触れ合いたいのに触れ合えない
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触れ合いたいのに触れ合えない

わたしは関東自立就労支援センターでひきこもりや不登校、ニートの子ども、若者、その親たちの相談に関わるようになって、かれこれ20年になります。

 

 

 

 

この活動を通じてずっと思い知らされてきたのは、人間関係を結ぶことに対する脆弱さと、それについての悩みの多さです。

 

 

 

 

しかも、この傾向は、1965年(昭和40年)以降に誕生した子どもたちから年を追うごとに顕著になってきています。

 

 

 

 

センターに来所する子どもたちや若者たちが共通して訴える悩みは、人との関係を強制されるとつらい、どうやっていいかわからない、相手が信じられないというものです。

 

 

 

 

自室にひきこもると否とにかかわらず、彼らのコミュニケーション法はいつも一方通行です。

 

 

 

 

そして、「せめぎあって、折り合って、お互いさま」とか、「けんかして仲直り」がイメージできないといいます。

 

 

 

 

けんか即決裂で、自分の意見を譲ることが、まるで自分自身の否定を意味しているとでも考えているようです。

 

 

 

 

ですから、対立が怖くて、いつの間にか集団の場を回避するようになります。

 

 

 

 

しかし、「けんかして仲直り」するという営みを通して、わたしたちは人間関係を修復する能力を身につけ、人に対するやさしさ、いつくしみなどの情緒を育てていくのではないでしょうか。

 

 

 

 

人は人なくしては生きていけない宿命を背負っています。とはいえ、新たな関係を築くまでには、たしかにわずらわしさがともなうものです。

 

 

 

 

とくに、昭和40年代以降の核家族化傾向のなかで育ち、ひとりでいることに慣れてきた子どもたちには、それは苦手なことかもしれません。

 

 

 

 

しかし、そうしたわずらわしさに堪えることが、生きる力の獲得につながっていくのだと思います。

 

 

 

 

「つらい」とは、自分の思い通りにいかず、受け身の人間関係が絶たれたときの苦しみであり、「わからない」のは、そのときのコミュニケーション・スキル(対人技術)、相手との距離感であり、そして、「信じられない」のは、それを回避(自己防衛)するために、意に反して関係性を絶ち、孤立の選択を余儀なくされていることに対する周囲の無理解です。

 

 

 

 

人の輪の中でどう生きたらいいかわからず、ふれあいたいのにふれあえないと呻吟する心の葛藤が、ひきこもりという現象となってあらわれます。

 

 

 

 

人間関係の希薄化が、相互補完的なコミュニケーションの不全を招来します。相談にやってきたある若者は、こんなふうに言っていました。

 

 

 

 

「人間関係が社会のシステムに組み込まれ、当たり前に身につけられた時代は終わり、自分たちはそれを学んで身につけていかなければならない時代に生まれました。

 

 

 

 

それにもかかわらず、そのチャンスを親の世代から与えてもらえずに育ってしまいました。

 

 

 

 

学ぶとは、話すことではなく、学力をつけることだとばかり思い込んできました」

 

 

 

 

心の教育とは、心と心の交流の中で行われるものです。しかし、戦後、互いに絡み合い、相手の気持ちを推し量るというコミュニケーション・ワークを、親の世代はきちんとわが子に継承してきたのでしょうか。

 

 

 

 

サブカルチャーの世界に浮遊することでつくられてきた子ども文化とは、いったいなんだったのでしょうか。

 

 

 

 

わたしたちは、団塊の世代を中心に、1945年(昭和20年)以前に戻すまいとするあまり、教科書だけではなく人間関係にまで墨を塗ってしまったのではないでしょうか。

 

 

 

 

「コンピュータはイエスとノーの二つしかないのが好き。人間社会は答えが正しいのか間違っているのか二分できないところが嫌い。

 

 

 

 

0と1だけで進行するパソコンをやってて曖昧なものを許せない完璧主義者になったみたい」(14歳・心の風景・NHK出版)

 

 

 

 

こんなふうに考えるごく普通の子どもたちが、「間」がとれない人間関係にむかつき、ときにキレたりして、関係性を確立、維持できないでいます。

 

 

 

 

地縁、血縁という、かつてのべたついた人間関係をなつかしむつもりはありません。

 

 

 

 

しかし、人間関係にはわずらわしさがつきもので、1か0かというように、何もかもがすっきりとはいかないものであるはずです。

 

 

 

 

わたしたちひとりひとりは孤立した無縁な存在ではありません。人間は生まれたときからひとり立ちできるような能力はもってはいないのです。

 

 

 

 

プリクラ、ゲーム、スマホ、インターネット・・・・・子どもたちのまわりには、さまざまなものが氾濫しています。

 

 

 

 

現代の子どもたちを理解するためには、こうしたどちらかというと生身でぶつかり合う人間関係ではなく、「サブカルチャー」の海に、わたしたち大人も漕ぎ出していかなければならないのでしょう。

 

 

 

 

そうしないと、子どもとの距離はますます離れていくと指摘する人もいます。

 

 

 

 

ある現場の教師は、サブカルチャーの世界に遊ぶ子どもたちが「異界」なのではなく、学校のほうが「異界」になっているのではないかと嘆いています。

 

 

 

 

友達とうまく遊べないという最近の子どもたちの傾向も、このサブカルチャーに関係があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

今日の学校教育では、社会的スキル(対人技術)をまったく教えていないという指摘は、わたしたちもよく考えてみる必要がありそうです。

 

 

 

 

友達関係の希薄化は、子どもをますますひとりにしていきます。その結果、友達同士がぶつかりあって、人間関係のルールを習得していくという機会も当然少なくなっていきます。

 

 

 

 

「友達と仲良く遊ぶ」ことを習得するためには、それに必要な技術、たとえば、仲間に入れてもらうときの入り方、言葉のかけ方というものがあります。

 

 

 

 

宮崎大学の高山巌氏は、それを具体的に子どもたちに示し、実際の動作も含めたロールプレーのかたちで実践させることを提唱されています。

 

 

 

 

それを、練習仲間みんなでフィードバックさせます。そして、この練習である程度習得されたものを、今度は実際場面で使うように宿題として出します。

 

 

 

 

その結果を次の練習場面で報告し、修正すべきところをみんなでまた練習するという手順を踏みながら、習得していくというわけです。

 

 

 

 

「僕はどうしてこんなに神経質な人間に生まれたんだろう。もっと鈍感な人間ならよかったのに」

 

 

 

 

関東自立就労支援センターの相談室を訪れたある若者が、こうつぶやきました。

 

 

 

 

自分の決めた道を歩もうと思っても、まわりのことが気になって、ふりまわされてしまうんです。

 

 

 

 

どうして他の人は、人の言うことや態度が気にならないのでしょうか。気にしなければ、僕も自分の道を歩んでいけるんですけどね」

 

 

 

 

20代後半になって、なお職が定まらないわが身に対するくやしさがにじみ出ていました。

 

 

 

 

まわり何が気になるかというと、目です。つまり、自分に対する周囲の評価が気になって、自分の思い通りに生きられないというのです。

 

 

 

 

これはある意味で、偏差値教育のつけかもしれません。彼は、失敗したり過ちをおかしたりして自分の弱点をさらけ出すこと、それを指摘されることに、極端な不安を抱いている様子です。

 

 

 

 

そして、その不安を打ち消すために、どうしてもものごとを慎重に考えすぎて、石橋を叩いて渡るような行動しかとれません。

 

 

 

 

誰からもうしろ指をさされないように生きようとしますが、完璧を期そうとすればするほどかえって身動きがとれなくなり、結局は、その集団からドロップアウトしてしまいます。

 

 

 

 

踏み出して人と触れ合うためには、いつも防衛的な鎧を身につけているわけにはいきません。

 

 

 

 

ときには、相手を傷つけるリスクも背負わなければなりません。「ずいぶんお疲れのようですね。

 

 

 

 

そのうえ、また僕と面接では、申し訳ないです。僕は他の日でもいいんですよ」

 

 

 

 

やせ型で背の高いAさん(23歳)は、ソファに体をあずけたまま話しかけるわたしに、戸惑いながら言いました。

 

 

 

 

実際、そのときのわたしはかなり疲れがたまった状態でした。わたしは恐縮し、思わず背筋を伸ばしました。

 

 

 

 

「いや、大丈夫ですよ。心配かけてごめんね」すると、彼はすかさず、「それじゃあ、かえって僕が心配かけちゃったみたいですみません」。

 

 

 

 

彼の丁寧さが、わたしにはなんとなく耳障りに感じられました。「心配をかけちゃったなんて言われると、こっちにすべての判断があずけられたような気がして、困ってしまうよ」

 

 

 

 

彼の言葉が耳障りに感じられたのは、人間関係を作っているようでいて、相手を傷つけるリスクを負っていなかったからです。

 

 

 

 

控えめで奥ゆかしいものごしや言葉は、ときに相手の心をとまどわせることがあります。

 

 

 

 

そうした受け身の体勢をつくっておけば、どっちに転んでも自らの責任を回避できます。

 

 

 

 

換言すれば、主体的に責任を引き受けていく態度になっていません。それは、自己防衛のために、相手との間に壁をつくることにほかなりません。

 

 

 

 

ひきこもる若者も、この状態をつくろうとすることが多いです。この壁が厚みを増してくると、ニヒルになるしか身の置き所がなくなっていくのです。

 

 

 

 

Aさんには、心の底から人を求めながらも、ほんとうに受け入れてもらえるだろうかという不安が常につきまとっていました。

 

 

 

 

ですから、必ず受け入れてもらえるという確信がもてるまでは遠慮がちにしゃべり、相手の判断と出方を待つのです。

 

 

 

 

相手が受け入れてくれれば、「わたしはどっちでもよかったが、あなたが選んでくれた」と言えるし、拒絶された場合は、「あなたはそういう関係の中でしかわたしを見ていなかったんですね」と言えます。

 

 

 

 

いずれにしても、相手に対して自分を優位に持っていけます。しかし、このやり方では、友達をつくることはできません。

 

 

 

 

「一人称」の会話ともわたしは呼んでいます。「僕には先生が宇宙人のように見えます。

 

 

 

 

いつだって、いろいろなタイプの人と気軽に親しく話せるでしょう。初対面なのに、いきなりよろしくと言って握手を求めてきたときにはびっくりしました。

 

 

 

 

相手の素性や性格がわからない段階で、よく近づけますね。小さいときからそんな調子だったんですか。

 

 

 

 

失礼な言い方かもしれませんが、ぼくもそういうノーテンキな人間になりたいですね」

 

 

 

 

Aさんは申し訳なさそうにそう言いながら、視線を膝元に落としました。そんな彼の様子を見ながら、わたしは小学校時代の自分のことを思い出していました。

 

 

 

 

小学校の高学年のころ、まわりのクラスメートがすらすらと本を読み、しかもだいたいの内容を理解しているのを見て、自分の読解力の低さに落胆しました。

 

 

 

 

わたしは一つひとつの言葉を正確に頭に入れてからでないと、先に読み進めませんでした。

 

 

 

 

そのため、黙読をさせられたりすると、人よりずっと時間がかかりました。全田尾の進行から遅れるし、疲れるため、中学生になったころには、本読みが大嫌いになりました。

 

 

 

 

それに対し、自由作文は自分の思ったこと、心に浮かんだことを書くだけだから、後戻りする必要がなく、すらすらと先に進むことができました。

 

 

 

 

Aさんの場合、いつも相手の判断を推し量りながらでないと、先に進めません。

 

 

 

 

そんなふうに行きつ戻りつばかりしているため、人間関係をつくるのにとても疲れてしまうのです。

 

 

 

 

「あなたはとても心が細やかだね。一人っ子だったわたしも、両親がよくけんかばかりしていたので、ことを荒立てないように、その場の雰囲気づくりにはいつも気をつかい、神経をすり減らしていたよ。

 

 

 

 

だから、見た目ほどノーテンキでもないんだけどね。ただ、母の行き方から、誠実にやっていれば、あとは野となれ山となれ」という姿勢を身につけていったのかもしれないね。

 

 

 

 

でも絶対的な誠実というのは無理で、自分なりの誠意であって、場合によっては相手に悪意にとられることもあるかもしれないね」

 

 

 

 

Aさんはわたしの子ども時代の話を聞きながら、しだいに表情を和らげていきました。

 

 

 

 

「僕みたいな境遇の人間はいないと思っていたんですが、みんなわりとややこしい生き方をしているんですね。

 

 

 

 

少しは安心しました」彼の父親はよく癇癪を起こす人で、小学生の頃から、父親が酒を飲んでは母親に暴力をふるうシーンを何度も見てきたといいます。

 

 

 

 

「母は子どもの前ではやめてくださいと訴えつつ、僕や妹を抱きかかえて、ごめんね、ごめんね、心配しなくていいからねとしきりに謝るんです。

 

 

 

 

そんな父なのに、日曜日にはハイキングに連れて行ってくれたり、一夜明けると、やさしい父親に変身したりすることも多く、僕は父の機嫌をうかがいながら、いつもビクビクしていました。

 

 

 

 

父に説教されるときも怖かったです。そこに座れと言われ、一方的に叱られて、終わったと思って立ち上がろうとすると、まだ話は終わっていないと怒鳴りつけられました。

 

 

 

 

そんな父に母は愚痴ひとつ言わず、近所の人と適当に仲良くし、後ろ指をさされないように付き合っていました。

 

 

 

 

僕には母が強い人なのか弱い人なのか、よくわかりませんでした」

 

 

 

 

Aさんはいかにもくやしそうに体を揺すって話しきると、また肩を落とし、遠慮深くなりました。

 

 

 

 

石橋を叩いて渡る慎重さも、度を越すと、渡る自分の足さえ信じられなくなり、結局は、何もできなくなってしまいます。

 

 

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