不登校・ひきこもり・ニート経験者のインタビュー~家庭内暴力~
不登校やひきこもり状態のときに、親に対して家庭内暴力をふるう子どもは珍しくありません。広島県に生まれ、不登校・ひきこもり状態を経験後、関東自立就労支援センターの共同生活寮に入寮したBさんもそうした経験を持つ一人です。
Bさんは現在、27歳です。10年以上に及ぶひきこもり状態から、ようやく抜け出しつつある彼ですが、自宅で母親を殴り続けていた過去について語った際には「僕は生きる資格がありません」と言って、自責の涙を流しました。
Bさんは、当支援センターの共同生活寮に入寮して私と出会い、今回話をしてくれました。第一印象は、おとなしそうでとても家庭内暴力をしていたようには見えませんでした。
彼は一貫して、丁寧で優しい言葉遣いで話してくれました。またわたしからの質問に正確に答えられるように、あらかじめ手書きのメモに自分の経歴や大事な経験を書き出していました。
そして、わたしに伝え終えた項目をそのつどペンで線を引いて消しながら、質問に答えてくれました。
お生まれと簡単なプロフィールを教えてください。
広島県に生まれて、現在27歳です。今は奈良県に住んでいます。家は父親と母親と僕の3人住まいです。父親は現在61歳で会社員をしていました。
定年後は嘱託で働いています。母親は56歳で、いわゆる専業主婦です。上に30歳の兄がいますけど、独立していて医大の研究室に勤務しています。
後、僕の経歴は、この紙にまとめてありますので・・・・・このときBさんから手渡されたB5判の便箋には、彼の経歴が手書きの年表形式で書かれていました。
今回のインタビューを受けるために、母親に頼んで記憶を思い起こしてもらい、書き出してもらったそうです。そこに書かれていた母親の6文字がわたしの目を引きました。そこには「地獄の苦しみ」と書かれていました。
暗い予感を抱きながらも、まずは生い立ちを聞くことからインタビューを始めることにしました。
小さいころはどのようなお子さんだったのでしょうか?
父親が転勤族だったので、生まれてすぐに広島から岐阜へ移りまして、幼稚園に上がるときには名古屋にいました。
性格は短気で、頑固だったようです。よく親から聞かされた話ですが、幼稚園の入園テストのとき先生に「お名前はと聞かれて30分間も答えなかったとか、気に入らないことがあると、椅子をふりあげて先生に止められたとか・・・・。
問題児ですね。兄は対照的におとなしくて、びっくりするくらい素直な性格でしたので、後々よく比較されました。「お兄ちゃんは手がかからなかったのに・・・・」って。小学校に上がって1年生の夏に、奈良県に移ってきました。
性格的には少しおとなしくなって、普通の子どもになったと思います。友達も普通にできました。頑固な性格は変わりませんでしたけれど・・・・・。
給食のキャベツが食べられなくて、先生に「食べなさい」といわれたんですけど、結局5時間目になっても6時間目になっても食べませんでした。
どんな小学校時代でしたか?
成績はいつも上のほうでした。でも体育はだめ、小さいときからずっとだめでした。4年生になったとき、神経性の大腸炎で下痢をしがちになったんです。
最初は「医者は細菌のせいだと言っている」と聞かされていたんですが、後になって母親は「本当はストレスのせいだった」と言いました。
日常的におなかが痛くて、学校でもトイレに行かなくてはならなかったんですけど、個室に入っていると、級友にドアをがたがた揺らされたり、上から物を投げ入れられたり・・・・いやでしたね。
トイレから出て家へ逃げ帰ろうと思ったら先生に見つかって、車で家まで送ってもらったこともありました。本当におなかが痛かったし、母親は運転ができなかったので・・・・。
それでも学校には毎日通っていました。特に学校がいやだとは思っていなかったです。4年生の夏休みに、おなかの治療で半月ほど入院したあと、父親の転勤で福井県に移りました。
自然がいっぱいあるところでした。そうやって環境が変わったら、おなかも治っちゃったんです。そのあとは6年生で、また奈良県に戻りました。
9月から塾へ通って受験勉強を始めたんですけど、これは僕が希望したことです。私立の中学へ行きたいと思いました。
それはなぜですか?
母親は僕に勉強しろとは言いませんでしたので、あくまで僕の意思で私立のほうがいいと考えたのだと思います。
どうして私立のほうがいいと思ったのですか?
エリート意識が強かったのかもしれません。屈折したプライドだったかもしれませんが、自分は公立へ行くような人間じゃないという思いがあったと思います。
私立のほうがレベル的に高い人が集まるから、僕の優越感がみたせます。プライドが満たされる、ということです。
公立に進む人たちから「すごいね」と言われるから、いい気になれます。それからきっと、兄に追いつきたいという気持ちもあったと思います。
兄は小学校も中学校も公立でしたけど、小さいころから有名でしたから・・・・。「天才君」として・・・・。結局僕は合格して、私立の中学へ進みました。
インタビューの途中でわたしは少しの時間、席をはずしました。戻ってみると、Bさんは小さなメモ用紙にしきりに何かを書き込んでいました。
それは自作の短歌でした。「ひきこもっているとき、家でもできることをしようと思ってはじめたんです。」と彼は説明してくれました。
改めてインタビューを始めると、彼は再び背筋を伸ばし、静かに真剣に言葉を語りだしました。くつろいだ午後の喫茶店の隅で、彼の周りにだけは緊張感が漂っているように見えました。
中学はどうでしたか?
中学は「こんなに自分に合う学校は、ほかにはないんじゃないか」と思える学校でした。水を得た魚という感じで・・・・。テストのたびに成績順が上位100番まではり出されるんですけど、僕はずっと学年で上位1番から4番までの間に入っていました。
周りから「お前すごいな」と言われることで、僕のプライドは増長させられていきました。体育は下から2番目ぐらいでしたけど・・・・。
母親は今でも「あのころが一番よかった」と言います。でも他方で、僕の神経症的な苦しみは中学1年のころから少しずつ現れていきました。
電車通学をしていたんですが、車内にいるとき自分の顔の表情がおかしくないだろうかと気になって、顔がこわばってしまうんです。
やめようと思えば思うほど、口元がつりあがっていく感じになりました。なぜか緊張しがちで、そのことに他人が気づくんじゃないか、異変を知られるんじゃないか、と思ってしまう感じです。
あと、よくつばを飲み込むんですけど、それが胃に入るときに「ぐう」と音が出る、そんなことも気になっていました。
状態はその後、どうなりましたか?
中学3年になったころには、明らかに緊張感を感じていました。あるとき教室で隣の子が「どっかから、ぐうぐう聞こえへん?」言ったんです。
あっ聞こえてるんだ、と思ったら恐怖にかられて、つばがとまらなくなりました。授業中にティッシュペーパーで何度もつばを吸い取って、こっそり机の中に隠すようになりました。
ポケットティッシュでは2時間でなくなってしまうので、椅子の下に箱のティッシュを置いていました。いま思うと、自意識過剰の傾向は小学校のころからあったと思います。
自分で言うのも変ですが、僕は小さいころ、人からかわいいといわれることが多かったんです。電車に乗っていても、女の子たちが僕を見て、「あの子が次の駅で降りそうだからわたしも降りよう」なんて言っているのが聞こえてきました。
そんなことがあるたび、自分はたいした人間ではないのに、見られているんじゃないかという意識が強まってきたような気がします。
中学3年の終わりごろになると、教室にいるとき自分の視線がきょろきょろしてしまうようになりました。隣の人が気になって、そっちを見ちゃいけないと思うのに、なぜか逆に目がそっちに向いてしまうのです。
そうなると、もう思考が入り乱れてきて、どうにもならなくなっちゃうんです。
高校に進んでも状況は同じでしたか?
高校にはエスカレーター式に上がれたんですけど、高校1年になると神経症的な症状はさらに悪くなって、強迫的な行為も出てくるようになりました。
頭ではばかばかしいとわかっているようなことに、なぜかこだわってしまう状態です。教科書に引いたアンダーラインが、はねたりにじんだりしているのが気になって、3回も4回も引きなおしたりだとか、自分の書いた字が気に入らないと何度も修正液で書き直して、それでも完璧でないと思うとノートを破いてしまったりだとか・・・・。
2年生になると、教室で黒板を見ることができなくなりました。みようとはするんですけど、わきに立っている先生のほうに視線がいってしまって、たまに目が合ってしまったりしようものならドキドキのきわみで。
授業どころではありませんでした。体もガチガチでした。
成績などはどうだったのでしょうか?
高校時代のテストの成績はそれでも上から3位以内でした。友人もいて、いつも一緒に帰る5人の仲間がいました。ただ彼らにも神経症的な悩みの話まではしませんでした。僕自身、自分がどうなっているのかわかっていなかったせいもあると思いますけど・・・・・。
恐怖は感じていました。家にすごく古い精神医学の辞典があって、読んでみたことがあるんです。よくわからないまま分裂病とかの説明を読んだりしていたら昔の本だったせいか、廃人になっちゃうとかロボトミー手術をするとか書いてあって、自分もこうなるんじゃないかと思ったりさせられました。
その当時、ご両親に相談をしたり、助けを求めたりされたのでしょうか?
親にも結局、悩みは話せませんでした。ずっと普通を装っていました。説明のしようがなかったし・・・・。両親の頭の中の僕は「成績優秀で、まじめで」という子どもでした。そのイメージを僕は壊したくなかったんだと思います。
そのために無理をしてしまったと思います。たとえば当時、緊張してがちがちになっている体をクラスメートに見られたくなかったから、朝5時過ぎに早起きして登校するようなこともしていました。
人の少ない時間に動くことで、できるだけ人の目を避けようと思ったからです。毎日いちばんはやく教室に入って、机にうつぶせになった状態で、次の誰かが入ってくるのを待っていました。
その人と目を合わせるのが怖かったからです。でも親には結局、早起きをする本当の理由はいいませんでした。ずっと「早く行って学校で勉強したいからだ」と嘘をついていました。
だから僕が2年生で学校へ行かなくなったとき、両親にとっては晴天の霹靂だったみたいです。2人とも何がなんだかわからない、という感じでした。
Bさんのように、自分が何を苦しんでいるかを親に言わなかった(言えなかった)、という例は多いです。だからこそ、一部の親から見ると、不登校やひきこもりといった「問題状況」がまるで突然に始まったかのように見えることになります。
ひきこもりのような問題を考える場合、子ども(青年)と親との問題認識にはしばしばギャップがある、ということを念頭においておくべきだと思います。
Bさんの場合、「僕は人の前で緊張してしまうんだ」という悩みを親に吐露したのは22歳のときでした。彼が電車内で自分自身の異変を感じ始めたころから数えると、実に10年近くもあとになってからの「告白」だったことになります。
高校に行かなくなったというのは?
あれは高校2年生の2学期の初めでした。夏休み明けに定期テストがあったんです。その試験の3日目に始めて休みました。僕はこのときもう限界だと感じていました。これ以上は体がもたない、と・・・・。夏休みの間、9月になるのが怖いと感じていたんです。
長い夏休みをすごしたことで、ずっと休めたらいいのにという思いが強まったのかもしれません。休みが明けて学校へ行ってみたけど結局、学校で感じる苦しさは夏休み前と何も変わっていませんでした。
学校へ行かないというのは、具体的にはそういう体験でしたか?
まず、朝起きないんです。起きたら行かされますから・・・・・。両親は何がなんだかわからないようでした。学校に何か問題があるのだろうと思っていたようです。
僕を怒鳴ったり登校を強制したりはしませんでした。母親が「今日はどうするの」「起きなさい」「なんで行かないの」といい、僕は「しんどい」と言う繰り返しでした。
ただ「しんどい」と親に言うだけで、緊張のことは言いませんでした。確か10日目ぐらいのことですけど、母親があきらめて僕の部屋を出て行ったあと、ドアの向こうから、すすり泣く声が聞こえてきました。
こころの中には休むことへの罪悪感がありました。僕自身、学校へは行くのが当たり前だと思っていたからです。だからいつも葛藤がありました。
罪悪感の中で一番大きかったのが両親に申し訳ないという気持ちだったように思います。自分を責めて、でももうこれ以上はがんばれないというのが正直なところでした。
人とすれ違うだけでも緊張してしまうような状態でしたから・・・・。結局、3年生のときはほとんど登校していません。9月に休学をして、3学期に自主退学をしました。出席日数が足りなかったからです。生活は午後2時ころに起きて明け方に寝るようになっていました。
朝は学校へ行かないよう身を守るために、じんどい時間だったからです。逆に夜は学校に行かなくていい時間帯なので楽でした。
起きている時間は、ほとんど布団の中にいたと思います。それ以外は、復学するときに備えて少し勉強をしたり、当時は両親が共働きだったので日中にリビングでワイドショーを見たり・・・・。
深夜にはラジオを聴いていました。家にいる間、葛藤はありましたけれど、学校へ行かないという安心感もありました。苦しくない、という感じです。もちろん逃げているんだけれど・・・・その場限りのせつな的な安心感がありました。
将来のことは当時、どう考えていたのですか?
先のことは、あまり・・・・。
外出はされていたのでしょうか?
高校2年の途中から21歳になるまでの4年間は、ほとんどまったく外出しませんでした。両親以外に、動いているなまの人間を見ること、できなかったですから。
家の中では歩き回れたし、両親とは話もできたのですが・・・・。21歳のとき家族で引越しをして、それから徐々に外へ出るようになったのですが、結局は25歳ごろまでは閉じこもっている状況が続きました。
僕の場合、10年近いひきこもりだったと思います。一人で電車に乗れるようになったのは去年からです。
Bさんの10年近いひきこもり経験のうちでもっとも深刻な時期は、高校を離れて自分の「所属」を失ってしまったあとの3年間だったようです。
母親が「地獄の苦しみ」と書いた時期です。それは、息子から母親への家庭内暴力が吹き荒れた時期でもありました。このときの暴力体験は、Bさんにとってもつうこんの記憶となっていました。傷といってもいいのかもしれません。
「地獄」と表現した母親も当然、大きな傷を負ったことでしょう。わたしからの求めに応じて彼は、悲惨としか言いようのない家庭内暴力の日々を淡々と語り始めました。
暴力が始まったころの話を聞かせてください。
暴力が始まったのは高校3年ごろでした。ふるう相手は母親です。何かでカッとなって母親にあたる、という感じでした。僕はこのころ強迫的な行為がひどくなっていて、母親をその神経症的なストレスのはけ口にしていたのかもしれません。
母親と2人でいるときに暴力をふるうことが多かったのですが、ときには父親の前で母親をたたいたこともありました。
たたくというのは拳骨で、ですか?
そうです。グーで殴りつける感じでした。暴力がひどく続いたときは、母親の頭がたんこぶだらけになってしまって、たたくところがなくなるほどでした。
ほかにもインスタントコーヒーのビンでたたいたり、寝ているところを蹴って起こしたりしたことがありました。直接に危害を加えなかった場合でも、たとえば扇風機を投げつけたり、トイレのドアを蹴破ったりということもやしました。
僕がたたいた後、母親が泣くこともありました。母親が暴力のせいで寝込んでしまって、父親がタオルで頭を冷やしてやっていることもありました。
検査のために母親が病院へ行ったこともあります。たいていは僕が自分の強迫行為に母親を付き合わせることから始まって、母親が僕の求めることをうまくできなかったりすると、初めは口で文句を言い、それでもうまくいかなかったりすると、たたいてしまう、という感じでした。
たたいてしまったあとは必ず自己嫌悪になって「もうしないでおこう」と思うのに、どうしてもまたやってしまうんです。
いちばん僕のことを理解してくれているはずの人を八つ当たりの対象にしてしまう、助けてもらうべき人の命を、自分でちじめているような感じでした。
自分の強迫行為に母親をつき合わせてしまうというのは、具体的にはどのような状態だったのでしょうか?
いろいろな場合がありました。たとえば、ある新聞広告を見て新聞をぽいと捨てた、そのすぐ後で、「あの広告記事の最後に句読点はついていただろうか」と気になるんです。
ばかばかしいことだとわかっているのに、どうしても気になってまたその新聞を見てしまうんです。見て確認することで、そのこだわりは消えるんですが、すぐ別のことが気になり始めます。
「あの文字についていた濁点は、にじんでひとつにくっついていなかっただろうか」とか・・・・。一度気になってしまうと、悩み続けるよりは確認したほうが早いと、また確認行為をしてしまいます。その繰り返しが始まるんです。
新聞を家の棚からひとつ取り出す作業をしても、そのとき下にある別の新聞が目に入ってしまえば、「あっちの新聞はまっすぐ置かれていただろうか」と気になってしまうし、棚から離れたとたん「棚の扉はきちんとしまっただろうか」と気になってしまうこともあります。
次から次へ気になることが現れて、やめたいのにやめられなくなってしまう状態でした。母親をつき合わせたのは、僕一人では確認ができないときでした。
母親に協力してほしいとたのむんです。たとえば、新聞のある文字を確認せずにいられなくなったとき、母親に新聞を取ってきてもらって、そこだけをさっと見て、すぐに母親に返す、そんなことをしたのは確認行為を少しでも減らしたかったからです。
自分で何かをするたびに、次の気になることが浮かんできてしまうから・・・・・。母親と顔を合わせると、母親の表情や様子が気になってしまう、そんなことも始まりました。
自分の目がきょろきょろしているんじゃないかと気にしているとき、母親の様子が僕の視線を避けるそぶりに見えると、「なんで顔を隠すんだ」と問い詰めずにはいられなくなるんです。
母親の顔がこわばっているように見えると、まるで自分の顔が緊張でこわばっているのが伝染したように思えて「なんでそんな顔をしているんだ」と言ってしまって・・・・。
お母さんに暴力を振るうのは、そういうときなのでしょうか?
そうでした。たとえば母親の言葉使いが少しおかしかったときなど、自分のしゃべり方がおかしいから伝染したのではないかというふうに思えてしまって、不愉快になることがありました。
どうしても気になって、抑えきれず「どうしてそんなしゃべり方をするんだ!」と問い詰めてしまうんです。母親はもちろん「普通に話したのよ」とか「たまたまよ」とか答えるのですが、僕は納得できなくて、「なんでや」「どうしてや」と問い詰めてしまっていました。
接点がまったくない平行の議論です。最終的には「僕がおかしなしゃべりかたをするからか!」と怒って母親をたたいていました。
また同じように、母親の話し方のちょっとしたことがおかしく聞こえて気になってしまう場合でも、問い詰めるのではなくて、母親に正しく言い直させようとしたこともありました。
同じ言葉を母親に何度も言い直させるんですけど、結局は納得ができなくて、最後には僕が「なぜいえないんだ!」と切れて殴るという・・・・・。
なぜお母さんが対象だったのでしょうか?
・・・ひきこもっている最中、僕にとって母親は他人の代表だったんだろうと思います。母親の後ろに世間があって、その世間への恨みとかうっぷんとかを母親に当てていた・・・・そんな気がするからです。
だから、すごく自己中心的な話なんですけど、ある程度暴力を振るうと、すっきりする気がしました。
その世間の代表というものは、お母さんでないといけなかったのですか?
それがなぜ母親でなければならなかったのかといえば、・・・・消去法的に母親しか当たる人がいなかった、ということだと思います。父親には当たれなかったですから・・・・強かったですし・・・・。つまり僕は弱いものにあたった、ということです。
・・・・・あと、おそらくもうひとつの理由として、母親への甘えもあったと思います。「母親にだけわかってもらいたいこと」がありました。
なのにわかってもらえていないように思えてなぜわかってくれないのかという気持ちになって・・・・。たたいているときや終わった後には、「母親がもし死んだり怪我したりしたら、自分はどうやって生きていけばいいかわからない」という不安も同時に感じていました。
また終わった後には、純粋にわるいことをしたという後悔もありました。いつも「またやってしまった」と後悔するんです。
なのにまた一日か二日たつと、親と言葉をかわすうちに、やはり・・・・・。自分のこころの中に慢性的なストレスがあって、それで母親にあたっているのだという自覚は当時もありました。
自分には母親への恨みなどない、という自覚も・・・・。だけどあのときは、当たるところがほかにありませんでした。壁をたたいても、すっきりしなかった・・・・・。それで、目の前にいる弱い人に向かったんです・・・・。本当に,申し訳ない・・・・。
自分はお母さんを自由勝手に利用している、という思いはありましたか?
・・・・またやってしまった、という罪悪感はありました。いちばん当たってはいけない人に当たっている、いちばん大事にしなければならない人に当たってしまっている、自分は悪い男だ、とも思っていました。なのに暴力をふるってしまうんです。なぜか・・・・。
お父さんはあなたの暴力行為にどういう態度をとっておられたのですか?
母親が殴られた後に父親が帰宅したときなどは、父親は母親と2人で僕のいないところでひそひそと話をして母親を寝かせてから、僕のところへ来るという感じでした。
父親はもともと子どもに遠慮をするようなタイプでした。そのせいかどうかは知りませんが、僕をたたいたり怒鳴ったりということはしませんでした。
なだめるような口調で「殴ったらいかん」「お母さんが死んでしまうぞ」と言いました。でも当時の僕は内心、こっちにはこっちの言い分もあると感じていました。
いけないことをしているとわかっていながらお母さんが悪いという正当化もしていたんです。・・・・僕の暴力は結局、その後もしばらく続きました。
友人の一人が亡くなるまでです。
暴力をしているころ、親御さんは第三者に助けを求められたのでしょうか?
学校に行けなくなって家にひきこもっていた高校3年生のとき、家に精神科医が来たことがありました。昼間に急に現れたんです。医師は僕に「お母さんから話は聞いているでしょ?」といいました。つまり母親が困って医師に援助を求めたんです。
もちろん善意からそうしてくれたのだろう、とは思います。でもそのとき、僕は親から事前に何も聞いていませんでした。医師は「お母さんがあなた了解を取ったときいてるけど」とこまったようでした。でもその場の僕は、そんな話を了承できるような状況ではありませんでした。
どういう心境だったのですか?
ショックでした。母親に裏切られた気がしました。信頼していた人にだまされたみたいな・・・・。確か医師が帰った後、それを理由にまた母親に暴力をふるったと思います。
・・・・今、母親の立場になって考えれば、すごくよくわかるんです。母親が援助を求めたのは当然だと思います。でもあのころの僕は、とても母親の気持ちにまで気がまわりませんでした。いま思えば、医師の介入は僕の神経症的な治療をするためのひとつの機会になったかもしれない、とは思います。
ただわかってほしいのは、当時の僕にあったのは人間全般への不信感だったということです。だから、当然この医師もわかってくれるはずがないと思っていました。
それから、急に訪ねてこられたことも、受け入れられなかった一因だったと思います。あのとき僕は、ひどくとまどっていましたので・・・・・。
もうひとつ、こんな状態になっているのは世界中で僕だけだと思っていたことも関係しているかもしれません。もし世の中に似たような人がいるとわかっていたら違っていたかもしれない、と思います。
それ以降、医師とのかかわりはどうなったのですか?
そのあとは医師が来ることはありませんでした。僕の場合、母親への信頼感が壊れなかったのは、無理やり治療に連れて行かれるようなことがなかったからだろうと思います。
だから結果的に今では、母親にすごくありがたいと思っています。医師が来て入院させられた人の話だとか、親が急に実家に避難してしまった人の話だとかを聞いたこともありますけど、子どもは傷つくだろうなと思います。
暴力を受ける側の親には、忍耐の限度がありますね。それをどう考えますか?
もしかしたら親がバットで僕を殴ったかもしれません。そうならなかったのが不思議なくらい、当時の僕の暴力はひどかったと思います。うちの両親は忍耐強かったな、とも思います。でも、わかりませんね。僕は寝ているとき親に首を絞められていたって、おかしくなかった・・・・。
結果的に僕の場合は、後に友達が亡くなったことや引越しをして環境が変わったことが影響して、暴力がなくなったんですが・・・・・。
一般的には親が家庭内暴力による被害を訴えてきた場合、援助者は家族を一時的に避難させたり、医療・保健機関や警察などによる援助・介入を勧めたりすることが多いです。
子どもに暴力をふるわせない(親を暴力に遭わせない)方向が援助の基本です。ただしそうした立ち入った援助をする場合には、暴力をふるう当人の側に対する一定の配慮も必要だ、とわたしは思います。
親の要請によって第三者が家族関係に介入してくるとき、当人(子ども・青年)は介入されたこと自体によって少なからず心理的なショックや傷を受けます。
親に捨てられた、親に裏切られたと感じるからです。先々の家族関係への影響まで考えると、ただ物理的に親子を引き離せば、解決する、という問題ではなくなってくるのです。
精神科医を含めた援助者たちは家族療法研究などの場で、どのタイミングでどのように家族関係に介入していくのがよいかについての技術的な検討を重ねています。
では、暴力がなくなっていくまでのお話を聞かせてください。
21歳のときに今の家に引っ越してきました。新しい家も同じ奈良県内ですが、今度はマンションではなく一戸建てになりました。
引越しをしたわけは、僕がマンションの環境にストレスを感じていたからです。隣の部屋の住人が変わったとたん、ピアノを弾く音や幼児が廊下を駆け回る音とかがうるさくなって、それが気になるようになってしまって、僕の暴力がひどくなったんです。
母親は僕の過敏な状態を隣の家族に説明してくれたんですけど、理解してもらえず、隣はピアノも窓を開けたまま弾くありさまでした。
僕はやがて我慢できなくなって憎しみさえ覚え、「隣がうるさい」「どうにかしてくれ」と無理難題を言って、ますます鬱憤を母親に当てるようになりました。
そうした攻撃性が家族以外の人に向かうことはなかったのでしょうか?
あの当時が精神的にいちばん追い詰められた時期だったと思いますが、何度言っても隣の状況が改善されないので、最後は病的になって、嫌がらせに隣の家の新聞入れにサラダ油を少し流したことがありました。
ただ、隣の人をすごく憎んだことは事実ですけど、人に危害をくわえたことはありません。両親はきっと、そこまで追い込まれた僕の様子を察して、引越しを決めてくれたんだろうと思います。
僕が人目を避けたがったので、引越しのときは午前2時に車で移動しました。
新しい家に移って、状況はかわりましたか?
は新しい家で、僕の部屋に防音措置をしてくれました。それでも僕は窓から外を見ることもできなかったし、ベランダに出ることもできませんでした。
けれど部屋が前より静かになったことで、気持ちは少し落ち着くようになりました。環境が変わったことで、ストレスは確かに減りました。
そうしたら気持ちにも少し前向きさがでてきたんです。ひきこもりを続けても進歩がないから今の状況を脱しよう、という気になり始めました。
年が変わって1月の中旬ごろ、仲良しだった友人が自殺したんです。彼が死んだことで、僕の人生観は変わった気がします。それで高卒認定試験を受ける気になったんです。
どんなご友人だったのですか?
亡くなった彼は、高校時代に一緒に帰っていた5人組の一人です。僕のことをよくわかってくれていた人であり、同時に勉強上のライバルでもありました。
成績は僕がほとんど学年いちばんで、彼が二番でした。彼は、僕が学校を休んでいたときには、後で授業のノートをコピーしてくれたし、一緒に旅行へ行ったこともあります。
プライドの高い子でした。第一志望の大学に落ちて別の大学に進んでいたんですが、スキー場のホテルで首をつったそうです。当時の仲間の一人が知らせてくれました。といっても僕は、電話に出られないので代わりに母親が聞いてくれたのですが。
そのご友人の死をどう受け止められましたか?
はじめに亡くなったと聞いたときは、友達なのにざまあみろと感じている自分がいました。残酷ですけど・・・・。思えばそれくらい、あのころの僕は、他人との比較にこだわっていました。ひきこもったことで、ずっとほかの人たちより遅れていましたから・・・・。
彼は死んだけど、僕はひきこもりながらも生きていた。そのことで彼に勝ったみたいな・・・・。でもそんな気持ちはしばらくして消え、やがてもっと前向きな気持ちが出てきました。
僕らの高校は足の引っ張り合いみたいな学校だったんです。死んだ友人も僕も、女性とも付き合わず、勉強にすべてをつぎ込んできました。
だから自殺したと聞いて、僕たちの人生は何のための人生だったんだろう、と思いました。中学・高校時代がばかばかしかったと思えました。
彼の人生と僕の人生と、あの勉強ざんまいの日々はいったいなんだったんだろう、と。僕は、高校中退した過去をずっと引きずっていたんですけど、彼の自殺で高校のことは過去のこととしてピリオドが打てました。
やっと闘いが終わったのかもしれません・・・・。それから僕は変化がほしくなりました。そして大学へ行こうと思ったんです。
高卒認定試験ですか?
ええ。高卒認定試験は、翌年の夏に受験して2科目だけはすぐに合格したのですが、残りの科目については秋から翌年の春までの半年間、単位制の高校へ行って取得しました。
授業へ出ることは怖いから、できるだけ出席が少なくてすむように通信制を選びました。学校へ通ったのは結局10回くらいです。両親も協力的でした。車で一時間半かけて送り迎えをしてくれたんです。あとは自宅でレポートを書いて郵送すればよかったので・・・。
ただ通ったといっても、当時も人への不安や恐怖は強くて、家の外ではトイレにも行けない状態でした。トイレではほかの人と一緒になるかもしれないからです。
だから通学するときは、車の中でペットボトルにおしっこをしていました。学校についても車から一歩出ると、とたんに緊張してしまうんです。教室では、ずっとうつむいて顔を隠していました。
ご自身の状況を改善するために援助機関などは利用されたのでしょうか?
大阪にある民間のカウンセリング機関に通いました。2年くらいの間に10回くらいカウンセラーに会ったと思います。イメージトレーニングとか自律訓練とかをしましたけれど、目立った効果はありませんでした。友達の自殺や引越しの影響は大きかったと思います。
良かったのは電車に乗る練習になったというくらいですね。実際、以前は、緊張してしまうので一人で電車に乗れなかったですから。
家で1年くらい勉強をして、受験に向けた準備はほとんど終わったと思うようになりました。そして夏に、ほとんど10年ぶりでしたけれど、高校時代の仲間たちと一緒に浜名湖まで旅行に行きまし。
それは大きな変化ですね。どのようにして実現したのですか?
きっかけは仲間が誘ってくれたことでした。暑中見舞いに「行かないか」と書いてあったんです。僕は、行きたいと返事を書きました。
もちろん以前だったら返事自体も出さなかったと思いますけど・・・・。なにしろ10年近く引きこもっていましたから、ずっと友達への年賀状も出していなかったし、僕は一生外界へ出ることはない、一生誰とも友達になれず、誰とも話すことなく終わるんだと思っていました・・・・。
死んでも僕の葬式には家族しか出ない、誰も来てはくれないんだとも考えました。それはやはりつらくて、だからこのときは誘ってもらったのを機に、思い切って参加してみたんです。
両親から離れたのは10年ぶりだったかな・・・・。行ってみたら仲間とは仲良くできたんです。おかげで少しだけですが、自信がつきました。ただ、そのときはまだ一般の人と付き合うのは無理だろうなと思っていましたけど。
彼らが昔の仲間だったからコミュニケーションできたに過ぎない、と?
ええ、そのころ僕は大学入試を受けるつもりでいました。でも、そのころ突然、血尿がでたんです。病院に行ったら腎炎だと診断されて、すぐに入院させられて・・・。
25歳のときです。重い悪性の腎炎で、「患者が100人いたら99番目ぐらいに病状が悪い。進行が速くて、どうにもなりません」と言われました。
覚悟をしておくように、と・・・・。ただ幸い、ショック療法がうまく効いて、炎症の進行を遅くすることができたので命は助かりました。
病院には3ヶ月ほど入院していたことになります。結局僕のひきこもりは、この入院経験をきっかけにほぼ終わりました。入ってみたら、なんとか集団の中で過ごせたんです。命がもたないかもしれないと言われたことが関係しているのかもしれませんけど。
入院は具体的にはどのような状況だったのでしょうか?
入院したのは6人部屋です。まわりはみんな50代とか60代のひとたちでした。6人部屋に入ると言われたのは入院前日でした。それまでは防音の効いた自分の部屋で静かな状況にいましたし、入院後も自分は孤立するに違いないと思っていましたので、すごくドキドキしました。
ドキドキの一番の理由は、うまくやっていけるだろうか、という不安でした。入院初日のことで覚えているのは、ベッドに座ったところへ看護師さんが来たことです。名前や職業や生年月日などを聞いてきました。
僕は緊張した上に、自分の言動がおかしくないかどうかが心配でたいへんでしたけど、なんとか冷静を装って名前を言いました。
自分は一生、女の人と話すことはないと思っていましたし、中学高校は男子校だったので、女の人と話すのは小学校6年生以来だったと思いぼす。
僕の場合、ずっと対人的な緊張があってひきこもっていたし、家族としか話していなかったですけど、逆に人と話したいという思いも強かったんです。
そのせいか、最初に話をした看護師さんに恋愛感情を持ちました。もちろん片思いでしたけど・・・。
どういう人だったのですか?
僕の好きな色白タイプの人で、受け答えの仕方も好感が持てました。話の内容は事務的でしたけど・・・。名札を見て名前はHさんだとわかりました。24歳の人でした。
最初の会話の印象がどうだったのか、もう少し聞かせていただけますか?
先ほども言ったように小学校を卒業して以来、女の人と話したことがありませんでしたし、引きこもってからは同年代の人の出す声さえテレビの中でしか聞いたことがない状況でした。
同世代の人がどんな服を着ているのかも、テレビ以外では見たことがありませんでした。そんな状態で僕は看護師さんと会ったんです。
・・・・なまの女の人の声が聞こえて、その人に自分の出す声が通じて、また返事が返ってくる・・・・。会話のキャッチボールですよね。僕には10年間、なかったことでした。
その看護師さんが何か特別な個性を持っていたということなのでしょうか?
・・・・今思えば、看護師さんたちの中でもいちばんゆったりした雰囲気の人だったので、そこがよかったのかもしれません。ただ僕には女の人としゃべることなく死んでいくんだという思い込みがありましたから、同年代の女の人だったらほかの人でも同じようにうれしさを感じたかもしれませんね。
・・・異性としゃべらずに死ぬということが、人間として一番さびしかったです。だからひきこもっている最中も空想のなかでは、つきあうことまではできなくとも会話をしたりはしていました。
「話ができるかな」と心配しながらの会話でしたけど・・・・。そんなことで看護師さんと会ったとき、うれしさが先にきたんだろうと思います。
今までコミュニケーションから逃げてきたことへの反動でしょうけど、けっこう軽口なども言ったような覚えがあります。
看護師たちがBさんに特に配慮して接してくれていた可能性はありますか?お母さんが入院前に、あなたがひきこもっていたことを病院に説明していたとか・・・。
ええ、十分ありうると思います。母親もきっと婦長さんなどには、僕の対人関係や精神状態のことについて伝えていたでしょう。
入院中、ほかの患者さんとのコミュニケーションはどうだったのでしょうか?
部屋はみんな男性で、隣のベッドは75歳くらいの人でした。僕は一日目も二日目も緊張してまったく話ができませんでした。はじめて声をかけることができたのは三日目の朝です。ベッド横のカーテンを開けて、隣の人に「おはようございます」と言いました。
その後の日常はどうだったのですか?
みんなすることがないので、ベッドの上にあぐらをかいて自分の病状の話をしているんです。腎臓病の人ばかりだったので、今日はタンパクが一グラム出たとか二グラム出たとか・・・・。
誰かに聞かれて僕が「十グラム」と言ったら、みんなに驚かれたのをよく覚えています。でも僕には病気への心配より、うれしさのほうが強かったです。
対人緊張はずっとありましたけれど、看護師さんとか患者さんとか、赤の他人と自分が友達になれるということに毎日、気分がすごく高揚していました。
特に印象に残った出会いはありましたか?
暴走族のリーダーがいたんです。金髪で、いかつい感じの人でした。H君といって、年齢は彼のほうが一つ上です。
入院した当初、彼は僕と同じ部屋にいて、三日目に彼から話しかけてきました。僕が窓際のベッドにいたら、マンガの「GTO」の単行本を三冊くらい持ってきてくれて、「これ読めや」って・・・・。
暴走族なのにちょっと内気な感じがする人で、僕はそのときこの人は僕と話すきっかけを求めているんだろうなと感じたんです。
だからそのあと、僕から思い切って声をかけました。GTOの話をして「お年を聞いてもいいですか」と尋ねたんです。ああ同い年くらいだなと思って、それから仲良くなりました。
二人とも高校を中退していたので、そこに親近感があったのかもしれません。でも彼と僕とは正反対の人でした。僕には母親への甘えがあって母親も世話を焼いてくれたし、勉強しかできないような人間でしたし・・・・。彼は在日韓国・朝鮮人の二世か三世で、家は母子家庭だったですから・・・・。
ただ、人間関係が下手だということは似ていたのかもしれません。彼の場合は暴走して補導されたりバイクを盗んだりという感じでしたけど・・・・。
よく二人で深夜に病室に出て、病棟のなかの階段に座っていました。僕が「どうやって暴走するの?」と聞いたり、「毎週暴走するんや」と教えてもらったり・・・・。
彼はたばこを吸っていて、灰をポンポンと階段の床に落とすんです。見回りにきた警備員がそれを見て注意したそうにしていると、彼は「なんやこら、文句あるんか!」とすごんでいました。
あとで僕が「灰を捨てたらあかんよ」といったら、彼は「ええねん」と言っていいました。
いい出会でしたね?
ええ。彼に影響されたことは多いです。高校の仲間とは違う、僕ににとって初めての、友達らしい友達です。会って一ヶ月後に彼は先に担任したんです。でも、僕が「髪を染めようかな」と言っていたことを覚えていて、病院にこっそり髪の脱色剤を持ってきてくれました。
彼に指示してもらいながら洗面台で脱色して茶髪になりました。薬をつけたり何度もシャンプーしたりする作業は、彼が40分くらいかけてやってくれました。
僕が退院したあとにも何度か彼の車に乗せてもらいました。信号は無視するし、ほかの車のドライバーに怒鳴りつけたりするしで、たいへんでしたけど。
暴走族だとか民族のことだとかは関係ないんだな、と僕は思いました。中学、高校時代の僕は井の中の蛙だったなと・・・・。
勉強以外の価値観があるんだということをそのときになってはじめて発見したんです。振り返ると僕の周りはずっと同じような友達ばかりでしたから。
そういう仲間と、クラスで一番から五十番までの競争をしてきた・・・・。高校時代にH君みたいな友達がいたら考え方が変わっていたかもしれない。今はそう思いますし、彼には感謝しています。
大きく見て、ご自分自身のこの数年の変化をどう見ていますか?
振り返ると僕は、引越しや友人の自殺があったころに気持ちの転機があって、その後少しずつ友達を作りたいという意欲もわき始めていました。
仲間と旅行に行った時点では、自信はつきましたけど、いっぽうでは彼らは中学時代から知っている特別な人たちで、まだ世間の人たちと付き合えるかどうかはわからないと感じていました。
世間の人と話せたという自信がついたのは入院したときです。病気になって失ったものもあるけれど、僕はゆっくりと前へ進んでいたということだろうと思います。
病気はその後、どうなのですか?
医者からは、大学へ毎日通うのは、体力的に不可能だといわれました。その後、胆のうの摘出手術も受けました。腎臓から体調を崩して脱水症状になって倒れ、救急車で運ばれたりもしました。
対人関係の困難さはどう変わってきたのですか?
新聞で知って去年7月に森田療法の会に入りました。週1回学集会に参加するんです。参加回数はもう3、40回になると思います。今も大阪まで電車で通い続けています。
この会は、対人恐怖や対人緊張的な神経症で苦しんだことのある経験者たちがボランティアで運営していました。専門家はいません。参加者が会で初めて自己紹介するとき、だいたいみんな共通して「友達がほしい」と言うんです。
僕にとっても、同じように神経症で苦しんでいて、しかも同世代の人たちがいるということは大きかったです。慣れてくると、いっしょにカラオケに行ったりもし始めました。症状は今ではもう、だいぶ軽くなってきました。
対人的な緊張は8割がた、解消されたような気がします。会で皆と森田療法の勉強をしたことも一つの効果だったと思います。強迫のほうは、まだかなり残っていますが・・・・。何が僕にとって一番大きかったのかといえば、会で友達ができたことだと思います。
実際、友達ができたことで僕は変わりました。
この先、つまり将来のことをどう考えていますか?
・・・・僕にとって、それが一番の問題です。数ヶ月前までは大学進学を考えていました。でもそれは病気のせいで肉体的に無理だ、と医者に言われてしまいました・・・・。
「仕方がない、まずは稼ぐほうが先だ」、これが結論です。具体的には、独学で資格を取ることですね。体力がないことも考えて、資産運用のファイナンシャルプランナーなどを考えています。
もちろん、その資格だけで生きていけるほど世の中、甘くはないでしょう。まずは自動車の免許を取って、その先に・・・・。
社会や周囲との間で、どのようなかかわりをイメージしているのですか?
森田療法の会で、僕が確認行為に苦しんでいたころの体験を話したら、子どもの不登校で悩んでいるお母さんから感謝をされたんです。自分の経験が役に立つことがある、ということがわかりました。普通に大学に行って就職していたらわからなかったことだと思います。
ひきこもっている子どもの気持ちなら、他の人よりもわかる自信があります。だから似たような場所で、ボランティアみたいに役立つことはできると思うんです。
人の役にたちたい、そういうことによって僕の苦しかった経験が生きてくる、そう考えるようになりました。
その「普通」の世間の人たちのことは、もう気にならないのでしょうか?
もちろん今でも世間の目は気になりますし、負い目を感じてしまうことはよくあります。親に「同学年の子たちは今年〇〇をしている」などと言われますから、どうしても・・・・。
でも森田の会で「他人と比べず、過去の自分と比べてどこが成長したかを考えなさい」と言われて、すごく楽になりました。自分が成長していればいいんじゃないか、と考えられるようになったんです。普通に就職していくのも、その人たちの行き方でしょう。
でも僕は僕で昔とは違って、平気で電車に乗れるようになったし、電話に出られるようにもなりましたし・・・・。家にひきこもっていたころ、僕は自分が社会に忘れ去られる恐怖感を感じていました。
皆からとり残されてしまったんじゃないかという・・・・。だから会に来る親御さんには「まずは親が焦らないでください」と言っています。
ひきこもりの最中、僕は友人からの電話にも出られなかったので、かかってくる電話はだんだんと減っていきました。でもひとりの友達だけは、手紙をときどき送ってくれていました。僕が返事を書かないのにひとりだけ、年賀状を毎年くれたんです。
忘れ去られるという恐怖の中で、その手紙には「忘れないでいてくれるんだ」と非常に励まされました。解決にはならなくとも、恐怖をやわらげてくれました。
今、親御さんには、どういう気持ちを持っていますか?
ひきこもっている状態を「病気だ」と言って片付けてしまったらそれで終わりです。だから、わからなくともわかろうとしてくれた母には感謝しています。僕が今、生きているのは母親のおかげだと思うし、母親が死ぬまで僕はちゃんと看取ろうと思います。
それをしても、僕が母親に対して行った罪悪の一万分の一も返せないですけど・・・。一生孝行をして老後におしめを代えてあげたとしても、僕がした悪さは償えません。
僕は地獄行きです。自分のことはあきらめています。でも母だけは・・・・。このように語ったところで、Bさんは涙を流し始め、ティッシュペーパーを取り出して両目をぬぐいました。
彼の口にした「地獄行き」という言葉はわたしに、母親が年表に記していた「地獄の苦しみ」という言葉を思い起こさせました。わたしはそれまで、彼がこのように感情をあらわにするとは思っていませんでした。
インタビュー中に彼が初めて見せた、感情らしい感情だったと思います。その涙は、自らのために親を犠牲にしてしまったと感じる者たちが背負わされる「罪悪感」の深さを、わたしに印象づけました。
精神科医療を含む「援助」のことについて、どう考えていますか?
たとえば高校2、3年の頃なら、もし森田の会の存在を教えられても僕は行かなかったと思います。無駄なような十年間ではあったけれど、そこで何かが変わっていたということです。ものごとには時期があるのだろうと思います。
近頃、母子密着とか共依存とかいう言葉で、ある種の親子関係が問題視されています。こうした問題をどう思いますか?
密着とひと言で言っても、いろいろなパターンがあるのだろうと思います。マザコンみたいに自分のすべき決断までを親に依存するケースもあるでしょう。僕の場合は親は確認行為を手助けしてもらったり、話し相手であったり、ぶつかる相手であったりしました。
これも母子密着だろうとは思います。昔、新潟で起きた少女監禁事件の容疑者と母親が母子密着で共依存状態にあったと言われていますが、あの場合は・・・・難しいですね。ただ僕は、監禁という犯罪行為と母子密着とは分けて考えるべきだろうと思います。
Bさんの場合、最も信頼できる人は誰でしたか?
一番は母親でした。僕は母親によって助けられたと思っています。ひきこもっている最中も、僕は母に信頼されているのを実感していました。
ひとりでもそういう人がいたから救われました。もし、警察を呼ばれたり、無理に入院させられたりしていたら、信頼感を保てなかったと思います。
有名な「蜘蛛の糸」の話に例えると、お釈迦様の糸を母が握っていて、僕が上にたどり着くまで離さないでいてくれた・・・・・そういう感じです。
ただ、他の家庭で親御さんが警察を呼んだり入院の手段をとったり暴力から避難したりすることまで、僕は批判できません。なぜならケース・バイ・ケースだと思うからです。最近両親から時々、「あんたは戦友だから・・・・」と言われます。僕もそんな感じがしています。
ひきこもりに対して注がれる社会の視線についてはどう思いますか?
社会的な関心が高まることは、すごく大事なことだと思います。僕らのころは、「ひきこもり」という言葉自体がありませんでしたから・・・・。
ただ同時に、偏見も生まれてくるでしょうね。重要なのは、その子が抱えている重荷をどう解消してやれるかだと思います。社会の人たちの認識が変わってくれたら、と願っています。・・・・僕自身、ひきこもっているときはお先真っ暗で、死ぬことを考えていました。
どうやって死ぬかを・・・・。首を吊ったら苦しいかな、ガスを吸ったら苦しいかな、と。高校時代には学校の屋上から何度も下を見ました。今だから整理できることがあります。
ひきこもっている最中の僕はまったく整理をつけられませんでした。何が何だかわからず、ただお先真っ暗で、死ぬことばかりを考えていました。
「あの当時なぜ、今のような考え方ができなかったのか」と言われてしまうかもしれませんけど、無理でした。当時は、あれが精一杯でした。
ひきこもりは障害・ハンディだと考えますか?
社会の側が二十歳前後でしか受け入れていない現実を改めるべきだと思います。能力しだいで三十歳でも採用するとか・・・・。ひきこもりの人がどこまで甘えていいのかという問題もあるのでしょうが、公的な援助は要ると思います。
もちろん過度に援助を要求するのはおかしいし、自分で努力できることについては努力すべきだと思います。けれども立ち直るきっかけを与えるとか、森田療法の会のような場所を設けるとか、そういう人たちの働ける場所を作るとか、そういう援助は必要だと思うんです。
ただ、ひきこもりの人イコール障害者ではないでしょう。障害という言葉は、ひきこもりの実情と合わない気がします。援助を用意するにしても、障害ではない呼び名を考えて進めるのがいいのではないでしょうか。
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