人間の成長・発達とひきこもりという行為
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人間の成長・発達とひきこもりという行為

ひきこもりという行為を、人間の成長・発達過程の停滞・中断あるいは退行、さらには逸脱とみる意見があります。

 

 

 

 

それらを一様に否定するわけにはいきません。停滞、中断、退行、逸脱などの言葉は使っていませんが、相談に来る親は感情、感覚としてはそこを心配していることが多いように思います。

 

 

 

 

ひきこもりの経験者の多くも、自身の経験を否定的にみている場合がほとんどです。というよりは、そのひきこもりを経験した自分の存在をも否定的なものとみています。

 

 

 

 

しかし一方、ひきこもり経験者であって、現在はある程度元気になったり、仕事に就いている人たちのなかには、「ひきこもりという時期があったから、現在の自分がある。

 

 

 

 

自分にとってのひきこもりの時期は貴重な意味があった」と、より直接的なことばで、これを肯定する人もいます。

 

 

 

 

おそらくひきこもりの経験者で、それを否定的にみている(あるいは否定的に考えざるをえない)人は、そのこと自体が、現状から前に進みにくくなっている精神状態にあることを示しているのでしょう。

 

 

 

 

現在の自分を受け入れる、現在の自分から出発するという気持ちになっていないように見えます。わたしは、ひきこもりは単純に否定的なものではなく、人間の成長・発達の面から見て、積極的な面があると考えています。

 

 

 

 

しかし、それが長期化したときには、長期のひきこもり自体がひとつの原因となって、人間としての成長・発達にマイナスの作用を及ぼすとも思います。

 

 

 

 

とくに家族以外の対人関係が長期にわたって途切れてしまうと、精神生活(より平たく言えば、心の発達)に支障をきたします。

 

 

 

 

「生きている実感がない」「わたしであってわたしでない感じ」「社会との違和感がある」などの葛藤や悩み、苦しみは、人間の心の成長、・発達を深めていくもので、それ自体を、少なくとも一部を肯定的に見る必要があります。

 

 

 

 

しかし、それだけでなく、人間の成長・発達過程におけるひきこもりの肯定的な役割があります。

 

 

 

 

それは、子どもにとっての成長・発達過程をかたちづくる家族との関係、友達との関係、場合によっては、教師など家族以外の大人との関係を変えようとする、おそらく無意識の表現です。

 

 

 

 

ひきこもりの時期というのは、子育て環境、家族の関係、人との関係を子どもの側から(無意識・無自覚のうちに)断ち切ろうとしたものといえるのではないかと思います。

 

 

 

 

ひきこもることで、「無意識の、善意の、執拗な、広く行われている虐待」から逃れようとしているのです。

 

 

 

 

ここで「ひきこもり期」というのを想定してみます。「思春期」「反抗期」と並ぶ用語としての「ひきこもり期」という位置づけです。

 

 

 

 

「ひきこもり期」ということばは、20代に10年のひきこもりをした人が案出したものです。わたしはそれを借用し、意味づけようと思います。

 

 

 

 

人間の成長・発達の過程に「ひきこもり期」を位置づけると、わたしにはそれは反抗期の亜種、反抗期の特別のかたちのように思えました。

 

 

 

 

反抗期という形ではなく、「ひきこもり期」を通して自立へ向かう道筋が、人間の成長・発達にはありうると考えたのです。

 

 

 

 

ただし、すべてのひきこもりが反抗期の別種だというのは言いすぎだと思います。反抗のすべてが反抗期によるものではないように、ひきこもりのすべてを「ひきこもり期」の所産ということはできません。

 

 

 

 

「ひきこもり期」の特質を列挙してみましょう。その特質のひとつとしてひきこもりは、自分らしさや自己肯定感つかめないなかでの成長過程を経てきた人に表れやすいものです。

 

 

 

 

通常の成長であれば、思春期・反抗期として表れる自立の時期に、「ひきこもり期」をたどる方法を選ぶしかなかったということだと思います。

 

 

 

 

特質の第二は、反抗期の人と年齢的には同じか、どちらかといえば遅くなって現われることが多いということです。

 

 

 

 

まるで自分には反抗期がなかったのを見届けてからひきこもりを開始したように感じられることもあります。

 

 

 

 

反抗期の亜種というのは、この点をさしています。このことに関連して、ひきこもりであることは思春期の課題、思春期的心性をもったままであるといっていいでしょう。

 

 

 

 

30代後半や40代になってひきこもり状態から抜け出せないでいる実例にはあまり多く接していませんので、明確な表現はできませんが、そういう年齢に達してもひきこもりであることは、思春期的心性を少なくともある割合で維持していると推測します。

 

 

 

 

「ひきこもり期」の第三の特質は、その表現方法、表れ方にあります。反抗期が爆発型の表現とすれば、「ひきこもり期」の表現は陥没型といえます。

 

 

 

 

両方とも、それまでの比較的平坦なものとは異なる、人間の「第二の誕生」ともいうべき密度の濃い内容を持っています。

 

 

 

 

しかし、反抗期が外部からみえやすい陽性型であるのにたいして、「ひきこもり期」は外部からみえにくい陰性型だということです。

 

 

 

 

それから第四の特質ですが、わたしはこの第四の特質を特に大事だと思っています。反抗期が、それを通して人間が自立と社会性を獲得する飛躍台のような役割をするのに対して、「ひきこもり期」はそうとは限らない、ということです。

 

 

 

 

反抗期は自立と社会性の獲得において、高い成功率、達成度を示します。それに対して「ひきこもり期」は、自立と社会性の獲得に必要な対人関係のできる場面に進んでいく可能性を示すものだと表現したらいいでしょうか。

 

 

 

 

当事者のなかでの準備が整っていても、外からのサービスがあるかないかなどの環境条件が、成功率、達成度に大きく影響するということです。

 

 

 

 

そこで問題になるのは、「ひきこもり期」を受け止めるしゃかい対応のシステム(そこには親がその事態を受け止めることを含む)が極めて不完全なことです。

 

 

 

 

特質の第五は、「ひきこもり期」を経たとしても、自立と社会性獲得の達成度は反抗期経由型に比べて高くないということです。

 

 

 

 

このとき、自立と社会性獲得の判断基準をどこに置くのかによって、その達成度は異なります。わたしは、それを精神的自立という点におきます。

 

 

 

 

社会的自立、経済的自立に判断基準を置くことも尊重すべき意見だとは思いますが、たとえば三十代、四十代になってから「ひきこもり期」を抜け出した人にそれを当てはめるのは、機械的過ぎる気がするからです。

 

 

 

 

「ひきこもり期」を経た人の自立の達成度を高めるには、個人レベルと社会レベルの両方の対応が必要です。

 

 

 

 

結局は個人レベルと社会レベルのところでの、それぞれの人の「勇気」と動きが決め手になります。その個人を取り巻く社会環境、親や家族の理解と協力、社会のいろいろな人の「ひきこもり期」をみる目が育つことが、個人の勇気と動きを支援します。

 

 

 

 

ひきこもりの多くは、それが人間の成長・発達にとって意味あるものとして理解されずにいます。反抗期が社会的に認められているように、「ひきこもり期」も社会的に認められることが必要だと思います。

 

 

 

 

 

これを第六の特質としてもいいでしょう。ひきこもりの人たちは、現在の社会にすんなりはいっていきたいとは思っていない気がします。

 

 

 

 

ひきこもりという状況になるかどうかは別として、いま生きている多くの人が生きづらさや息苦しさを社会に対して感じていることは、社会問題化する現象の多様さ、精神病理の増加などをみても、まず間違いないでしょう。

 

 

 

 

この人間関係のゆがんだ社会は、変えていかなくてはならない世界かもしれません。ひきこもりの肯定的な面を、今度は社会とのかかわりという点から、箇条書きにしてみます。

 

 

 

 

1、ほぼ全体としてひきこもりを肯定すべき背景・理由は、しゃかいが豊かになるにつれて、思春期・青年期が長くなるのは法則的なものだということです。

 

 

 

 

ですから、「豊かな日本」ではこの子どもと成人の中間時間、思春期の時間が延長していると考えられます。

 

 

 

 

人間はゆっくりと成長し、大人になる動物です。しかしそれでも、たとえば日本人の場合を見てみますと、明治期以前には、社会的に子どもと成人の中間にこのような時間が長くあったとは考えられません。

 

 

 

 

社会経済が発展によって、豊かさを形成したとき、思春期・青年期の時間延長としてひきこもりのできる条件ができたと考えられます。

 

 

 

 

2、ひきこもりから抜け出すことは、この理不尽な社会への適応、同化、あるいは屈服と考えられるのではないでしょうか。

 

 

 

 

この社会をこのまま受け入れるだけでは自己喪失の道を進むことになるのではないでしょうか。

 

 

 

 

3、ひきこもりの増加・広がりは、次の時代(社会)の準備であり、将来予測的な面があると肯定的に受け止められるのではないでしょうか。

 

 

 

 

1の点は、良し悪しの問題というよりは、事実認識であると思います。そのように認識できると思います。

 

 

 

 

次に、2と3の二つの意見を、わたしはある程度は認めています。これには一理あると思うからです。ただ、どういう点をどの程度、、どういう場面でどういう時期に受け入れるのかはさまざまであると思います。

 

 

 

 

2のような社会問題の解決、前進については、現に直面していること、ある個人の目の前に立ちはだかっていることに立ち向かうことのなかで、(それが部分的なことではあっても)全体的な見通しや将来的な方向が提示されてくるはずだと考えています。

 

 

 

 

部分の量が多ければ多いほど、全体も将来もよりはっきりしてくるでしょう。

 

 

 

 

2と3の意見は、社会に対して自分が生きやすいようになってほしいという願いをこめたものです。ただ、その社会の変化に、自分は何らかかわりを持とうとしていない他人任せでは、どのような社会になっても、自分の居場所は見つからないでしょう。

 

 

 

 

その枠内で3を思いついても、「気休め」以上にはなりません。そうではなくて、自分ができること、どんなにささやかなことであっても、いま自分にできること、それを手がけていけば、2や3の思いは、自分のなかで生きてくる・・・・わたしはそう思います。

 

 

 

 

ひきこもりや不登校は、日本では1960年ごろに紹介された現象です。いまや小学生の約1000人に3人、中学生の約100人に3人という高い率で生じていると言われ、現代をうつす社会現象になっているともいえます。

 

 

 

 

学校生活や社会活動を回避してひきこもる子どもは、不安、気持ちの落ち込み、強い罪悪感、激しい怒りなどの感情を持っています。

 

 

 

 

そして、憂うつな気分になったり焦燥感を持ったりという葛藤を繰り返し、心を閉ざしてひきこもっていきます。

 

 

 

 

小学校なかばまでの年代は、家や親と離れることに対する不安が原因と考えられます。

 

 

 

 

それ以上から中学生時代の不登校は、思春期心性が関与している可能性が大きいと思われます。

 

 

 

 

思春期の子どもは、自分探し、自分作りをし、その年代で「自分」という人間の基礎を固めていきます。

 

 

 

 

親と仲間・学校という2領域の外的支援に支えられるとともに、内的な支援として、いわゆる「自己愛性」もふくらみます。

 

 

 

 

また、母親離れにともなう無力感や孤立感、学校や仲間集団との緊張感をともなう過剰適応をめぐる葛藤など、複雑な感情を抱きます。

 

 

 

 

そして、徐々に家族や家族外の人間との関係は適度な距離を確立し、過剰な自己愛が縮んでいって大人に近づいていきます。

 

 

 

 

しかし、そうした発達段階に、いじめ、家庭不和、学力低下、対人関係のトラブルなどがあると、子どもは親の保護から抜け出せない恐怖、傷つくことへの過敏な不安が広範囲に増大し、家にひきこもろうとします。

 

 

 

 

また、最近ではひきこもりと不登校の現象で、背景となっているさまざまな精神障害の中で、なんらかの発達障害の診断を受けた人が多く含まれていることもわかってきました。

 

 

 

 

発達障害のある子どもの不登校は、これまでの知恵や支援の方法に加え、特別支援教育の視点を導入した総合的な視点でサポートしていかなくてはならないでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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