を招くだけです。

 

 

 

 

 

漬物は漬け床のもつ味が漬けられた野菜に浸透することでできあがるのですが、子育てはそれと似ています。

 

 

 

 

 

両親のもつ価値観や文化を子供に伝えようと思うのなら、子供が両親の生活のなかに漬け込まれるように包みこまれている生活が持てなくてはならないでしょう。

 

 

 

 

 

両親の生活に包みこまれるということは、生活を共にする関係がつくられるということになると思います。生活体験や生活感情をともにすること、そして「共に生きる」ことだともいえるでしょう。

 

 

 

 

 

しかし、残念ながら生活が近代化され合理化される中で、家庭の中でも家族が生活を共にすることが難しくなっているようです。

 

 

 

 

 

小学校時代から不登校状態となった中学一年生のA子さんは、今、カメラで空を撮影することに興味を持っています。「不登校にならなかったら、こんなにきれいな空、見られなかった」と言います。

 

 

 

 

 

確かに、毎日学校に通っていると勉強や部活、塾などに追われて日ごろ見慣れている空に目を向け感動する心のゆとりなどないにちがいありません。

 

 

 

 

 

A子さんは、不登校状態になったおかげで学校教育という味付けがされなくなったからこそ、身近な自然の味に感動できる感性がよみがえったのでしょう。

 

 

 

 

 

大人たちは、子供は学校という名の調味料で濃く味付けしなければ、社会人として煮ても焼いても食べられるものではないと思いこまされてるようです。

 

 

 

 

 

食物を調理するとき、味付けが全く不要とは思いませんが、素材本来の持ち味を殺してしまうような味付けをしてはならないと思います。

 

 

 

 

 

子供にとっての教育も同じことなのではないでしょうか。

 

 



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