ひきこもっている間に育まれるものはあるのか?
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ひきこもっている間に育まれるものはあるのか?

2017年12月17日(日)10:29 AM

私はあると考えています。人生の中で起こる出来事のうち、無意味なものは何一つありません。そこにどうしてもしなければならない課題があるから、人はひきこもるのです。

 

 

 

 

 

ただ、外目に見える「ひきこもる」行為をすることなく、思春期を通り過ぎる子供たちも大勢いるでしょう。その場合には、外とのつながりを断たない形で、内的な作業として静かにその課題が行われているのではないかと私は考えています。

 

 

 

 

 

「閉じこもり」から「ひきこもり」へ

 

 

 

 

 

現在「ひきこもり」という言葉であらわされている状態は、以前には「閉じこもり」という言葉で多く語られていました。

 

 

 

 

 

「閉じこもり」という言葉からは、子供自身が心を閉ざし、こもっているという閉塞的なニュアンスが漂ってきます。

 

 

 

 

 

あまり歓迎されていない事態であるという否定的なものがそこに感じられます。

 

 

 

 

 

それに比べると「ひきこもり」という言葉はより中立的です。この違いは、その言葉が意味する事態に対する社会全体の認識が変わってきたことを反映しているように感じます。

 

 

 

 

 

つまり「良くない状態である」というとらえ方から、「良いとはいえないけれども、さりとて悪い状態とも言いがたい」というあいまいなとらえ方になったといってよいのではないかと思います。

 

 

 

 

 

それはまた、子供の成長過程における過渡期として、「ひきこもり」という時期が、ことさらに特別でも異常なことでもなく、どの家庭にでも「普通に」起こり得るものになってきたことを表しているようにも考えられます。

 

 

 

 

 

自分が置かれている社会的立場から、たとえ一時的にであれ「ひきこもる」ということは、間違いなく前進ではなく撤退であり、本人にとって中立的な色合いのものであるはずはありません。

 

 

 

 

 

親御さんにとっても、担任の先生にとっても、その子供を大切に思う大人ほどそれを肯定的に、穏やかな気持ちで受けとめることなどできるものではないでしょう。

 

 

 

 

 

しかし、通常の見方から焦点をはずして別の角度から見ると、そこには肯定的な側面もあることがわかってきます。そのことをお話しすることにしましょう。

 

 

 

 

 

グリムの「いばら姫」

 

 

 

 

 

思春期のひきこもるに入っている子供たちのことを考えるとき、私はしばしばグリム童話にある「いばら姫」の物語を思い出します。

 

 

 

 

 

そこで、この物語の骨子を「グリムのメルヒェン」(野口芳子著・勁草書房)から引用しましょう。

 

 

 

 

 

子供がなかなか授からなかった王と王妃に、ようやく念願の女の子が授かり、二人は大喜びで盛大なパーティーを開催する。

 

 

 

 

 

そのパーティーには国中の巫女が招待されたが、十三人いた巫女のうち一人だけ招待されず、十二人しか呼ばれなかった。

 

 

 

 

 

巫女たちはお礼にそれぞれ一つずつ女の子に贈り物をする。一人目が徳を、二人目が美を、三人目が富をというように贈られていったが、十一人目が言い終った時、突然、招待されなかった十三人目が怒って現れ、「姫は十五歳の時、紡錘に刺されて死ぬことになる」と言い渡す。

 

 

 

 

 

まだ贈り物をしていなかった十二人目の巫女がこの呪いを弱める祈願をし、死を百年間の眠りに変えてくれる。

 

 

 

 

 

王は国中の紡錘をすべて残らず焼き払うよう命令する。

 

 

 

 

 

姫が十五歳になった日、王と王妃が留守で姫は一人で古い塔に登る。そこで生まれて初めて紡錘を見て、珍しさのあまりそれに触れ、刺されて百年の眠りに陥る。

 

 

 

 

 

すると城全体がその魔法の眠りに包まれ、ちょうど帰ってきた王と王妃、家来、馬、家畜とすべてのものが眠ってしまう。

 

 

 

 

 

城の周りにはいばらの垣が生い茂り、すっぽりと城を包み隠してしまう。何人かの王子が姫のうわさを聞いて潜りぬけようとしたが、皆いばらにひっかかって死んでしまう。

 

 

 

 

 

ちょうど百年経ったとき、一人の王子がやってくる。垣を潜りぬけようとすると、いばらがひとりでに開いて王子を通す。

 

 

 

 

 

王子は城の中に入り、塔の中で眠っている姫を見つけ、キスをする。その瞬間姫は目を覚まし、同時に城の中のあらゆるものが目を覚ます。

 

 

 

 

 

そこで姫と王子の結婚式が華やかに行われ、二人は幸せに暮らす。

 

 

 

 

 

このグリムのストーリーを以下に、私たちの現実の関係のなかに置き換えて考えてみることにしましょう。

 

 

 

 

 

親の夢育てと夢壊し

 

 

 

 

 

子供の誕生は多くの場合、親にとって喜びの体験です。親は一生懸命に子供を育てながら、子供に様々な夢を託します。子供は親にとって、自分の未来であり、希望の担い手です。

 

 

 

 

 

親御さんはできる限りその子の能力を引き出そうと、子供が幼いころから様々な工夫をします。

 

 

 

 

 

例えば男の子だったら野球やサッカーのチームに入れて身体を鍛えたり、また女の子の場合にはピアノやバレエを習わせるかもしれません。

 

 

 

 

 

また、将来困ることになりそうな芽を見つけたら、できる限りそれを直そうとします。

 

 

 

 

 

例えば、子供が内気で友達をつくることが難しそうだと感じると、早めに幼稚園に入れて集団適応の力を育てようとしたり、積極的に近所の子供たちと遊べる機会を多くつくるようにします。

 

 

 

 

 

そろばんや習字に通う子が多いのも、計算力を身につけたり、きれいな字が書けるように、そして友達ができるようにという親心からでしょう。

 

 

 

 

 

親御さんが教育に力を入れていれば、小さなころから勉強を重視した教育の方針が立てられるでしょう。

 

 

 

 

 

これらはすべて、子供に良かれと考え、「子供のため」に行われます。しかし同時にそれは、「こういう子に育ってほしい」という、親御さんの願いの表れでもあります。

 

 

 

 

 

特に子供からの拒否のメッセージがなければ、これ自体は別に問題ではありません。

 

 

 

 

 

しかし、「ひきこもり」が最も多く現れる思春期とは子供自身が自分の生きる方向性を見いだそうとする時期にあたります。

 

 

 

 

 

これまで受けた養育や教育を背景にして、自分がどのように生きていったらよいか、何をしたらよいかを真剣に考え模索する時期の始まりです。

 

 

 

 

 

この時、親御さんが意識的・無意識的に願った子供の生き方と、子供自身がそうしたいと思う方向性が一致していればよいのです。

 

 

 

 

 

ところが一致しない場合、あるいは一致しないかどうかはまだわからないけれども、どうも窮屈だとか、何か違うのではないかと迷いはじめると、人はそれまでと同じペースやリズムで生活できなくなります。動けなくなってしまうのです。

 

 

 

 

 

そして少しずつ自分で自分の生きる道を模索するようになっていくのですが、それはたいていの場合、親の夢を壊すことになります。

 

 

 

 

 

また、親の望む生き方を自分の生きる道とする場合でも、いったんは拒否する形で親の自分への希望をうち砕き、あらためて自分で選択するという形をとることも多いのです。

 

 

 

 

 

自分育てのために

 

 

 

 

 

これまで何度もお話してきたように、ひきこもりをしている子供は、ひきこもっている間、積極的に勉強したりアルバイトをしたりと何かに積極的に取り組むことはめったにありません。

 

 

 

 

 

居間にいても、1日中ぼーっとしていたりテレビばかり見ていたりと、外目には時間を無駄に、無為に過ごしているようにしか見えません。

 

 

 

 

 

しかし彼らは、外から見える仕事ではなく心の内側で自分づくり、あるいは自分自身の生き方の再検討・再吟味という仕事をしているのです。

 

 

 

 

 

多くの場合、対人関係につまずいてというようなことがひきこもりのきっかけになりますが、そのような外的な挫折をめぐる心理的立て直しにとどまらず、人との関係性の基盤であるところの親御さんとの関係にまで立ち戻らざるを得ないこともあると前にも書きました。

 

 

 

 

 

その場合には、親御さんと自分との関わりをあらためて考え、親の夢と自分の夢の重なりあいや食い違いに悩み、苦しみ、戸惑うということも起こります。

 

 

 

 

 

学校に行くとかスポーツをして、自分のエネルギーを使っているとその子供が何をしているかが自他ともに明らかです。しかし、内的な仕事の場合には、そこで何が起こっているのか外からはわかりません。

 

 

 

 

 

そして当人もまた、わからないのです。先のグリムのストーリーでは、王と王妃が必死でかわそうとしたのにもかかわらず、姫は紡錘を見つけ、あまりの珍しさに手を触れ、百年の眠りに入ってしまいます。

 

 

 

 

 

それは二人の娘のために、必死で防ごうと工夫した方向とは全く逆のことでした。そして百年の眠りののち、めでたくこの世によみがえるのですが、その時姫は立派に成熟した女性に変容しています。

 

 

 

 

 

それ以前は、完全な親の保護下に置かれていた彼女が、この事件を契機として親から独立した一人の女性に変わることができたのです。

 

 

 

 

 

つまり百年の眠りの間、彼女は「自分育て」をして、成熟への心理的・身体的な変容過程を歩んでいたといえるのです。

 

 

 

 

 

進展と退行

 

 

 

 

 

成長とは、ただ一直線に先に進む「進展」だけでなく、元に戻って(退行)基礎固めをし、また先に進んでは・・・・と、らせん状に動いてゆく円環的な過程です。

 

 

 

 

 

先に進むためにはエネルギーが必要です。そのエネルギーは、時に後戻りすることで得られます。つまり、後戻りの時期にエネルギーの消費をストップさせ、充電することによって私たちは再び前進できるのです。

 

 

 

 

 

通常私たちはあまり意識することなく、エネルギーの消費と補充を上手にやっています。あまりにエネルギーを使い過ぎると、充電が必要になります。

 

 

 

 

 

それは、一時的に消費をストップさせればよい程度のものから、根本的に充電しなければならないほどに深刻なものまで様々です。

 

 

 

 

 

自分づくりの基盤固めを再確認する思春期には、この進展と退行が頻繁に繰り返されます。何とか現実の生活を送りながら内なる仕事をすることができると、人はひきこもらないですみます。

 

 

 

 

 

挫折をした時や根本的な充電が必要な時、人はひきこもらざるを得ないのかもしれません。その場合には、そうしなければ補充できないくらい大変な問題を抱えるといってもよいでしょう。

 

 

 

 

 

ひきこもっている間というのは、毛虫がさなぎを経て、ちょうちょに変容していく、ちょうど「さなぎ」の時代だともいえるでしょう。

 

 

 

 

 

だとするならば、ひきこもっている間を意味のないものとして片づけてしまうのではなく、自分育てのための充電期間として有意義につかいたいものです。

 

 

 

 

 

遠回りの間に味わったり体験する雑多な経験が、人を育てるのだと私は学びました。

 

 

 

 

 

ただだからといってその間、何もしないで待てばよいとは私は考えていません。機が熟する時というのは確かにあります。

 

 

 

 

 

「いばら姫」でもそうだったように、「時」というのは必ずきます。

 

 

 

 

 

ですので、「その時」が来たときにつかえるようにそれまでの「さなぎ」の間を意味あるものにしたいものです。

 



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