親の命令や禁止が子どもを縛る
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親の命令や禁止が子どもを縛る

親の期待の押しつけが、どのように子どもをしばるものとなるのか、ここで「自我意識」との関係から見てみましょう。

 

 

 

 

わたしは、思春期にほぼできあがる自我意識は、「現実我」と「理想我」に分かれていると考えています。

 

 

 

 

現実我は、現実の自分の欲求、感情、思考などです。自分の欲求のまま、感情のまま、あるいは自己中心的な思考のままに行動すると、人間関係のルールは破られ、関係は混乱し、成り立たなくなります。

 

 

 

 

そのために、現実我に介入するのが理想我です。理想我は、自分の理想像であり、期待像です。

 

 

 

 

現実我が「あるわたし」であるのに対して、理想我は「あるべきわたし」です。理想我は後天的につくられたものですが、心の司令塔のような役割をします。

 

 

 

 

理想我は現実我に対して、「~すべきである」「~してはならない」という命令や禁止の規則を加え、規範的な働きをします。

 

 

 

 

また、「人生にとって大事なこと」「良い、悪い」「正しい、正しくない」などの価値観も理想我は含んでいます。

 

 

 

 

「大事なこと」には、「人に認められること」「成功すること」などがあります。

 

 

 

 

理想我は、勝手な欲求を主張する現実我をコントロールする機能を持ちます。

 

 

 

 

子どもが成長する過程で出会う、親を含むさまざまな人たちとの人間関係に適応していくための自己制御システムですから、それ自体は必要なものです。

 

 

 

 

ちなみに「マインド・コントロール」は、組織にとって都合の良い価値観になるように理想我の価値観に働きかけることです。

 

 

 

 

たとえば、わたしはかつて天皇中心の国家イデオロギーを学校教育で教え込まれ、当時はそれを信じ込んでいました。

 

 

 

 

ほかに、カルト教団の狂信的な信者も、教祖によってマインド・コントロールされた人たちといえます。

 

 

 

 

子どもの理想我は、親の影響を大きく受けます。なぜなら、子どもの理想我の命令や禁止、価値観は、親の命令や禁止、価値観を取り入れて形成されるからです。

 

 

 

 

たとえば親が「こうするべきだ」ということを、子どもは内面化して理想我の命令とし、「こういうことをしてはいけない」と親が言えば、それを内面化して理想我の禁止事項とします。

 

 

 

 

したがって、もし親が子どもにたいして期待することを「こうするべきだ」というふうに押しつけたら、そのような親の期待も。子どもの理想我に取り込まれてしまいます。

 

 

 

 

このとき親の期待は、子ども自身の理想我として子どもをしばるものとなります。

 

 

 

 

このしばりは、親の期待が大きければ大きいほど、また期待の押しつけが強ければ強いほど、きついものになります。

 

 

 

 

このような理想我は子ども時代に作られるために未熟なものですが、その子どもの思考や行動の絶対的な枠組みとして潜在意識に条件づけられます。

 

 

 

 

そしてそれが習慣化して、成人以降も含めてずっと本人の生き方を強く規制します。

 

 

 

 

理想我にとりくんだ親の命令・禁止と価値観にしばられ続け、精神的に自立しにくくなるのです。

 

 

 

 

さらに多くの期待や高度な期待を押しつけられた場合、理想我の命令や禁止は過度になります。

 

 

 

 

理想我が現実我に命令や禁止を加えるとき、現実我の欲求や感情や思考は強く抑制されますから、命令や禁止が多いほど、抑圧された未発出のエネルギーが蓄積され、強いストレス状態になります。

 

 

 

 

また、理想我は自己期待像をもちますが、子どもは親のいうことを絶対化してとり、そのようにして親の期待を取り入れた自己期待像は、往々にして高度な期待像になりがちです。

 

 

 

 

自己期待像のレベルが高いほどプライドが高くなり、高いプライドを「本当の自分」のように思い込み、それを守ろうとしてプライドが傷つくことを恐れます。

 

 

 

 

プライドが傷つくことで自分の存在価値が傷つくように感じるのです。また、自己期待像が本来の自分とかけ離れていると、自意識はそこに到達できない自分をいつも否定し、自分をあるがままに受け入れることを妨害します。

 

 

 

 

たとえば、ひきこもりの人は「自分なんか大嫌い」ということが多いのです。親のハイレベルな期待が子どもに押しつけられるほど、問題が生じやすくなります。

 

 

 

 

親の命令や禁止、期待の押しつけがよくないとすると、親はいったい何を教えたらいいのでしょうか。

 

 

 

 

たとえば、ストーブの火や扇風機をさわる、窓から身を乗り出すといった明らかに危ない行動を、子どもの理解レベルに合わせて理由を説明し、危ないからしないように教えることは必要です。

 

 

 

 

それは、子どもの理想我に絶対的な規範ではなく、相対的な規範として取り入れられてしかるべきことでしょう。

 

 

 

 

しかし、対人関係や自分の行き方について、「してよいことか、してはいけないことか」の単純な二分法で正しく仕分けることなど、そもそもわたしたちにできるのでしょうか。

 

 

 

 

ものごとの良し悪しの基準は、そのときの条件や都合しだいで変わるものであり、また個人差もあります。

 

 

 

 

「理屈は抜きにして、良いか悪いかを幼いうちに徹底的に叩き込むのだ」という人もいますが、それは言ってみればマインド・コントロールそのものです。

 

 

 

 

大人の古い意識で子どもの進化した意識をしばることはとても危険なことです。もっと子どもが自分のなかに持つ可能性に目を向け、養い、育てることが必要です。

 

 

 

 

ところで、現実我が被害者意識を持ち、恐怖、怒り、憎しみなどの否定的感情を溜め、社会を敵視するようになると、理想我と現実我の制御関係が逆転して、理想我にある価値観が現実我の影響を受けることがあります。

 

 

 

 

このとき、理想我の価値観は、「自分を苦しめてきた親や社会に仕返しをすることはよいことだ」というような反社会的な価値観になります。

 

 

 

 

ひきこもりの人の否定的な感情が強まると、このような価値観の逆転が表れることがあります。

 

 

 

 

なお、否定的な感情が強まるケースとは別に、理想我が求める以上の成功を続けた場合も、現実我がうぬぼれて強大になり、エゴを強めやすくなります。

 

 

 

 

この場合も、現実我の欲望が理想我をコントロールして、現実我のエゴを満たす正当な理由づけに理想我が使われることがあります。

 

 

 

 

親が子どもに期待を押しつける危険や、子どもを力支配する危険が高まっている背景には、子どもたちの意識の変化も見逃せません。

 

 

 

 

子どもの意識に見られる変化は、大きくいって2点あるように感じています。ひとつは、感性が敏感で繊細になったということです。

 

 

 

 

世代が上になると、感性が鈍く頑丈な感じの人が増えるように思います。この人たちは、人間関係において、「愛が大事」などとは口に出しません。

 

 

 

 

信頼関係のない人間関係であってもそれなりに適応することができます。一方で、今の子どもはとても傷つきやすく、まるで壊れやすいガラス細工のようです。

 

 

 

 

親にとっては些細なマイナスの対応が、子どもの気持ちを大きく傷つけます。親の期待を敏感に感じ取って合わせようとしますし、叱責や体罰は本人の感性を深く傷つけます。

 

 

 

 

感性の発達は、愛によって促進されますので、傷ついて愛を実感できない子どもは、感性がひずみ、成長しにくくなります。

 

 

 

 

ひきこもりの人に感性の発達の遅れが感じられるのはそのためだと思います。一般にも感性が未熟な感じがする人が増えているように思うのは、親の愛を実感できない子どもが増えているからなのかもしれません。

 

 

 

 

もうひとつの子どもの意識の変化は、「自分は他人とは違うひとりの人間である」という意識が高まり、親や学校や社会からひとりの人間として扱われたいという意識が強くなっていることです。

 

 

 

 

思春期以降にこの意識が際立つ子どもが増えているようです。従来、日本人は集団主義が強いといわれており、かつてはこのような個の意識よりも、集団に属していたいという意識のほうが強かったように思います。

 

 

 

 

それが近年、個の意識のほうが強くなり、同時に自分で判断しようとする志向も強くなりました。

 

 

 

 

先に挙げましたが、企業の人材育成において人間尊重を前提としたコーチングが注目され成果を上げているのもこの表れでしょう。

 

 

 

 

このような子どもに対して、力支配の弊害はとても大きなものになっています。強制は子どもの感性を傷つけ、その成長をゆがめます。

 

 

 

 

極端な場合は子どもをつぶしてしまいかねません。変化の激しい時代には、敏感さや繊細さは有用な資質でもあるでしょう。

 

 

 

 

また、成熟した社会では、個性や独自性はむしろ求められる特性です。ですから単に、「軟弱な子どもが悪い」と繊細さと個の意識を責めるのではなく、そうした子どもにあった、新しい子育てをしていくことがとても必要なことです。

 

 

 

 

具体的には、繊細さに対しては気持ちを傷つけない配慮と、子どもが傷ついても立ち直れる抵抗力を身につけるようにする配慮が、個の意識に対しては子どもの人格を尊重する態度が必要だと思います。

 

 

 

 

結局、子育てにおいてもっとも大事なことは、子どもが「自分は親に無条件に愛されている」という実感をもてるかどうかです。

 

 

 

 

それによって、子どもの行き方が違ってくるほど、親子の信頼関係づくりがとても大事なのです。

 

 

 

 

親子に信頼関係があって、親が子どもの気持ちを尊重し、子どもの言うことに耳を傾けるなら、子どもはほかの人間関係も恐れずに入っていけるようになり、よい人間関係をつくりやすくなります。

 

 

 

 

親に対して自分を主張する体験を通して、他人に対しても必要なときは適切な態度で自己主張をすることができるようになり、人間関係でストレスを溜めることも少なくなるのです。

 

 

 

 

また、子どもは親に愛され、認められていると感じることで、自分を認めることができ、自己肯定感を持ちます。

 

 

 

 

自己肯定感に支えられると、「困難に出会っても、勇気を出してチャレンジしていこう」と、前向きに肯定的に生きることができます。

 

 

 

 

そのためには、子どもが親に甘えたいときに十分に甘えを受け入れることで、親の愛を実感させることが必要です。

 

 

 

 

甘えが受け入れられると、子どもは自立のための反抗もできるようになります。これも受け入れることが親の愛を伝えることになります。

 

 

 

 

「わがままにさせてはいけない」と抑え込むのではないのです。また、子どものマイナス面ばかり気にするのではなく、プラス面を積極的に認めることで、子どもの存在を肯定していることを伝えることも大切です。

 

 

 

 

子どもに期待を押し付けそうになる自分に気づくようになり、子どもをあるがままに受け入れることができれば、親は無条件の愛を子どもに注ぐことができます。

 

 

 

 

それは、親の人間としての成長にもつながることでしょう。家庭が子どもの存在をあるがままに無条件に受け入れられる場であれば、子どもはそこを自分の居場所と感じ、リラックスできます。

 

 

 

 

すべての家庭がそういう場であれば、不登校やひきこもりは激減するでしょう。それは学校でも同じかもしれません。

 

 

 

 

親の愛や先生の愛を実感している子どもで不登校になった子どもが、ひとりでもいるでしょうか。

 

 

 

 

ひきこもってしまった人も、「こんな自分でも無条件に受け入れてもらえる」という体験をもてれば、かたくなに閉ざした心がゆるみ、開かれていきます。

 

 

 

 

力での支配は、苦しみを強めるだけです。必要なのは「立ち上がれ!」とムチで打つことではなく、愛を伝えることなのです。

 

 

 

 

さて、ここまでひきこもりを生み出す要因として、親子関係の問題に焦点を当ててきました。

 

 

 

 

しかし実は、親のほうも好んでそのような親子関係を築いてきたわけではないのです。

 

 

 

 

なぜなら親が持つ価値観や行動は、その親の影響とともに社会の影響を大きく受けたものだからです。

 

 

 

 

個々の家族の問題解決のためには、親が変わり本人が変わっていくしかないのですが、社会のなかで多くのひきこもりの問題が発生している責任は社会にあり、個々の親に求めるべきではありません。

 

 

 

 

なぜなら、親が子どもに無責任の愛を抱けなかったり、子どもとの本当の信頼関係をつくろうとしなかったりするのは、社会の価値観や子育て観が、それらを軽視している面があるからです。

 

 

 

 

つまり、社会の価値観や子育て観が親の子育てを誤らせ、社会の価値観や子育て観が、ひきこもりの人に必要な親の協力を妨げているのです。

 

 

 

 

父親が特にそのような価値観や子育て観を強くもつのも、本人がそれらを生み出してきた社会(職場)に直接関わっているからです。

 

 

 

 

父親は、単純にその社会の価値観や子育て観を家庭に持ち込んでいるといえるでしょう。

 

 

 

 

ここで社会がどのように家族の信頼関係をそこなってきたか、順を追って振り返ってみましょう。

 

 

 

 

わたしが問題視している社会の価値観や子育て観が醸成されたのは、戦後のことだと思います。

 

 

 

 

太平洋戦争で日本は焦土となり、戦後、生き残った父親は家族を養うために必死に仕事をさがし、働きました。

 

 

 

 

そのような父親に子どもも含めて家族は感謝していました。当時も貧困などによる家族崩壊はあったものの、今の時代よりも家族間のつながりがもっと密接だったように思います。

 

 

 

 

「子どもが父親の背中を見て育った」のは、そのころのことです。当時の社会の緊急で最大のテーマは経済復興です。

 

 

 

 

やがて「もはや戦後ではない」といわれる復興を遂げ、さらに高度経済成長の時代を迎えました。

 

 

 

 

「企業戦士」として父親世代の活躍がもてはやされた頃です。毎朝早く出勤して、夜遅く帰宅し、子どもと顔を合わすことがほとんどない父親も多くなりました。

 

 

 

 

生活は完全に職場中心で、「会社人間」「仕事人間」がどんどん増えました。

 

 

 

 

時間的にも精神的にも家庭を顧みる余裕がなく、父親は、「子育て妻の役割だから、子育てのことは妻にまかせればよい」と思っていました。

 

 

 

 

一方で経済的には、職場中心の生活に適応することで昇給・昇進し収入が増え、「一億総中流時代」といわれるほど経済的に豊かな家庭が増えていきました。

 

 

 

 

この過程から生まれた問題は、3つあると考えます。ひとつは拝金主義的な価値観です。

 

 

 

 

戦後の窮乏時代の反動といえるかもしれませんが、食べるものもない時代からがんばって働けば贅沢な品も買える時代になり、「金さえあれば、すばらしい人生になる」という価値観が広がりました。

 

 

 

 

家族についても、「経済面さえちゃんと維持・向上すれば、幸せな家族になる」という考え方になったと思います。

 

 

 

 

がんばって働いて収入を得て、電化製品をはじめ車や庭付き一戸建てなどを買えるようになりさえすれば、家族は幸せになるという錯覚です。

 

 

 

 

もちろんこれは間違いです。今では多くの方がそのことに気づいているのではないでしょうか。

 

 

 

 

家族の経済面は、衣食住を満たして生きていくためには絶対に必要な条件ですが、何度も繰り返したとおり、家族が幸せであるためには、それとは別に家族の信頼関係づくりが必須なのです。

 

 

 

 

そう考えると、拝金主義が高まり始めた高度経済成長時代以後に、登校拒否などのひきこもりの子どもが増えてきたことは、うなずけることでしょう。

 

 

 

 

またこの過程のなかで、家族観だけでなく、社会全体の人間観においても、人の価値を資産や社会的地位、学歴などの外面で評価する指向が広がったと考えられます。

 

 

 

 

2つ目の問題は、社会全体が高度経済成長を支えるのに適した人間を求めたことです。

 

 

 

 

高度経済成長は、基本的には大量生産・大量消費社会に日本の産業が適応したことで成し遂げられました。

 

 

 

 

このような産業構造下では、上司の指示に従ってまじめに働く労働者が求められます。

 

 

 

 

指示・命令に従う、いわば「仕事ロボット」の労働者が、職場組織での期待像になります。

 

 

 

 

したがって、従順であることがりっぱな社会人であるという価値観が支配的になりました。

 

 

 

 

そのなかで父親は、家族の幸せのために稼ごうとして、積極的にロボット化します。

 

 

 

 

そのことに疑問を持つと職場で不適応になってしまうので、「人間としてどう生きるのか」といったややこしく、人間として根本的に大事な問題には無関心になります。

 

 

 

 

そして、ピラミッド型の組織の指示系統に組み込まれた、従順な仕事ロボットとして生きることを選んでしまうのです。

 

 

 

 

その代償として、終身雇用と年功序列による昇進・昇給を手に入れて、それ以外のことは家族のためにと思って我慢して生きてきたのではないでしょうか。

 

 

 

 

1960年代から1970年代のかけて起こった学生運動は、父親世代がつくったそのような社会への反抗、異議申し立てでもあったかもしれません。

 

 

 

 

しかし、やがて紛争はおさまり、社会は根本のところでは変わりませんでした。

 

 

 

 

大多数の学生は、挫折感を抱きながらその社会に適応し、やがて職場の支配的な価値観の担い手になっていったのです。

 

 

 

 

それが団塊の世代です。産業社会は、その価値観に合う人間になることを、将来の労働力としての子どもに期待します。

 

 

 

 

それは、端的に言えば仕事ロボットとして働ける大人になるということです。

 

 

 

 

ですから、社会の子育て観は、子どもの自由意志を尊重して育てるのではなく、「親の期待に従順に従うよい子に育てる」というものになります。

 

 

 

 

ここで言う「よい子」とは、親の期待を裏切らない、親に都合のよい、よい子ロボットのことです。

 

 

 

 

よい子ロボットにする方法として手っ取り早いのは、力支配です。脅して怖がらせるなり、体罰でおびえさせるなどして、いうことをきかせればよいのです。

 

 

 

 

それによって、「子どもを甘やかさず、厳しくして、親のいうことを聞く子どもに育てる」という子育て観が蔓延しました。

 

 

 

 

大量生産・大量消費の産業モデルは、とうに終焉しているといわれます。子どもや若者がすでに新しい時代に即した性質を身につけ始めているのは先述したとおりですが、子育て観だけは、わたしが30年前にひきこもり自立支援センターを始めた当時とほとんど変わらないまま続いてきたように思えます。

 

 

 

 

最後の3つ目は、「働いて家族を養うのが父親の役割、家事と子育ては母親の役割」という分業を是とする価値観の問題です。

 

 

 

 

このような二分法は、職場組織にとってとても都合のよい考え方でした。家事と子育てを母親が一手に引き受けることで、父親は家族のことを忘れて仕事に全力投球できるからです。

 

 

 

 

この価値観こそが、父親が会社人間、仕事人間になることを正当化する価値観なのです。

 

 

 

 

この二分法が父親と子どもの信頼関係ができるのを妨げていることは、いうまでもありません。

 

 

 

 

「子どもは父親の背中を見て育つ」といわれた復興の時代は過ぎ、経済的に豊かになるにつれて、子どもは「父親の接し方を見て育つ」ようになっていたからです。

 

 

 

 

共働きの家庭が増えましたが、この価値観はあまり変わっていません。たとえば、日本の共働き家庭での妻の家事・育児負担の割合は、先進諸国のなかでもかなり大きいと聞きます。

 

 

 

 

夫との恥・育児分担が進まず、相変わらず家事や育児が妻の負担になっているということです。

 

 

 

 

もっとも、日本では夫の長時間労働が著しいですから、夫は手伝いたくても手伝えないという事情もあります。

 

 

 

 

このように、ひきこもりの問題の背景に社会の価値観や子育て観があるとしても、社会の側に「変えていかなければならない」という姿勢はありません。

 

 

 

 

それどころか、「やるべきことをしないでひきこもっているのは、本人が怠け者だからだ」とか、「甘やかして育てた親がいけない」などと、ひきこもっている本人と親ばかり非難する声があります。

 

 

 

 

社会の何が問題で、社会をどう変えれば、そのような問題が発生しなくなるのか、わたしたちはもうそろそろ真剣にそのことを見直すべきなのです。

 

 

 

 

バブル経済崩壊後、銀行や大企業が倒産し、リストラによる大量解雇は日常茶飯事になりました。

 

 

 

 

2008年には、アメリカのサブプライムローン破綻をきっかけに急激に景気が悪化し、ご存知のとおり、派遣社員の契約打ち切りや雇い止めが大量に発生しています。

 

 

 

 

派遣社員などの非正規雇用の割合は急増し、一家の稼ぎ手がそうした不安定な立場で働いていることも普通に見られるようになりました。

 

 

 

 

非正規社員は、不況になると真っ先に遣い捨てられる調整弁であり、常に生活不安を余儀なくされます。

 

 

 

 

 

働き手も家族も、不安からストレスを強めますし、実際に使い捨てに遭うとたちまち貧困に陥ります。

 

 

 

 

一方、減少した正社員のほうも、いまや終身雇用と年功序列制度は崩れ、給与ダウンやボーナスゼロはもちろん、リストラや会社の倒産も、いつ自分の身に降りかかってくるのかわかりません。

 

 

 

 

業績は好調でも、会社は多くの場合、正社員を増やさず非正規社員で調整しようとしますから、少ない正社員は仕事量が増え、ストレスの多い生活を強いられます。

 

 

 

 

実際、わが国は先進国中でも有数の長期間労働国といわれます。長時間労働のもとでは、家族に関心を向け、信頼関係をつくろうとするゆとりはなくなり、仮面家族化が進みます。

 

 

 

 

ひどい場合は、強いストレス状態をもたらし、過労死や過労自殺、うつ病などに追い込まれてしまいます。

 

 

 

 

厚生労働省によりますと、2008年度に仕事上のストレスが原因の精神疾患で労災認定を受けた人は269人で、3年連続で過去最悪を更新しています。

 

 

 

 

過労自殺(未遂含む)の労災認定と、過労による脳・心臓疾患も、それぞれ66人、377人と高水準です。

 

 

 

 

「週間東洋経済」(2008年10月25日号)では、「家族崩壊ー考え直しませんか?ニッポンの働き方」という特集が組まれました。

 

 

 

 

同記事では、「夫は毎日長時間残業で家庭や育児を顧みず、場合によっては体を壊したり過労死したりする。

 

 

 

 

妻は仕事と育児の両立にてんてこ舞い。若い世代では低賃金で不安定な非正規雇用が急増し、結婚や出産をしたくてもできない人々が大量発生している」として、ゆがんだ労働市場を家族崩壊の元凶としています。

 

 

 

 

「家族崩壊を食い止めることは、日本経済を立て直すことでもある」とも述べています。

 

 

 

 

なお、父親が経済を、母親が家事・育児を分業する体制を推奨してまで経済成長に臨んできたにもかかわらず、2008年の日本の労働生産性は、OECD加盟先進7カ国中で15年連続最下位です(日本生産性本部「2009年度版、労働生産性の国際比較」)。

 

 

 

 

欧米などでは、父親が長い休暇をとって家族と楽しく過ごし、そのことが仕事上の活力にもなっている状況が見られます。

 

 

 

 

家族との信頼関係をつくる時間は、仕事を妨げるものではなく、むしろ仕事への意欲や集中力を高めるものになるのでしょう。

 

 

 

 

人間を、利益を上げるための道具のように扱う企業のやり方は、労働者とその家族を破壊するだけではなく、結局社会を疲弊させ、国際的な競争力も弱体化させてしまうのではないでしょうか。

 

 

 

 

口先では「人間が大事」といいながら、強者優遇、弱者切捨ての社会の危機をわたしはひしひしと感じます。

 

 

 

 

2000年代の小泉政権時代に、アメリカ流の自由競争が強められました。非正規社員の増加も、この時期の政策によるものです。

 

 

 

 

その結果、富裕層にますます富が集中し、中流層が崩壊して下流層が増大するという格差社会が進んでいるといわれています。

 

 

 

 

この格差社会の進展によって、高度経済成長期につくられた社会の価値観や子育て観を背景に仮面家族が増えているところに、貧困という深刻な問題が加わってきました。

 

 

 

 

仮面家族は、家族の信頼関係というきずながつくられていない内部崩壊家族ですが、経済面では満たされているため、外見はしっかりした家族に見えます。

 

 

 

 

従来のひきこもりはこのタイプの仮面家族に多く、ほとんどが中流層および上流層でした。

 

 

 

 

これに対して、貧困が家庭を直撃すると、家族の経済的な機能が弱まり、物質的な基盤が崩壊してしまいます。

 

 

 

 

貧困に見舞われた家族がもともと仮面家族であった場合には、外側も内側も崩壊した家族になってしまいます。

 

 

 

 

内部崩壊とまではいえなかった家族でも、貧困が親のストレスを強め、子どもを虐待したり、夫婦仲が険悪になったりということが起こりやすくなります。

 

 

 

 

貧困から高等教育を望めず、将来に希望を持てない子どもも出てきます。このような場合、貧困による外見の家庭の崩壊をきっかけに、内部崩壊が表出します。

 

 

 

 

たとえば、1990年代の不況以降、中学生の不登校が大幅に増加していますが、これはすでに仮面家族が増えているところに経済面の悪化が加わったからだと考えられます。

 

 

 

 

このような崩壊家庭は、経済状態の安定を確保するという課題に取り組むと同時に、親子関係や家族関係を修復する課題にも取り組んでいかなければなりません。

 

 

 

 

ジャーナリストのマイケル・ジーレンジガー氏は、「ひきこもりの国」で、若者たちが自室にひきこもるのは一種のストライキであり、閉塞した社会に対する抗議だと述べています。

 

 

 

 

確かに今、若者が大人社会に疑問をもっても、学生運動といったかたちで社会に訴えることはほとんどありません。

 

 

 

 

ひきこもる若者は、運動で社会を変えることなどできないから、自分の人生を犠牲にしてひきこもることで、社会を拒否し、社会に訴えかけている存在にも見えます。

 

 

 

 

ジーレンジガー氏は同書で、「ひきこもりの若者たちの多くは、頭がよく、繊細で、きちんと自己認識ができている。

 

 

 

 

彼らは日本社会にはびこる偽善や閉塞感を、親や教師よりも明確かつ切実に感じ取っているのだ。

 

 

 

 

我慢と義理に支配された窮屈で息苦しい生活から抜け出せずにいる哀れな父親たちを見て、ああはなりたくないと思っている。

 

 

 

 

夫婦の会話がほとんどない、そんな両親を見て、ああはなりたくないと思っている」と分析し、日本社会では「表立った反抗は容認されない」から、「内側に逃げるしかない」としています。

 

 

 

 

そして、「わたしが取材したひきこもりたちのほとんどは、自分を身動きできない状態にしている集団的な意識、集団的な統制のシステムをぶちこわしたいのに、自分にはぶちこわせるだけの力がないと思っている」といいます。

 

 

 

 

「反貧困ネットワーク」副代表の雨宮処凛氏も、「すでにひきこもりと呼ばれる100万人が労働を拒否して立てこもっている」と表現しています。

 

 

 

 

「生きさせろ」(大田出版)。ひきこもりの人は、自分を生きさせない今の社会にたいして、自分を痛めつけるやり方で、「わたしのような人間も生きられる社会になってほしい」と訴えているのかもしれません。

 

 

 

 

 

ひきこもりの問題を生み出した元凶は大人中心の社会なのに、その大人社会が責任を取ろうとしないことを、ひきこもりの人たちは告発し、抗議しているようにも見えます。

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関東自立就労支援センター
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TEL
042-439-4355
メール
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活動内容
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