ひきこもる子どもたち~家庭訪問での出来事~
ホーム > ひきこもる子どもたち~家庭訪問での出来事~

ひきこもる子どもたち~家庭訪問での出来事~

不登校(登校拒否)、高校中退、いじめ、就職拒否をきっかけに人とのコミュニケーションのとり方に悩み、人間関係を遮断し「ひきこもり」続ける若者たちと接してきて、はや20年が経過しました。

 

 

 

 

 

ひきこもりを引き起こす最大の原因は、「けんかして仲直り」というコミュニケーションがどう育ってきたかの希薄さでした。それが精神面に及ぼす人間関係の修復能力の乏しさ、自己肯定感の欠如がひきこもりにつながるケースが多いのです。

 

 

 

 

 

それらによって、コミュニケーション不全の生活を余儀なくされていき、子どもを母親が肯定することが父性喪失のなかで裏目に出て、母子密着という悲劇を生み出してもいます。

 

 

 

 

 

最近では「ひきこもり」という言葉も独り歩きしている気もします。わたしが、このようなひきこもる若者たちと出会いを重ねていくうえで原点ともなった、ある家族との関わりの日々を紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

ひきこもる子どもたちとの出会いの多くは、家庭訪問に始まります。ある時は歓迎されますが、普通は子どもからの拒絶で幕を開けます。

 

 

 

 

 

もちろん、拒絶は本心ではありません。何とか家族以外の人とコミュニケーションをとって、社会の構成員の一人として自立したい、そのきっかけをつかみたいと子どもたちは思っています。

 

 

 

 

 

しかし、そのきっかけづくりになる親と子の心が、かみ合わないのです。親の第三者への働きかけが押しつけに思えたり、これまでの子育ての責任放棄に思えてしまいます。

 

 

 

 

 

「自分たちの(家族づくりの)いい加減さの後始末を、他人に任せるな」と、ある少年が面接室で父親に蹴りを入れながら訴えたことがありましたが、その心情が訪問するわたしへの抵抗となります。

 

 

 

 

 

「親の回し者」と呼ばれたこともありました。わたしはできる限り自然な出会いにこだわり続けて、ひきこもる子どもたちを訪ねました。

 

 

 

 

 

A君とも、そんな緊張した中での出会いでした。

 

 

 

 

 

「ごぶさたしております。とてもお忙しそうですね。今日から息子も社会人となりました。アルバイトから、社会保険を受け、税金を払い働ける正社員の身となりました。

 

 

 

 

 

まだ、多少の不安もありますが、息子を信じて見守っていきたいと思います。いろいろご迷惑をおかけした時期が嘘のようです。お身体に気をつけてください」

 

 

 

 

 

今年、27歳になるA君のお母さんからの電話です。ひとつの区切りをつけた安堵感と、社会との接点を持ちにくい苦悩から必ずしも「卒業」しきれない息子さんへの一抹の不安を抱えた母親の喜びと、いつまでもつきることのない親の不安から「卒業」できない母親自身の気持ちが伝わってきます。

 

 

 

 

 

A君と出会って、十数年になります。多くのひきこもる子どもたちにめぐり合う家庭訪問を続けてきました。その中から、ごく普通の少年であったA君が、父親の転勤を機にひきこもり、そして再び「ごく普通の青年」になることを願い、あるフリースペースにたどり着くまでを、ここではお話したいと思います。

 

 

 

 

 

これは家庭訪問を通して、ひきこもるA君から学んだわたしの感謝のお話です。

 

 

 

 

 

大阪で楽しい小学校生活を送っていたA君は、六年生の年末に突然父親から「来年、東京へ転勤することになった。大阪での生活もあとわずかだ。

 

 

 

 

 

みんなと思いっきり別れを楽しんでこい。いきなり中学校で転勤するよりも、六年の三学期を東京で過ごせば早めに友だちもできて、生活にもすぐに慣れるだろう」と言われました。

 

 

 

 

 

喜びに満ちた親、日ごろ口数の少ない父親の生き生きとした話しぶりにA君は言い返す術がありませんでした。

 

 

 

 

 

小三の弟は、素直な気持ちとして寂しい気持ちを母親に訴えていたといいます。

 

 

 

 

 

母親は子どもたちの気持ちは理解しながらも、「長かった大阪での生活から、本社勤務の東京へ再び戻ることは夫はもちろんのこと、家族にとっても栄転だと思った。

 

 

 

 

 

さらに、夫一人の給与に頼って生活してきたことを考えたとき、夫の意思に反することは言えなかった」ようです。

 

 

 

 

 

「家族いっしょにこの栄転の喜びを東京にもっていって新しい年を迎えたい」との夫の気持ちの前に「Aが卒業するまでは単身赴任してください」とは言えませんでした。

 

 

 

 

 

A君は、友だちとの別れの日が近づくにつれて、ケンカしてきた友だちとのことも「忘れられないよい思い出」となり、「大阪の生活はすべて楽しかった」という心境になったといいます。

 

 

 

 

 

それを父親の「勝手な転勤」で失ってしまうことに、父親への憎しみさえ抱きました。そして、A君にとってこだわりともなったのは、「日頃から口数の少ない父親が言うことは、成績に対する評価だけで後は何も話してくれなかった。

 

 

 

 

 

僕が何かを話そうとしても、疲れた顔を見せるだけだった。成績以外は僕のことについて、無関心に思えた。父が僕のことをどう思っているのか知りたかった。

 

 

 

 

 

いや、何も思っていなかったのかもしれない。転勤の話だってもっと早く言ってくれたらよかった。いつも自分だけで決めてしまうんだ」という父親への不満でした。

 

 

 

 

 

社宅に住む身で、「転勤は辞令がおりるまでは子どもには言えなかった。子どもがうっかり話してしまうことが不安だった」と両親はその時の複雑な気持ちを語ります。

 

 

 

 

 

東京での生活はA君にとって「すべてつまらなかった」ようです。いつも大阪の友だちと比べてしまい、自分と気の合う友だちはできなかったと言っています。

 

 

 

 

 

「つまらないことかもしれませんが、大阪弁がないことが寂しく、そしてその方言を使ってしまうことで、自分だけ特別な人間に思えてきました」といいます。

 

 

 

 

 

落ち着かないうちに小学校を卒業し、中学に入学しました。A君は重い気持ちをひきずるように登校しました。カバンの重さで肩がとれてしまいそうな感じがし、時々カバンを放ってしまいたいような気に襲われました。

 

 

 

 

 

テニス部で流す汗も、勉強で得た成績にも満足感はありませんでした。父親は大阪の時よりもさらに多忙となり、帰宅するのは毎日深夜で、母親が車で駅に迎えに行く姿も疲れていました。中二の六月、A君は三年の先輩からこづかいをせびられました。

 

 

 

 

 

「貸してくれよ」という言い方と、多少の威圧感から千円を渡してしまいました。渡さないことでの先輩とのトラブルも避けたかったのです。

 

 

 

 

 

二週間後、今度は他の先輩がA君にお金をせがみました。この頃には、彼自身「口数が少ない」少年になっていました。何をどのように話したら相手に自分の気持ちをわかってもらえるのか、そのことにとても神経をつかうようになっていました。

 

 

 

 

 

母親はその変化を「大人」への成長段階のひとつと見ていて、あまり気にしていませんでした。理不尽な先輩からの行為は止まりませんでした。

 

 

 

 

 

A君は母親の財布に手を出しました。そのときのことを彼は、「夢遊病」のようだったと表現しました。母親が夕食の準備をしているその背で、「万引き」してしまいました。

 

 

 

 

 

まるで「見つかってほしい」といわんばかりでした。母親はその事態に驚き、冷静さを失って一喝しました。A君は夢からさめました。

 

 

 

 

 

自分の行為に身のおきどころを失ったA君は、自分の部屋に逃げ込みました。母親はこの時、「専業主婦として子育てを任されてきた自分」の十数年間が崩れるように感じたといいます。

 

 

 

 

 

そして小さい頃から素直に優しく育ってきたA君の顔が浮かんでは消えていきました。しばらくして、「何かが息子にあった」と察した母親はA君の部屋に行きました。

 

 

 

 

 

父親の転勤に伴う東京の生活が、A君にとっては大阪への「こだわり」になっていたことに、両親は気づきませんでした。事あるごとにA君は「関東の言葉は冷たい」「甲子園に行けなくなった」「東京の塾じゃ、阪大にも関学にも入れない」と言っていました。

 

 

 

 

 

母親は寂しさ、懐かしさの表現の一つとして受けとめ、「そのうちに友だちができれば変わるだろう」と聞き流していました。

 

 

 

 

 

父親はA君と話す時間もあまりありませんでしたが、時々母親を通してA君のそんな気持ちを知っていました。しかし、転居して一年以上も経って、「まだそんなことを言っていることに腹が立っていた」ようです。

 

 

 

 

 

「大阪にいる時はほとんど甲子園に行かないで、東京に来てそんなことを言って困らせているだけだ。そんなに甲子園に行きたければ、新幹線に乗ればすぐだ。

 

 

 

 

 

東京の塾が嫌なら、長期の夏期講習で大阪に行けばいいだろう」と言い返すのみでした。A君の「被害者意識」は肥大化していきました。

 

 

 

 

 

母親の財布に手を出したのはそんなときでもありました。A君と弟の部屋は二階にありました。弟は小学校のクラブ活動からまだ帰ってきてはいませんでした。

 

 

 

 

 

「A、どうしたの?何かあったんでしょう。入るよ」母親は冷静さを取り戻そうと必死でした。「もしドアを閉められていたらどうしよう」、そんな不安な気持ちが涙となってこみ上げてきました。

 

 

 

 

 

もう一度尋ねました。「入ってもいいね」返事はありませんでした。日頃はしたこともないノックを、たどたどしくもしないでは入れないほど、母親はA君との関わりに戸惑っていました。

 

 

 

 

 

ひと呼吸おいてドアに手をかけ引きました。ドアには何の抵抗もありませんでした。母親は安堵しました。部屋もいつもと変わらず整理されていました。

 

 

 

 

 

その時「何かまだ会話できる、つながれる、という希望がある」と母親は思ったといいます。A君はベッドに倒れこむようになって寝ていました。

 

 

 

 

 

母親は「万引き」のことを何も聞くまいと思いました。ただ、これまで一人寂しく大阪のことを思い出しては悲しんでいたA君の気持ちを「いたわりたいという純粋な気持ち」でA君の背に手をかけました。

 

 

 

 

 

その時でした。「俺に触るな!」とすべての感情を絞り込むような声でA君は絶叫しました。青白い顔、額にすべての神経を集中させているかのように、シワを寄せていました。

 

 

 

 

 

そのA君の形相は、母親にとって生まれて初めて見る「恐ろしい」ものでした。「すべはおまえたちが悪いんだ。もう何もかも終わりだ。出て行け!」

 

 

 

 

 

A君は泣きながら母親に、机の上にあった教科書を「急所をはずして」投げつけました。「ひと言何かを言おうと思ったが、声が出なかった」と母親はその時の様子を語ります。

 

 

 

 

 

部屋の中央にかけてある額縁に入った写真が、その時の光景を思い出すたびに脳裏に焼きついて離れないといいます。

 

 

 

 

 

大阪の道頓堀で食事した後、写した親子四人の笑顔の写真です。

 

 

 

 

 

A君は母親を部屋から追い出すと、「もうすべてはメチャクチャ。自分の味方は一人もいない。これからどうしていったらいいのか」と茫然自失の状態となり、ベッドの上に仰向けになってそのうちに何時間も眠り続けたといいます。

 

 

 

 

 

母親は全身の力が抜けていく感じがしました。階段を降りながら、「夫に今すぐ電話したいという気持ちと、わかってもらえないだろうという失望と、これからどうしたらいいのだろう」といういろいろな思いが入り交じって、「孤独」な感情とともに「平和」だと思っていた家庭が崩壊していく予感を持ちました。

 

 

 

 

 

下校した弟に、「お兄ちゃんはちょっと疲れているの」塾のテキストを取りに行けないこともあって、部屋に入れない事情を母親は、「今日は塾を休んで、友だちのところで遊んできて」と頼みました。

 

 

 

 

 

弟は正確には事情を飲み込めませんでしたが、これまでのA君の元気のなさを知っていたこともあり、曖昧ななかで理解し、母親の気持ちを察しました。

 

 

 

 

 

父親の帰宅はその日もいつもどおり遅かったです。「本当につらかった。心を閉じた息子と、明るさをふるまいお笑い番組で気を紛らわす弟を見ていて、『いっそのこと』とお台所の刃物に目がいってしまいました。

 

 

 

 

 

そして夫が無責任に思えてきたんです。わたしだけが親ではない。こんな苦しい思いをどうしてわたしだけが背負うのか」

 

 

 

 

 

心の中で夫への「夫婦の絆」と「なぜこうも毎晩遅いのかという不信」が消えてはまた憎しみとなって燃えました。そして一方で、子どもの育て方は「母親の責任」と自らを責めていきました。

 

 

 

 

 

 

「父親の転勤によって僕の歯車はかみ合わなくなった。何もかもが裏目となった」小六に体験した大阪から東京への突然の転校は「もう一度ゼロから仲間づくりをし、自分のアイデンティティを確立するというしんどさ」がA君にはあったといいます。

 

 

 

 

 

そして、その「しんどさ」が、新しい集団へなかなか馴染めない環境を作り「孤立感」を増幅させることになっていきました。

 

 

 

 

 

中二の六月にたてつづけに狙われた三年生からの「恐喝」、そして困り果てた末、母親の財布に手をかけた「万引き」、すべて、自分の意思とは別の方向にことは進んでいってしまったのです。

 

 

 

 

 

そんな時、自分をなぐさめ、「俺が悪いんじゃない。すべては父親の転勤が悪かったんだ」と思うしか、他に自分を正当化できる方法がなかったといいます。

 

 

 

 

 

「被害者意識を持つことが、僕には必要だった」と二十七歳の今、A君はその当時を振り返ります。

 

 

 

 

 

母親の財布に「夢遊病」のように手をかけたA君が、その場から消えるように弟と二人で使う子ども部屋に入ってから、もう十時間がたとうとしていた夜中、いつものように父親から電話がかかってきました。

 

 

 

 

 

台所のテーブルに体を伏せ、夫の帰宅を待ちわび、消沈しきっていた母親にはもうその時、夫への期待はなかばなくなっていました。

 

 

 

 

 

「体調が悪くて寝ているから、タクシーで帰ってきてください」とひと言話すなり電話を切りました。

 

 

 

 

 

茶の間でうたた寝していた小五の弟が、不安を隠すように微笑み、舌をチョコッと出す様子も、母親には痛々しく感じました。

 

 

 

 

 

いつもはどんなに体調が悪くても、遅くても、母親は父親を駅まで迎えに行っていました。そうした日常の自然な営みに変化が起きた時、家族の中でいちばん弱い立場にいる人間に不安が起こります。

 

 

 

 

 

自分の力ではどうすることもできないうねりを感じながらも、笑顔を取り繕おうと努力する弟です。その気持ちがわかるだけに、「Aと弟の間に入って、自分がどうしたらよいかそればかり悩んでいた」と後日母親は話してくれました。

 

 

 

 

 

何かがあると疑問と不安を持ちながら、父親は帰宅しました。そして何となく冷静になろうとする自分を不思議に感じたといいます。

 

 

 

 

 

自宅に到着し、タクシーから降りて二階を見ると子どもたちの部屋は真っ暗でした。いつもは深夜の一時ぐらいまで明るかったのです。

 

 

 

 

 

「どうした、何かあったのか」といたわるように母親に声をかけました。「わたしは疲れきってしまったわ。毎日毎日遅く帰ってきて、どこへ行っているの?」

 

 

 

 

 

もうここ一~二年、会社の帰りはお酒が入って帰るというパターンになっていました。母親は父親に今日のこと、そしてこれまでのA君の変化について話しました。

 

 

 

 

 

話がひと通りすむと、父親は二階の子ども部屋に入りました。「何があったんだ。転校でおまえの辛い気持ちはわかるが、もう二年も前のことじゃないか。

 

 

 

 

 

それに、友だちに会いたければいつでも大阪に行ってもいいと言ってるじゃないか。それからA、お母さんに教科書を投げたりして暴力を振るうようなことはやめてくれ」

 

 

 

 

 

父親は、どうしても説教になる自分を抑えて、努めて親しみを込めて語りかけました。動きもなく、布団の中に入っているA君からの返事は何もありませんでした。

 

 

 

 

 

父親は何回かA君に真意を尋ねましたが「無力」でした。父親は懇願した分だけ苛立ちも増したといいます。お酒の勢いと父親への反抗心が許せず、冷静さはそれ以上保てませんでした。

 

 

 

 

 

「甘えるのもいいかげんにしろ!」と言うなり布団を剥ぎました。そのとたんA君は、手に隠し持っていた文具用カッターナイフを父親に向けました。

 

 

 

 

 

震える手で、「てめえは人間じゃねえ、出て行け!」と詰め寄りました。なぜA君がカッターを持っていたのか、今もって本人もわからないのですが、「恐ろしさ」と「死にたい」という心境であったらしいです。

 

 

 

 

 

危険を感じた父親は「冷静になったら話し合おう」と言って部屋を出て行きました。心配顔の母親と弟、うなだれ二階から降りてくる父親を見ながら、母親は再び「夫婦であること」を感じていました。

 

 

 

 

 

自信なく近づいてくる姿が、夫の正直さに思えたからです。とりあえず、その夜は弟も一階の両親の部屋で寝ることにしました。時間はすでに深夜の三時近くになっていました。

 

 

 

 

 

翌朝、A君は一階に降りてきませんでした。弟は授業の支度もあって、二階の兄の寝る自分たちの部屋に入ろうとしました。

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、起きてる?教科書を取りにきたんだよ。入るよ」そう言ってドアに手をかけました。予想は的中しました。ドアには鍵はかかっていませんでしたが、何かで押さえてあったようで開きませんでした。

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、開けてよ」と弟はドアを叩きました。事の成り行きを気にしていた父親と母親は「弟には関係のないことだ」との思いからA君に強く迫りました。

 

 

 

 

 

「A,いいかげんにしろ。ここはおまえだけの部屋じゃないんだ。開けなさい」力をかければドアは開けられると思いましたが、そこまではしたくないと父親は待ちました。

 

 

 

 

 

わずかな空白の時間の後、ドアは開きました。A君は弟の教科書、ノートをはじめとして机のまわりにあったものをすべて、部屋の外に出しました。

 

 

 

 

 

そのときは、無表情としか言いようのない顔だったといいます。母親はそれでも開けてくれたことに安堵しました。

 

 

 

 

 

「A,ごめんね、つらい思いをさせて」そう言うと母親はA君の後を追いました。弟の物を片づけるとA君は母親に向かって、「もういいんだ。一人にさせてくれ」と言うなり、部屋から母親を追い出しました。

 

 

 

 

 

ドアは閉められました。母親は泣き崩れました。そして三人とも、もうそのドアを開けようとはしませんでした。

 

 

 

 

 

翌日からA君は学校に行かなくなりました。二~三日は病欠と連絡しましたが、母親は学校に行けなくなった理由が知りたくて担任に電話をし、学校で何かがあったのではないかと聞きました。

 

 

 

 

 

しかし、はっきりしたことは何もわかりませんでした。学校に行けなくなった原因が「転勤であるはずがない、必ず原因は学校にある」、そう思って本人に聞いても、A君は何も言いませんでした。

 

 

 

 

 

その苦しさのあまり、母親はA君の友だちに電話をかけることにしました。何人かの話から、A君が三年の先輩たちから「たかり」にあっていたことが母親にも理解できました。

 

 

 

 

 

母親は部屋に閉じこもるA君に真相を尋ねましたが、やはりA君は何も答えませんでした。「お母さんは、もしそうだとしたらその子たちを許せない。先生にはっきりさせてもらいたい。

 

 

 

 

 

おまえが学校に行けないのも、その先輩たちからたかりにあうことが恐ろしいからでしょう」と母親は、A君に真実を明らかにするために担任に話そうと同意を求めましたが、返事はやはりありませんでした。

 

 

 

 

 

母親は父親にこのことを話しました。「やはりそうだったのか。それは、おびえているから母親にさえ何も言えなかったんだ。明日にでも僕のほうから担任に連絡をとってみよう」と言うなり父親は床につきました。

 

 

 

 

 

直接の原因が明らかになり、そしてその問題が学校にあったことで、父親は気が楽になったといいます。母親は担任に連絡するにあたって、A君の意思を確かめていないことでの一抹の不安はありましたが、「Aのためになること」と信じて父親の行動に期待をかけました。

 

 

 

 

 

ところが「ベクトルは思わぬ方向に進んだ」と父親は言います。一週間学校を休んだA君は、「月曜日になったらやり直してみよう。その日がよければ、きっとその次もいい日が続きそうな気がした」といいます。

 

 

 

 

 

月曜日にA君は登校しました。父親は前もって担任に話していたこともあり、この危機をなんとか乗り切れると思って見送りました。

 

 

 

 

 

問題は職員間の議題となり、先輩に生徒指導のおよびがかかりました。A君は親にチクッた(告げ口)人間として先輩のイキのかかったクラスの友だちから白眼視される羽目となりました。

 

 

 

 

 

もともと孤立していたA君にとってこの仕返しは耐えられませんでした。休憩時間にA君は同級生の一人から腹を蹴られました。それが先輩の命令であることも、その同級生の雰囲気から理解できました。

 

 

 

 

 

その場にいた生徒は、「また問題を起こすのか」といったわずらわしそうな目つきで事態を黙視していました。

 

 

 

 

 

クラスの中で比較的気の合っていた内気でおとなしい友人が、A君にささやきました。「土曜日におまえの父親と担任が会っていたらしいぜ」

 

 

 

 

 

A君は「親が何かを担任にチクッた」と思いました。「どこまで僕を苦しめるんだ」とA君はその場から立ち去っていきました。帰宅したA君は母親を問いただしました。

 

 

 

 

 

母親は自分の思いを込めながら経緯を説明しました。「どうしてそんなことをしたんだ。僕は僕なりに考えていたんだ。大人はみんな信用できない」と言うなり二階に上がっていきました。

 

 

 

 

 

その日を境にして、ほとんど会話らしい会話もない親子になりました。食事もなるべく家族でとる時間をはずして一人で食べるようになりました。

 

 

 

 

 

必要以上にリビングにいることもなく、自分の部屋で時間を過ごし、学校に通うこともなくなりました。そして家庭訪問に訪れる担任や友人とも会うことはありませんでした。

 

 

 

 

 

そのうちに誰も訪ねてくる人はいなくなりました。三年に進級した春、A君は「誰かが見ている」と時々言うようになりました。カーテンを閉めたり、時には日中でも雨戸を閉め、部屋に明かりをつけていることすらありました。

 

 

 

 

 

そして当時の様子を、「何か不安に襲われているような気持ちが、自分の心の深いところから湧いてくるようでした」と今、A君は振り返ります。

 

 

 

 

 

A君が母親に「どこかの病院に行って診てもらいたい」と言いだしたのは、あの学校での出来事から一年後の六月のことでした。A君は母親に連れてられて国立病院の精神科を訪ねました。

 

 

 

 

 

その頃、弟は私立の中学入試に向けて緊張しきっていました。「勉強部屋も与えられず、落ち着かないリビングで学習することが多かった。

 

 

 

 

 

そして両親は兄にばかり気を遣い、自分のほうには”合格”だけに関心があり、入試に対する孤独感をわかってもらえなかったような気がした。

 

 

 

 

 

特に母親が何かと兄のことばかり心配するので、『僕だって苦しいんだ』と言うようになっていた。そして兄が時々おかしなことをしたり、勝手なことをしだしたことで許せないと思うようになった」と弟は当時のことを思い返します。

 

 

 

 

 

弟はA君に対して、それまでのような「理解的態度」がとれなくなっていきました。それから数日後、インターネットでたまたま関東自立就労支援センターのホームページを見た母親が電話をかけてきて会うことになりました。

 

 

 

 

 

待ち合わせの喫茶店に入りました。母親はすぐにわかりました。若者向きの店は、楽しそうなカップルでいっぱいで、その中で一人疲れきった表情の母親がわたしには印象的でした。

 

 

 

 

 

A君のこれまでのこと、そして現在の生活ぶりが詳細に話されました。昼夜逆転から家族と食事を一緒にすることもなくなったこと、特に父親との関係が悪く、たまに会社を早く終えて帰ってくると、避けるように二階の自室に入ってしまうこと、日曜日などはほとんど一日中部屋にいて、家族の前に顔を出すこともなく、そのことを気にして「言葉かけ」を努力していた父親も今はあきらめてなかば「無関心」とも思えるようにA君について語ることがないことなど・・・・・・・。

 

 

 

 

 

A君と毎日向き合う母親は、子どもの将来を一身で背負っているようで、不安と孤独感の中で藁をもつかむ思いでした。

 

 

 

 

 

それに弟にも目をかけてやらなければ、「そのうちAのようになるのでは」という心配もありました。わたしは追いつめられた母親の言葉にうなずきながらも、A君が癒されるところは家族であり、そこへのこだわりをなくして「復学の方法」や「頼れる人」をいくら探しても、A君の気持ちを受け止めたことにはならないと話しました。

 

 

 

 

 

 

さらに、A君が癒される、とはどういうことなのか、それは「Aは悪くない。家族がAの悩みを背負っていこう」というコミュニケーションをまず親が心がけていくことであるとわたしは付け加えました。

 

 

 

 

 

ただA君と会える状況があるならば会ってみたいと母親に話し、A君へのメッセージを添えました。

 

 

 

 

 

「つらく、寂しかったことでしょう。僕にはA君の今の状態を理解しようと努めても、本当の意味で理解することは難しいかもしれません。

 

 

 

 

 

そして、君の深い悩みに答える事はほとんどできないと思う。それは悩みというのは、本人にしてみれば他人が思っているような小さなものではないからです。

 

 

 

 

 

本人にとってみれば、解決できない苦しみが悩みだと思います。ただ、君といっしょに頭をひねったり体を使ったりすることはできます。

 

 

 

 

 

それも、僕一人ではなく、君と同世代で似たような状況におかれている仲間と”知恵”と”勇気”を分かち合って悩み続ける、そのことで、友人との関わりの喜びを得られると思います。

 

 

 

 

 

理解し合える友だちができれば、何も恐れることはありません。いつか機会を見つけて君の家におじゃましたいと思います」

 

 

 

 

 

わたしはカバンの中にあったメモ用紙に走り書きしました。当時も今も、見えない相手にメッセージを書くときは、いろいろ考えすぎて気負ってしまい、後で見せられて恥ずかしくなるときがあります。

 

 

 

 

 

でもやっぱり、いつもこんな書き方になってしまいます。翌日、A君の母親から電話がありました。

 

 

 

 

 

「お手紙も渡したんですが、来ていただくことについては、はっきり希望を言わないのですが・・・・・」と少し落胆気味でした。

 

 

 

 

 

「それは了解したという意味ですよ。自分でも何かのきっかけを待っていたと思います。でも自分からはなかなか言いだせないんです。

 

 

 

 

 

”ひきこもった”プライドもありますからね。特別な場面を作るのではなく、あくまで自然な関わりの設定がいいんです。それにA君は、一人で抱え込んでいるお母さんのためにも会おうと、ちょっとした勇気を出すチャンスを探していると思います。

 

 

 

 

 

今週中に適当な時間を作って訪問しますから、普通の生活をしていてください」

 

 

 

 

 

初回の訪問は日程を決めてしまうと、親の態度がぎこちなくなって日常生活が崩れてしまう場合が多いです。やたらと家の中を整頓したり、会社を休んだこともないのに不合理な言い訳で休んで待っていたりする父親もいます。

 

 

 

 

 

かえってそのことで子どもは構えてしまい、「自分のことで家族に負担をかけているのではないか。また復学への期待をかけてしまうのではないか」と出会いを遠慮することも多いです。

 

 

 

 

 

極力自然な関わりを子どもたちは待っているのです。土曜日の午後、わたしはA君を「突然」訪ねました。

 

 

 

 

 

ところで、「ひきこもり」続ける子どもには家庭訪問が「特効薬」だと思われている親御さんが多いようです。コミュニケーションを能動的に求めることができない現実を見て、受け身のコミュニケーションから始まる家庭訪問に期待を寄せているのです。

 

 

 

 

 

そして一~二回の家庭訪問で眠っていた期待感が呼び起こされて、次なるステップを子どもに求めてしまう親もいます。

 

 

 

 

 

ところが、親以外とはほとんど人間関係を持たずに長い間ひきこもってきた子どもは、間をおいて受け身で過ごしてきただけに、よりコミュニケーションのやり取りがわずらわしく、苦痛でもあります。

 

 

 

 

 

人に対する「信頼・安心感」が、一人で考えすぎて空回りしているケースが多く見られます。それだけに、人との関わりを持つ(折り合っていく)ということに過剰に慎重になっているのです。

 

 

 

 

 

石橋を叩いても渡らないほど、人間関係を取り結ぶには念には念を入れたいのです。自分を100%受け入れてくれる保証がほしいのです。

 

 

 

 

 

まさに人間関係に関しては、受け身になっているのです。だから絶対に否定されない「特定な味方」を求めています。ぜいたく、わがままといえばそれまでですが、いったん心を閉ざしてしまった人のコミュニケーションは臆病になっていくものなのです。

 

 

 

 

 

要するに、もうこれ以上傷つきたくないのです。これ以上、人間不信に自分を追いつめたくないのです。そうした状況の中で、なんとか関わりを持とうと、子どもたちもわたしたちもお互いに無理のない出会いを探しています。

 

 

 

 

 

「無理のない」ということは、他の子どもたちが日常生活で出会う大人たちと同じように、という意味です。なるべく「特別な立場」の人物として向き合わないということが大切です。

 

 

 

 

 

わたしは訪問するときに、きわめて特殊な場合を除いては、必ず何らかのわたしの個人情報を親の口から子どもに伝えてもらうことにしています。

 

 

 

 

 

それも、なるべく抵抗、不安を起こさないように配慮してもらっています。その子どもと親との関係がギクシャクしている時は、子どもの信頼している人から紹介してもらうことにしています。

 

 

 

 

 

ところで子どもは訪問に対していくつかの答え方をします。

 

 

 

 

 

①今は誰とも会いたくない。

 

 

 

 

 

②会いたい。そのような人なら会ってみたい(会ってもいい)。

 

 

 

 

 

③こういう人(具体的な援助者として)なら会いたい(会ってもいい)。

 

 

 

 

 

④承諾、拒絶のいずれの意思も表さない。

 

 

 

 

 

①では時期尚早といえます。ただ、「今」という言い方に子どもの苦悩がうかがえます。ですから、「今」は無理でも「明日」は大丈夫というケースもあります。

 

 

 

 

 

そこで拒絶されても「会わない」といった形で決めつけないほうがいいでしょう。決められると次に「会ってもいい」と言い出しにくくなるからです。

 

 

 

 

 

②③はこちら側の問題で、子どもが必要としているテーマ、ニーズにどれだけこちらが近づけるかということになってきます。

 

 

 

 

 

そしてその多くは、十代でいえば、学習、進学、二十代でいえば、就職と親からの自立が中心課題となり、三十代になると、老いていく親を意識しだし、孤独感を増していくなかで、「変わらぬ自分」そのものを受け入れてくれる人、場を求めているように思えます。

 

 

 

 

 

④はわたしなりに「無言の承諾」と受けとめています。「ひきこもり」の心境に入りますと、親のアドバイスは子どもにとって、「説教」から「脅し」に聞こえてくるようです。

 

 

 

 

 

「いつまでブラブラしているんだ。親はずっと生きているわけではないのだ」「そんなことでは結婚もできない。そればかりか姉兄(妹弟)の就職や結婚にも影響する」「そんなやる気のない子に育てた覚えはない」「根性がない」「甘えている」「男らしくない」「めめしい」「気の持ちようだ」等々によって心理的に追い込まれていきます。

 

 

 

 

 

もちろん親にしてみれば、そんな言葉かけはすべてが本人を追い込むものとは思っていません。

 

 

 

 

 

深いところでは「励まし」であり、「自分が死ぬまでけっして置き去りにはできない。何とか一人前の人間として社会で生きていけるようになるまでは、死んでも死にきれない」という苦悩と焦りから出たものであるからです。

 

 

 

 

 

だからこそ、親は励ましという叱咤と「かけがえのない存在」としての受容を繰り返すなかで、自らも「一貫性のなさにひどく傷つき」混乱していくようです。

 

 

 

 

 

その受容の過程のなかで、親はひきこもる子どもに相談所や施設、病院、そしてある時は相談相手を紹介し、誘うのですが、それまでに何回か「親の言うとおり」に行ってきてあまり好ましい出会いをしていない子どもほど失望感が強く、また人との出会いに対して「食わず嫌い」の身となっていることも多く、そのために親の誘いを断り続ける場合があります。

 

 

 

 

 

その時の子どもの気持ちは、「俺のことを他人に任せて、問題の解決を俺だけに押しつけようとしている。親は何もわかっていない」という不信感と親からの見捨てられ感が、複雑に絡み合っています。

 

 

 

 

 

それは「ひとりぼっち」という心境のなかで、自分の孤独と不安を受け止めてくれる人を求めている時でもあります。

 

 

 

 

 

わたしには、うめきながら自分を呼んでいるようにも思えます。だから子どもは、断った手前もあり、プライドもあり、「会う」とは言えません。

 

 

 

 

 

関わりたくても関わってほしいと言いにくいのです。それは身勝手なことかもしれませんが、本人も葛藤していることを考えると心は動いてしまいます。

 

 

 

 

 

ですから、閉じこもっている自室から出ようと思っても、自分の力では出られないのです。素直に行動したり、表現したりすることがとてつもなく難しく、勇気のいることになっています。

 

 

 

 

 

会いたいけど会えない、出たいけど出られない、だから「無言」なのです。「いや」とも「いい」とも言えない、言えないのは「それほどまで混乱・葛藤している」と理解したいところです。

 

 

 

 

 

そんな時、わたしは勝手に「無言の承諾」と思ってしまいます。だからこそ、子どもには「出会う」ことへの不安を与えないように、そして断り続けてきた自尊心を傷つけないように、最善の配慮をして、「自然な出会い」の瞬間を心待ちにしていきます。

 

 

 

 

 

好きでコミュニケーションを絶ち「ひきこもり」をしているのではなく、強いられていると受けとめ、「利害関係のない(教師や親戚はとかく利害関係を生じやすい)」立場の不特定多数の人間の一人として、出会いのタイミングに気を遣います。

 

 

 

 

 

そして何よりも信頼を深める努力、「対人関係への不安」にわたし自身が寄り添えるか、「根気くらべ」にも似ています。

 

 

 

 

 

ただ、いつも頭の片隅に忘れないようにとめておいてある、面接室でのつぶやきがあります。ある青年がこう言いました。

 

 

 

 

 

「話さないといけないんですか。人と会うことが、そんなに重要なんですか」強がりとも思えないこの言い方に、考え込んでしまったことがあります。

 

 

 

 

 

その思いも大切にして訪問してきたつもりです。さて、土曜日の午後、わたしはA君を突然訪ねることにしました。地図でA君の家の見当をつけ、確認すると周辺を散歩しました。

 

 

 

 

 

わたしは初めて訪問するときは、なるべく早めに行って、その家の周りを歩くことにしています。三十分ぐらい公園で休んだり、近隣の家を見たり、商店に寄ってはパン等を買ったりしています。

 

 

 

 

 

可能ならば、通学していた小学校や中学校に足を運んでみることもあります。そのようなことをして子どもの「日常生活」に近づいていき、やんちゃに振る舞っていただろう幼い頃から、人に竦み「ひきこもる」これまでを思い起こしていると、「つらいだろうな」という気持ちが自然に沸き起こってくると同時に、自分にもそんな一面があることに気づいてきます。

 

 

 

 

 

A君の家は、まだ緑の多い閑静な住宅地にありました。そして歩いて十分ぐらいのところに中学校がありました。

 

 

 

 

 

「こんにちは」と言いながらドアをノックしました。玄関からリビングが見えましたが、A君はいませんでした。弟もまだ学校から帰ってきてはいませんでした。

 

 

 

 

 

父親が迎えてくれました。母親は買い物に出ていて不在でした。最初、父親は怪訝な顔をしていましたが、「お母さんから聞かれていることと思いますが、今日、家庭訪問にうかがいました」と言うと、すべて納得したような態度が急に丁寧になって歓迎してくれました。

 

 

 

 

 

父親のいれてくれたお茶を飲みながら、世間話を気軽にし合いました。この時間はわたしにとって、とても緊張する時間です。

 

 

 

 

 

二階にいるA君に世間話のなかから、こちらの性格や感性、価値観をそれとなく、「メッセージ」として伝えなければならないからです。

 

 

 

 

 

子どもたちの中には、”カウンセリングショッピング”し過ぎて、その向きの者に対して「食わず嫌い」になっているケースも多いので、自分の思いを伝えるには苦労します。

 

 

 

 

 

本人がいて親が誘っても、出てくるタイミングを失ってしまうと、逆に態度は硬化し、二回目で会う事が難しくなってしまいます。

 

 

 

 

 

それだけに、いる限りにおいては初回で会うことに必死になります。かすかに守っている心理的安定感が、新しい人間と会うことで、揺さぶられ、自分の心の変化とともに、「ご都合主義の大人社会」に適応させられることを、子どもたちは恐れているのです。

 

 

 

 

 

二十分ぐらい経過すると、父親はA君を呼びに二階に上がりました。すでにA君にはわたしのことについて話されていましたが、突然の訪問に驚いているようでした。

 

 

 

 

 

時間を決めて訪問すると、それはそれでまた、その日を予期して不安を起こし、頑なになってしまうことが多いので、突然のほうが「自然」な出会いになりやすいのです。

 

 

 

 

 

父親が「今日は無理そうですね」と残念そうに言いながら降りてきました。「そうですか」と言ってまた話しているうちに母親が帰宅し、弟も帰ってきました。

 

 

 

 

 

若干、家の中が騒がしくなってきた時、わたしは、「ちょっと二階に行って、会えなくてもあいさつだけはしてきますよ」と言って階段をゆっくりと六段ぐらい昇りました。

 

 

 

 

 

そしてその曲がったところで前を見ると、やせ細ったA君がまるで白いTシャツに顔を包んでしまうかのようにして、両側の壁に手を当てて、十字架のイエスのように立っていました。

 

 

 

 

 

A君は、二階の部屋でわたしと出会うことに躊躇していました。父親とわたしとの会話から響いてくるわたしの声を聞きながら、わたしという人物をこれまで会ってきた大人の顔を想像しながら思い浮かべていたのでしょう。

 

 

 

 

 

そして、話の内容からそれとなくわかる、わたしの人柄、考え、それらをすべて自分の不安の中に抱え込みながら、会うことで「これから先どうなってしまうかわからない自分の将来」に、何らかの希望のきっかけをつくれることになるかもしれないと思う一方で、「会えば、親は今の僕の生活が変わることを期待するし、問題の解決は僕一人が背負うことになる。

 

 

 

 

 

結局、会うことで親や大人の考えに”乗せられてしまう”かもしれない。僕がやっと見つけた『孤独だけど安心できるこの時間』を失ってしまうかもしれない」と悩んでいたようです。

 

 

 

 

 

これまで母親は病院のほか、いくつかの相談所や支援施設のような所をA君に紹介してきました。そのたびにA君の一言ひと言に一喜一憂してきました。

 

 

 

 

 

それがA君には、「いつも僕だけが問題で、お父さんの転勤からこうなってしまったことに家族が気を遣ってくれないことが納得できなかった」といいます。

 

 

 

 

 

気遣って、相談所などの情報を紹介することが、親の「逃げる行為」に思えてしまうのです。

 

 

 

 

 

そして地方の牧場や合宿所のコピーを見せられ、「Aと同じように心の傷を負って学校に行けなくなった子どもたちがいるところだよ。

 

 

 

 

 

きっと話をわかってくれる友だちもできるよ。それに田舎だから自然がいっぱいあるよ」と母親から言われるたびに、「俺が問題ではない。お前たちが問題なんだ。

 

 

 

 

 

そんなに行かせたいのなら、自分たちが行けばいい。俺が邪魔になったから追い出そうとしているんだ。他人事のように言うな。俺は不登校させられたんだ。

 

 

 

 

 

俺のような境遇になったら、みんな俺よりひどい状態になっていくはずだ。俺だからこれぐらいでいられるんだ。自然、自然と療養生活のような言い方をするな。

 

 

 

 

 

そんなに自然がいいなら、家族みんなで田舎で暮らせばいいじゃないか。とにかく俺が問題ではない」と心の中で叫んでいたといいます。

 

 

 

 

 

それがこの頃は、「そんな怒りさえ消えて、声だけ通り過ぎていた」のです。しかし、不安は増していました。「みんな今頃、高校受験の準備をしているんだろうなあ」と思うたびに友だちが遠い存在となり、どんどん離れていくように感じられ、取り残されている自分を夢にまで見ることもあったといいます。

 

 

 

 

 

わたしは、壁に両手を当て、目を合わせきれないで立ち尽くしているA君に、間髪入れずに、「A君、降りておいでよ」と言葉のひと言、ひと言に間をとりながら話しかけました。

 

 

 

 

 

顔を隠すように斜に構えたA君は、階段をゆっくりと降りてきて一階のテーブルにつきました。やはり父親と母親は安堵したのでしょう。

 

 

 

 

 

少し顔をひきつらせながらも、父親に笑みがもれました。弟は、A君がひきこもり始めて以来、荷物置き場になっていた二階の三畳程度の部屋を勉強部屋として使っていました。

 

 

 

 

 

そして、二階に上がる弟の顔がどこか白けきっていたのが気になりました。両親に席を外してもらって、A君と二人で話すことにしました。

 

 

 

 

 

テーブルを間に真向かいながら沈黙するA君に、わたしはゆっくりとA君が話しだしやすいように間をおきながらも一方的に自己紹介をしました。

 

 

 

 

 

二~三分も話したでしょうか。閉じていたA君の口が微妙に動きだしました。A君はかしこまると、お茶に手を出し、軽く飲みました。乾き、閉じていた唇がお茶で潤されると開いてきました。

 

 

 

 

 

わたしは新茶の香りとともに渇ききっていたA君の心が解放されていく瞬間を味わっていました。「あの、僕みたいな子ども、いますか」

 

 

 

 

 

不安と緊張の中から何かを探し求めるように、低く抑えられたその一声を、わたしは抱きしめるように「聴」かせていただきました。

 

 

 

 

 

人との関わりを絶ち続けていると、「自分は普通なのか」と不安になってきます。社会との接点が少なくなると、自分の考えや行動が「特異」ではないかと、ひきこもる子どもたちには思えてくるようです。

 

 

 

 

 

自分とだけ会話していたらそうなるのも仕方がないかもしれません。やはり、他者とコミュニケーションを重ねることで、自分の輪郭は見えてくるのです。

 

 

 

 

 

そして「みんな大なり小なりいっしょなんだ」と思えてきます。「こんな何年も家に閉じこもっているのは、自分だけではないのか」「二十代になって、まだ親のお金を当てにして許されているのはおかしいのではないか」「友だちが一人もいなくても平気でいられるのは、おかしいのではないか」「不登校を『卒業』してもこんな生活を続けているのは、自分だけではないのか」「みんな高校受験の勉強をしているのに、何もしないで毎日を無駄にしているのは自分だけではないのか」等々心の底ではいろいろなことを考えながら悩んでいますが、親から見ると、「何を考えているのか。毎日毎日何もしないでブラブラして」と、どうしても思えてきてしまいます。

 

 

 

 

 

こんな毎日が、親子の溝を深めてしまうこともあります。A君も「あの、僕みたいな子ども、いますか」と切り出してきました。

 

 

 

 

 

そして「うーん、僕みたいって何かな?」と、わたしは「普通の人間ではない」という不安に恐れているA君の気持ちに「今の状態が特別変わっていることとは思えない。

 

 

 

 

 

人間誰でも追いつめられれば拒否したり、逃避するのはごく自然な成り行きなんだよ」という思いで向かい合いました。ですから、A君が持っている常識から見た内なる「偏見」に「わからないから教えてくれよ」と「聴」いていくしかありませんでした。

 

 

 

 

 

A君も特別な感情を持って「同情(不憫)、期待、励まし」で迫ってくる親ではなく、利害関係のないわたしという世間にたまたま出会いました。

 

 

 

 

 

そして「こんな考えでは、とても他人とは交われない」という気持ちを恐る恐る話すことで、社会生活(適応)の感覚に近づき、「今の感情、考えが社会とそうズレてはいないようだ」という「調整作業」を経て安堵していったように思います。

 

 

 

 

 

あたりまえと言えばあたりまえですが、ひきこもり続ける子どもたちも、心の奥深いところでは人間と触れ合いたいと思っています。

 

 

 

 

 

表情だけでは、一見そうとは思えないかもしれません。しかし、信頼関係が生まれてくると「可能ならば友だちがほしい」と、言いにくそうに多くの子どもたちはわたしに求めてきます。

 

 

 

 

 

この「可能ならば」というところが人間関係を「傷つかない関係」で見ていることを物語っています。人間関係の”せめぎあい””折り合い”がよくつかめないのです。「ケンカして仲直り」がイメージできません。

 

 

 

 

 

「たんに人間関係が”不器用”なんだね」と、心通じたときにさりげなくやわらかに語りかけると、うなずくことが多いです。それは「”不器用”もその人の一部分にすぎないのだから、それが全体だと思ってみてはいけないよ」というわたしの思いです。

 

 

 

 

 

勉強できるのも、その人の全体の一部分であるように、トータルで人を見ていきたいとわたしは思っています。ただ、孤独な身になってどうしても他人との交わりが少ないと、「器用でないと人とはつき合えない。生きていけない」と思い込みやすいのです。

 

 

 

 

 

まして、テレビなどで同世代の若者たちが軽いノリで、何の脈略もなく友人になったり、あるときは恋人同士になっていく様子を見ていると、人との関わりにさらに自信をなくしてしまいます。

 

 

 

 

 

さらには、それが虚構ではなく現実での人間の有り様だと思ってしまい、人間不信を抱く子どもすらいます。そんな苦しみを一人で抱えながら、「人間関係術(マニュアル)」のようなことにとらわれてしまっている子どもたちもいるのです。

 

 

 

 

 

わたしは「ありのままの自分を語る(素直)」勇気を持つことができれば、「関係術」などそれこそ関係なくなると思います。その勇気を得られるかは「自分のことを理解してくれる人が、親以外にもいる」ということを獲得しているかにあるように思うのです。

 

 

 

 

 

ひきこもる子どもには、これほどまでに「社会・集団適応」という課題を背負い込ませてしまうことがあります。だから、「ひきこもっている自分が考えていることは、ごく一般の社会からみたらおかしいですか」と何度も何度も、「ズレ」ていないことを慎重に気の長い対話と関わりの中で確認し尋ねてきます。

 

 

 

 

 

人との関わりを持たずして、「おかしい」と思えば思うほど、「自分は精神的な病気ではないか」と思い込んでくる子どもたちもときにはいます。

 

 

 

 

 

心の病に対する抵抗は、そう簡単にはなくなりません。気楽に、「風邪をひいたから内科へ」といったように「心が重苦しいから精神科へ」という気持ちで受診する人はまだ少ないです。

 

 

 

 

 

何か「特別な空間に入ってしまう」という意識が強いように思います。そこには「普通の人間ではなくなる」恐怖感すらあります。

 

 

 

 

 

精神科医やカウンセラーに「おかしい(集団適応できない)自分を理解し、治してくれる」ものとしての期待感を持つ反面、「自分もそのような人間として見られてしまう立場になってしまうのか」という気持ちが拒絶を起こさせていくこともあります。

 

 

 

 

 

「こんな気持ちを持っても、おかしくはないんだ」、そう思えるまでには、長い時間とわかりあえる人との出会いが必要です。

 

 

 

 

 

 

わたしは一時間ほど、訥々と話すA君にうなずきながら、孤独な世界に身を置くそのつらさを感じていました。

 

 

 

 

 

「僕が仮にA君のような境遇だったら、こうして人と会う勇気も出ないままに過去を思いながら今の自分の辛い気持ちを軽くするために親を責め、またそういう自分が情けなくなり、すべてに失望していたかもしれない。

 

 

 

 

 

君には生きるエネルギーがあるね」とわたしは思わず言いました。「A君のことはお母さんから少しは聞いていたけど、それは親から見た一方的な話で、A君の痛みも少しはわかりかけてきたよ」そう言いながら、わたしは高ぶる感情を隠すように、顔を両手でたたくと目頭を指で押さえました。

 

 

 

 

 

そして冷めたお茶を飲みながら、「信頼してくれたからこそ話してくれた」そのことに感謝し、「また来るよ」と言いながら腰を上げました。

 

 

 

 

 

 

わたしは右手をA君に差し出し、握手しました。A君の手は本当に冷たかったです。わたしは力を入れました。すると彼も力を入れてきました。

 

 

 

 

 

「お、力があるじゃないか。今度来たら腕相撲しようか」と言いながら、A君の目をしっかりと見つめました。彼は左手で下がったメガネを上げると恥ずかしそうに微笑みました。

 

 

 

 

 

わたしは握った手の指先でA君の手の甲を信号のように押しました。わたしは大きな声で「それでは失礼します」と席を外していた両親に声をかけました。

 

 

 

 

 

その時でした。A君は玄関先で、「僕でも高校に入れますかね」とささやくように、そして親に聞こえないように聞いてきました。わたしは、「もちろん入れるよ。いろんな道があるんだから」と言うと、心配して出てくる親御さんにあいさつしました。

 

 

 

 

 

「それじゃあまた、お邪魔します。弟さんにもよろしく」わたしは二階にいる弟さんに向かって、「それじゃあまた」と声をかけました。

 

 

 

 

 

弟が慌てるように降りてきました。戸惑いの表情を見せながらも感謝の気持ちを表そうとする笑顔の弟を見て、気になっていた兄弟関係がわたしには明るく思えてきました。

 

 

 

 

 

「兄のことが心配でした。それまで誰とも会わなかったので、これから先どうなるのか不安でした。でもあの日、兄が話している声を聞いて急になんとなく嬉しくなって気持ちが軽くなってきたんです」と、弟はその時のことを今ふり返ります。

 

 

 

 

 

A君たちの家族に新しい対話が生まれることと、「他人と会えた」という親の喜びが、彼への過剰な期待にならないことを願いながらそっと玄関のドアを閉めました。

 

 

 

 

 

そして二日後、A君の様子が気になり、再び訪ねていきました。

 

 

 

 

 

不登校、高校中退、大学卒業、就職拒否から次の選択が決まらないと、多くの場合、親御さんは相談所を探し求めます。わずかな情報の中から問題解決への希望を願います。

 

 

 

 

 

このあたりから問題の当事者は「子ども」ということになり、「おまえが復学(就職)してくれればすべては丸く収まる」と言わんばかりに、先回りして子どもを引っ張り出そうとします。

 

 

 

 

 

子どものテンポが無視され始めていくのです。そして引っ張り出された子どもは、よほど親と対立していない限りは、その意向にしたがって相談所に出かけていきます。

 

 

 

 

 

ところが、そこにおいて、子どもだけが理由も説明されずに一方的に心理テストを受けさせられたり、学校不適応ばかりをことさら強調されるような説教面接を強いられ、問題の当事者とされてしまいます。

 

 

 

 

 

「もう二度と、あんなところには行かない」と、かすかな理解者との出会いに望みをかけた自分の失望感を訴えることは多いのです。

 

 

 

 

 

求めて訪ねただけに、心が安定するのを待って十分に話を聞いてほしいのです。それが無下にされた悔しさは、また人との距離感を広げていくのです。

 

 

 

 

 

そして「親の言うことは信じられない。親の手先とは今後会わない」と、親からのあらゆる誘いを断りだします。その傷が癒されるまで拒絶するのですが、その間、変わらない子どもの日常に親御さんは焦りだします。

 

 

 

 

 

そして「無理を承知の刺激」を起こしてしまう親御さんもいます。

 

 

 

 

 

そのために、子どもは自らを守るため、時には暴力的になり、時には部屋に鍵をかけ、閉じこもったり、口を閉ざしたり、いわゆる「症状」を出してくる場合もあります。

 

 

 

 

 

症状の悪化を危惧する親は「普通ではない」と病院を探し、あらゆる手段を使って子どもを家から連れ出そうとします。

 

 

 

 

 

A君もそんな一人でした。「親の不安な気持ちも少しはわかっていたので、もう一度だまされたつもりで行ってみよう」と思って、ある時、大学病院の精神科を訪れました。

 

 

 

 

 

「精神科医なら僕の話をわかってくれるはずだ」、そう期待する気持ちもありました。ところが、診察は十分程度で終わって、「質問されて終わり」という感じであったといいます。

 

 

 

 

 

そして望みをかけて話した結果が「薬」となって返ってきました。「何かごまかされた」という感想しか残らなかったようです。

 

 

 

 

 

こうして信頼の絆を絶たれ、事あるごとに”犯人扱い”されてしまう身となった時、残された手段はひきこもること以外にはなかったのでしょう。

 

 

 

 

 

A君と会って二日後、親の期待感と「僕でも高校へ行けますかね」といった言葉が忘れられず、再び訪ねました。

 

 

 

 

 

対人関係を拒絶していたわが子が「他人」と会えて話ができたということは、親にとって非常に大きな喜びです。何よりも「頼れる人」が親以外に見つかったということになるからです。

 

 

 

 

 

子育てに対する反省が強い親御さんほど「親代わり」を期待する傾向があります。ところがその一方で、子どもに対しては、「こんなすばらしい理解のある”親”が見つかったんだから、すぐに元気になって前向きに生きてくれるようになるだろう」という願いがとどまることなくわき起こってきます。

 

 

 

 

 

これは当然の親の心情です。親の願う「前向き」というのは友だちを求め、集団のなかに身をおきコミュニケーションをとろうとする姿です。

 

 

 

 

 

しかし、それは理解者が現れたからすぐに可能になるというものではありません。まして傷ついたままのコミュニケーションを引きずってきた子の心は、ガードが固くなっているのは当然です。

 

 

 

 

 

さらに、子どもの気持ちは、そんな簡単にはほぐれません。一つは、「他人」の正体に対する疑いです。理解者を求め裏切られ続けてきた子どもほど、「親の手先」が、本当に自分を理解し、「犯人扱い」せず、向き合ってくれるかと疑います。

 

 

 

 

 

「信用した俺がバカだった、と二度と思いたくない」のです。だから非常に慎重になります。わたし自身、親の心情に寄りすぎて子どもから「おまえは信用できない奴だ。ここには二度と来ない」と面接室で言われたりしたこともあります。

 

 

 

 

 

それともう一つは、「そんなに素直に乗ってしまっていいのか」という気持ちです。ひきこもるにはひきこもる理由があります。コミュニケーションを絶つには、絶つ理由があるのです。

 

 

 

 

 

それなのに、出会ったことで状況がどんどん変わっていきます。そうすると大人のレールに乗せられてしまう感じがしてきます。いつの間にか、親や大人のテンポに合わされていくようで、癪にもさわるのです。

 

 

 

 

 

母親は丁寧にあいさつするとA君を呼びました。わたしはA君と二人で居間で話し始めました。彼とわたしの緊張が取れ始めていました。

 

 

 

 

 

わたしは高校の話を持ち出しました。「高校生の時代は、勉強よりもちょっと大人っぽい生活を味わうところといった感じかな。あまり勉強で縛られてしまうような学校だと、予備校に行っているようでつまらないと思うよ。

 

 

 

 

 

恋人もできるかもしれないし、アルバイトをやっていろいろな経験をしてもいいし。親に相談しなくても遠慮なく自分の好きな物が買えていいよ。

 

 

 

 

 

まだ夏休み前だし、ゆっくり自分にあったところを探せばいいと思うよ。高校はたくさんあるんだから。私立にはA君の気に入りそうなユニークな学校もあるよ」

 

 

 

 

 

A君の顔が赤みを帯びてきました。笑顔も出てきました。何か高校への希望が出てくる感じが、手にとるようにわかりました。ひきこもる子どもというのは、現実を見すぎてしまう傾向があります。

 

 

 

 

 

だからその圧迫感で、苦しくなってしまいます。わたしはひきこもりから旅立つには「夢」を与え「希望」を掴んでもらうことが大切で、そこから再び「相応の現実」を受け止めてほしいと思っています。

 

 

 

 

 

母親が、嬉しそうにお菓子を運びながら、「お兄ちゃんも高校に入れるといいね。担任の先生に相談してみたらいいわね」と言いだしました。

 

 

 

 

 

すると一瞬、A君の顔がこわばりました。A君の不安を親の願いが刺激したのです。

 

 

 

 

 

「またお母さん、すぐせかすんですから。A君にはA君のテンポがあるんですから。親はすぐに調子に乗ってしまうんですよ。中学のことは心配しなくても大丈夫ですよ。」

 

 

 

 

 

とわたしは明るい声で、気さくにお母さんをとがめました。母親は、「また余計なことを言ってしまった」といった顔で怯えるようにして台所に引き返しました。

 

 

 

 

 

「でも親ってあんなもんだよ」と言うとA君の顔をわたしは見直しました。すると彼は考え込むように、「このまま学校に行かないと卒業証書はもらえないんでしょうか。出席がないと高校の受験はできないのではないですか」と身を引くような感じで聞いてきました。

 

 

 

 

 

「大丈夫だよ。学校に行けないのは君だけの責任じゃないんだ。君の将来を学校が一人で勝手に決定できるわけがない。心配いらないよ。

 

 

 

 

 

出席も問題にすることはない。なんとかなるもんだよ。あんまり中学のことは考えないで、高校ガイドでも見て面白そうなところを探してみな。ああ、今度、僕の友人が高校の教師をしているから紹介するよ。会ってごらん。いい人だから」しかし、A君の心配は消えていないようでした。

 

 

 

 

 

そして次の日、彼からわたしの携帯に電話が入りました。ゆっくり、ボソボソと、「あのちょっと話したいことがあるんですけど、時間ありますか」と言います。

 

 

 

 

 

「今日はちょっと時間ないけど、明日の夜だったら大丈夫だよ。ひばりが丘まで来れるかい。駅の改札、そこで夜の七時に待ってるよ」

 

 

 

 

 

わたしはそう言いながら、A君の気持ちが揺れだしたことを喜びました。受話器をつかんだ右手が汗でぬれていました。

 

 

 

 

 

わたしはやり残していた仕事を終え、A君と午後七時の約束時間に五分ほど遅れて、駅に到着しました。A君はラフな格好で、手には近くの本屋さんで買ってきたのでしょう、『鉄道ファン』という雑誌を持っていました。

 

 

 

 

 

彼は首を垂らしながらも改札口の近くで上目づかいで待っていました。「ああ、遅れてしまってごめん」と言ってA君の肩を軽くたたきました。

 

 

 

 

 

彼の肩はやたら固く感じられました。家からこうしてバスと電車を乗り継いで出てくる不安、他人と待ち合わせる緊張、そして、「これから何をどのように話したらいいのか」という戸惑い、こうした複雑な感情が、右から左へ、下から上へ光のように飛びかい、「このまま帰ってしまえばこの苦しみもなくなり、どんなに楽になるだろう」と思いながら待っていたようです。

 

 

 

 

 

約束時間まで何とか耐えて待っていたA君にとって、「通り過ぎる人たちは、自分をどんなふうに見ているのだろうか」と考え続けてしまう、地獄に似た状況でもあったでしょう。

 

 

 

 

 

わたしは「喫茶店にでも行こうか」と言って駅ビルにあるコーヒー店に入りました。注文をすませると、しばらく間をおいてからA君に話しかけました。

 

 

 

 

 

「どうしたんだい。学校のことかな?」

 

 

 

 

 

「ええ、あの後いろいろ考えたんですけど、やっぱり今さら学校に行くというのも何だかきついものがあるんです。勉強はわからないし、友だちや先生からの誘いを断ってきたこともあって・・・・・・・。

 

 

 

 

 

でも高校へは行きたい気がするんです。別に高卒とかにこだわっているわけではなくて、何か新しい場面を作りたいんです・・・・・。

 

 

 

 

 

学校に行かないで卒業できませんかね。それとも、やっぱり行ったほうがいいですかね」A君はゆっくりと考えては、また考えるといった調子で話してくれました。

 

 

 

 

 

わたしもいつの間にかゆっくりとした口調になり、「きついものはあるけれど、状況によっては行けそうな気もするのかな。それなら入試や卒業のこともあるし、とりあえず、担任とだけでも会ってもらったらどうかな」とわたしは「とりあえず」を強調しました。

 

 

 

 

 

この言葉は、決めつけないだけにとても気持ちを楽にさせます。するとA君は、「僕は担任を知らないんです」と困ったような顔をしながら助けを求めてきました。

 

 

 

 

 

わたしは、「そりゃあ、会ってなければ知らないだろう。名前さえわかっていれば十分だよ。会えば知ることができるよ。会った後のことが不安になっているんじゃないのかな」と若干トーンをあげて話してしまいました。

 

 

 

 

 

彼はわたしの声の大きさを気にし、周りのお客さんに聞こえなかったかと心配そうに見回しました。四十分くらい話したでしょうか、店を出ることにしました。

 

 

 

 

 

慣れない人ごみの中での対話は疲れたのでしょう、左手を額や足の股にあてては何度となくさすりだしていました。わたしは駅前で三百円程度のドーナツを買うと、「ご両親、、弟さんによろしく」と言って、彼の手にドーナツの入った袋を渡しました。

 

 

 

 

 

彼の顔が一瞬ほころびました。手にしたドーナツの袋の口を丁寧に折ると、手さげカバンの中に几帳面に入れました。

 

 

 

 

 

改札口から各々のホームに別れました。A君は進行方向に向かっていちばん後ろの車両に乗ると、運転席と過ぎ行く線路が見える席に座りました。

 

 

 

 

 

わたしもA君に合わせるように、下り方面の最後の車両が止まる位置まで進みました。それからホームに到着した電車に乗ると、窓際からA君を見つめていました。

 

 

 

 

 

それから数ヶ月、彼からの反応を待つということと、仕事の多忙なども重なり、連絡を取ることもなくなっていました。旅先から思いついたように絵はがきを郵送する程度になっていました。

 

 

 

 

 

A君からの音沙汰もそれからすっかりなくなっていました。

 

 

 

 

 

A君と再会する機会もなく、駅で別れて以来五ヶ月が経過していました。そして年が明けて元旦になりました。年賀状や新年のあいさつのメールが届きました。

 

 

 

 

 

若者たちからいろいろなメッセージが新年のあいさつとともに添えられています。復学、就職、なかにはいつも母親に無理難題ばかり言っていた子が、植木職人目指して弟子入りしたとか、結婚、出産の話まであります。

 

 

 

 

 

反面、親の離婚、本人の入院、いったん就職したが今はプータローしているとか、つらい話もあります。そんな中に、印刷された父親の名前の横にA君の名前が手書きされた年賀状がありました。

 

 

 

 

 

形式的な挨拶文以外は、何も書かれていませんでした。わたしは懐かしさとともに、一言も近況を伝える言葉がないことが気になり、A君宅に電話しました。

 

 

 

 

 

久しぶりに聞く母親の声でした。

 

 

 

 

 

「この間、連絡もせずに申し訳ありませんでした」と、電話口で丁寧にあやまると母親は彼を呼びました。「A、電話だよ」ところ何回となく母親が呼んでも彼は電話口には出てきませんでした。

 

 

 

 

 

母親はすまなそうに謝ると、小さな声でこの事情を話そうとしていました。わたしは、「そうですか。何か大切なことでもしているんでしょうから。焦らないでしばらく時間をおきましょう」と言って電話を切りました。

 

 

 

 

 

ひきこもって人間関係を遮断している時は、ある面、相手のことを気にする必要はありませんが、縁あって出会いが生まれ、わかりあえる関係ができると、どうしてもその人を意識してしまいます。

 

 

 

 

 

自分が不安ながらも大切に守っていた話をのせられて話してしまったと思えば思うほど、再会することに戸惑いが出てしまいます。

 

 

 

 

 

またわかりあった日から何ヶ月という長い時間を経て出会うには、「成長した自分を見せなければ格好がつかない」「あの時と何ら変わらない自分では、相手にされなくなってしまう」といった気持ちも働きます。

 

 

 

 

 

A君にもそんな複雑な思いがあったのかもしれません。何回も呼び出し、何度も拒絶させてしまうと、今度は本人が会いたくなっても会いづらく、並みの勇気では会えなくなってしまうのです。

 

 

 

 

 

いつの日か「格好がつきそうになったら電話できる」関係を維持するためにも、無理のない距離を置いたほうがいいのです。

 

 

 

 

 

中二から登校できずにいたA君にとって、高校入試を目の前に「格好がつけきれなかった」のです。翌日、母親から自宅に電話がかかってきました。

 

 

 

 

 

「実は夏に会ってしばらくしてから、担任のところを訪ねたんです。前の日には床屋さんに行き、お風呂に一時間も入り、夕方六時頃職員室で担任と会ったんです。

 

 

 

 

 

高校について相談するというのでわたしもいっしょに行こうとしたんですが、一人で出かけていきました。その日は喜んで帰ってきたんです。

 

 

 

 

 

ところが二日後突然わたしのところに来て、『もう誰とも会わないので、連絡をとるな』と言うと、部屋に入って寝てしまったんです。

 

 

 

 

 

それから勉強はまったくせず、再び昼夜逆転のような生活に入って今に至っています」母親は、「子どもの気持ちがわからない」と話の合間に何回となくつけ足しながら、ゆっくりとこの間の経過を話してくれました。

 

 

 

 

 

母親は担任とも話しました。担任は放課後、校内のどこか静かなところでいっしょに勉強しようと勧めてくれたようです。そして慣れてきたら時間を少しずつ早めにして登校できるようにしようとA君に提案しました。

 

 

 

 

 

高校入学への可能性も示唆してくれたようでした。A君は学習への意欲を出したかに見えましたが、二日後、物を投げつけるような大きな音をたてると、教科書、参考書をヒモで縛り、古紙といっしょに台所に持ってきて、「勉強はやめた。片づけてくれ」と言い切ったといいます。

 

 

 

 

 

A君はこの時のことを、「高校入試に向けて勉強を始めてみましたが、数学、英語は中一の後半からほとんどわかりませんでした。その時、学校の友だちの顔が不思議なくらい次々と浮かんできました。

 

 

 

 

 

そしてみんな勉強ができて喜んでいる、僕よりもできなかった奴まで余裕を持っている、もう取り戻せないと思ったんです。高校への希望がなくなったんです。

 

 

 

 

 

通信制高校とか定時制高校とかありますが、その時の僕には、みんな”高校”ということで遠い存在になりました」と後日、話してくれました。

 

 

 

 

 

こんな毎日が続くと、A君は自分にプライドが持てなくなりました。家族に隠れて泣きながら、「このままでは自分が死んでしまう」そんな予感がしたといいます。

 

 

 

 

 

弟は希望の付属中学に入学できました。家族はA君の気持ちを察して、弟の入学祝いを控えました。A君には自分に遠慮している家族の姿がつらかったようです。

 

 

 

 

 

時には意識しすぎて嫌味と思うことさえあり、そう思ってしまう自分をまた責めました。しかし両親は、「兄のために弟を犠牲にしてはいけない。何らかの形で合格を祝ってやりたい」と何度となく思いました。

 

 

 

 

 

 

そんなある日、買い物に行くと言って両親と弟が車で出かけていきました。A君はその光景を今でもはっきり覚えています。弟への祝福の思いはありながらも、二階の部屋から道路を見ながら、足早に車に乗っていく家族の姿に、「自分は一人なんだ」と感じてしまったといいます。

 

 

 

 

 

その頃、A君にも卒業生の寄せ書きが回ってきました。彼はクラスの友だちの名前一人ひとりを人差し指で押しながら、「友だちになれなかった」と確認していったといいます。

 

 

 

 

 

そして結局、自分の名前は書かずに、「転校生」と隅に書くと、封印し、母親に渡しました。「惨めな自分を見せたくなかった。そして父親には、大阪にいた小学生時代の明るく人気者だった自分を返してくれと再び叫びたい気持ちだった」と語ります。

 

 

 

 

 

三月、A君は卒業式に出ることなく中学生活を終えました。卒業証書が届いたのは三月も下旬でした。

 

 

 

 

 

旅立ちの春、A君は郵送されてきた中学の卒業証書を見ることはありませんでした。

 

 

 

 

 

「見る気が起こらなかった、と言えば嘘になりますが・・・・・・・。そう、少し恐さもありました。僕以外の全員がこの卒業証書を手にして中学三年間を完全に終わりました。節目を作りました。

 

 

 

 

 

そして各々全員が希望の進路を決めました。旅立ちの春ですよね。それに比べて僕は学校に行かなくなった中二の六月以来、全く何も進んでいません。

 

 

 

 

 

毎日をただ空しく過ごしてきただけだったんです。旅立つためのエネルギーがあるとか、ないとかいうよりも、旅立つ先がなかったんです。

 

 

 

 

 

卒業証書は旅立ちの翼でしょう。僕の翼は、風に吹かれて飛んでいってしまうようなみじめな翼だったんです。そんな翼、見たくもないですよね。

 

 

 

 

 

みんな大空に向かって飛び立っていく、僕は林の中でそっと隠れるようにして自分の体と心をいたわろうとしながらも傷つけている鳥のようなものでした。

 

 

 

 

 

目も閉じかけて死にかけていたのです。『僕は生きていてはいけないんだ』と誰かに無性に言いたいほど、不安で不安でつらかった毎日でした。

 

 

 

 

 

旅立っていない自分が惨めでした。置き去りにされたという気持ちもありましたが、それよりも、その程度の人間でしかないんだと思ってしまうんです。

 

 

 

 

 

そうすると自然に、おかしな行動とは思っても、みんなのことを思い出さないように、見られないように部屋に閉じこもってはベッドの布団の中に頭を包むように一日中もぐっていました。

 

 

 

 

 

もちろん、寝ようとしても眠れません。思い出してしまうんです。つらくてつらくて、はじめのうちは泣いてばかりいました。

 

 

 

 

 

入り口のドアの小さなガラスにも、新聞折り込み広告をガムテープでしっかりと貼りました。とにかく一人でこの不安と同居していることは苦しいものでしたが、それしか他に生きる方法はありませんでした」とA君は当時を思い出します。

 

 

 

 

 

 

高校への夢も一度は抱いてみましたが、二年間学校に行けず勉強は手につかなかったブランクを持つA君にとって、そのレベルの高さは想像以上でした。

 

 

 

 

 

定時制・通信制高校もわたしとの話の中では知っていましたが、「高校」には変わりなく、とてもついていけないと思ったといいます。

 

 

 

 

 

わたしはA君の話を聞きながら、「全員、完全、まったく」といった「絶対表現」の多さが気になりました。こうして自己否定し、自分を追いつめていってしまったのでしょう。

 

 

 

 

 

それはあまりにも残酷な「十五の春」でした。四月に入って、また新しい生活が始まりました。弟は私立中学に通いだしました。家を出るのは父親よりも早く、そのため母親は、五時半頃起きては朝の食事と身支度をします。

 

 

 

 

 

その慌ただしさがA君にとっては、弟の「晴れ姿」のように思え、妬ましく思えました。時には父親も弟といっしょに朝食をとり、通学時間を気遣うように励ますこともありました。

 

 

 

 

 

A君は昼夜逆転の生活の中で家族の声を聞きながら、二階の部屋から朝の光景を孤独な気持ちで想像していました。「すべては弟を中心に回っている。僕はこれからどうなるのだろう」と思う反面、「新しい年が始まった。これで来年の三月までまた自分の時間がとれた」という思いもありました。

 

 

 

 

 

この時期さえ過ぎれば、再び一年の猶予が保証されます。五月の連休を過ぎると、母親は近所のスーパーにパートに出ました。

 

 

 

 

 

「正直言って、家にいるのがつらかったんです。いつ起きてくるかわからない生活も二年を過ぎていました。それでも必ずあの子は元気になってくれると信じて、その日がくるまでいつまでも待っていてやろうと、気持ちだけでなく生活もあの子に合わせようと思いました。

 

 

 

 

 

でも、日中一緒にいる生活は気疲れしました。二階から起きてくる音を聞きながら食事の準備をすると、また二階に上がってしまう・・・・・・。

 

 

 

 

 

そんな繰り返しの中で、結局食事らしいものはとらず、パンとちょっとした肉類を食べるだけでした。それもほとんど会話もなく、わたしもどのように話しかけたらよいのかわからず緊張の連続でした。

 

 

 

 

 

そのうちに、Aのために作った料理も食べてくれないということもあり、やめました。もう、あるもので間に合わせていきました。そんなある日、わたしはとても重苦しい雰囲気に襲われたんです。

 

 

 

 

 

その頃、かつてあの子が通っていた国立病院の先生のところに、二ヶ月に一度ぐらいカウンセリングに通っていたんです。本人が行かないことと、面接の時間も少ないので要領よく話そうと日記をつけていたんです。

 

 

 

 

 

あの子の様子、わたしの気持ちと対応、それらをまとめて書いておくのです。ところがある日、二階にいるあの子のことを思い出しながらその日記を書いていると、突然、Aの大きな身体とともに二階の部屋がわたしのところに落ちてくるような恐怖に襲われたんです。

 

 

 

 

 

その時、わたしがあの子のことを気にしすぎて、あの子も息苦しかったのではないか、と思ったんです。それからは気にしないように努めてみました。

 

 

 

 

 

日記をやめて趣味の真多呂人形作りを始めました。それでも同じ家にいるのですから、どうしても意識してしまいます。わたしが意識する分、あの子も意識するのでしょうか。

 

 

 

 

 

わたしが何か大きな音を立てると、あの子も壁を叩くのです。わたしが家にいるために部屋から出たいと思っても出られないのでは、と気がついたんです。

 

 

 

 

 

わたし自身の気分転換もあって、週三回、九時から三時のパートに出たんです。昼食をお皿に盛り、サランラップで包んでおき、出かけました。

 

 

 

 

 

帰ってくると食べてあったり、なかったりでしたが、せめて食事だけはとってほしいと作りました。食べてあったことで、生きていることも確認できたような気もしていました。

 

 

 

 

 

また、外に出るんだから、これだけはやろうと自分に言い聞かせていました」母親も当時を思い出して、その胸のうちを語ってくれました。

 

 

 

 

 

この間、わたしはA君に何も連絡をとりませんでした。ただ関東自立就労支援センターで発行していた会報は毎月郵送されていたので、もしそれを読んでいたとしたら身近に感じとれていたものと思っていました。

 

 

 

 

 

ところが後日、A君に聞いてみたら、その頃は一度も読んでいなかったようです。「とにかく、自分の世界を守りたくて、外からの影響を受けたくなかった」らしいです。

 

 

 

 

 

八月初旬、母親から電話が入りました。「Aが一週間前から、夏風邪だと思うんですが、高熱が続いていたんです。そしてだいぶよくなったので休んでいたパートに出ようと思ったんです。

 

 

 

 

 

そしたらいきなり、『ここに座っていろ』と言うのです。座って何か話をするのかと思うと、ただあの子は寝ているだけなんです。寂しいのかと思って添い寝のようにしてあげようとすると、『俺に寄るな』と怒るんです。

 

 

 

 

 

二~三時間座っていると横になりたくなったり、用事もあるので部屋を出ようとすると、凄むような目で『おまえはそれでいいと思っているのか』と言い出すんです。

 

 

 

 

 

それで、わたし、恐くなって家を飛び出して、デパートで時間をつぶして帰ってみると、出展しようと作っていた真多呂人形の首を折って人形の髪の毛をマッチで焼いていたんです。

 

 

 

 

 

わたしがAに『何やってんの』と言うと、そのまままた二階に上がってしまったんです。どうしたらいいんでしょうか」と焦りと迷いの電話でした。

 

 

 

 

 

「もう限界、疲れました。どうしてわたしばかりがこんな目にあうんですか」と声を詰まらせていました。とりあえずわたしは翌日の夜、ひさしぶりに喫茶店で会うことにしました。

 

 

 

 

 

翌日、疲労しきった様子の母親は、わたしに会うなり、「わたし、家を出ようと思うんです。弟の学校が遠いこともあり、この一学期でずいぶんと元気がなくなりました。

 

 

 

 

 

二学期になる前に都内にアパートを借りて、しばらく弟と一緒に生活しようと思うんです。主人にはまだ話していないのですが、どうでしょうか」と切り出してきました。

 

 

 

 

 

わたしは、こうした母親の最後の「切り札」である「家出」の相談を受けることが多いです。子どもは攻撃と依存を、もっとも理解してほしい人に向けてきます。

 

 

 

 

 

愛と憎しみが、本人もコントロールできないほど混乱した中で動いていきます。「この人(母親)にこそわかってほしい。それなのに、僕がこうまでしている(高熱・人形の首を折る・焼く)のに、なぜこの気持ちを受けとめてくれないんだ」という絶叫が、攻撃・批判の言葉として「いちばんのよき理解者(母親)」に浴びせられるのです。

 

 

 

 

 

こうしたことは親子に限らず、日常的にわたしたちの人間関係のなかにあります。ただ「縁を切ろうにも切れない親子、母子だから、その気持ちがわかり過ぎて身動きが取れない」のです。

 

 

 

 

 

「家出」は、そうしたなかで唯一残された「しがらみからの解放のひととき」であると思うこともあります。母親の話を聞きながら、A君が頼るところも見つからず不安のなかで混乱しきっている様子が察せられました。

 

 

 

 

 

わたしはA君と連絡をとろうと思いましたが、この間電話に出ることもほとんどないと母親は言います。「出ても自分には関係のないことばかり、出たためにその伝言を家族に言わなければならないことがわずらわしかった」と後日、A君は話してくれました。

 

 

 

 

 

わたしはお母さんに「悔いの残らない家出」を勧めました。「子どもの攻撃を『不安を言い表せないギリギリの感情表現』として受けとめられたとき、家出が意味を持つ」と思うからです。

 

 

 

 

 

帰り際に母親は、「もう少し今の生活を続けてみます」と言いました。「お母さん、彼が一人で一階にいる時間はいつですかね」とわたしは聞きました。

 

 

 

 

 

これから先への不安がA君を追いつめているように思えてきたからです。そして何となく、A君がわたしを呼んでいるようにも勝手に感じていました。

 

 

 

 

 

突然の訪問をしても、彼との間の信頼関係は維持できるという思いがそれとなくわたしにもありました。

 

 

 

 

 

うだるような夏が過ぎた九月中旬、厚い壁で自分を守っていたA君を久しぶりに訪ねました。約一年ぶりの再会でした。A君はそれまで誰とも会うことを拒否していたので、わたしも緊張していました。

 

 

 

 

 

ひきこもる時間が長くなればなるほど、「これまでの自分を知っている人とは会いたくない」という心情になります。

 

 

 

 

 

本心は、会って以前楽しんだ懐かしい話をしたい気持ちもあるのですが、現実の今に話が戻ったとき、「惨めな自分を、輝いている友だちや親戚のいとこたちには見られたくない」のです。

 

 

 

 

 

だから、「自分の過去を知らない、自分の情報をまったく持っていない人と対等なつきあいや出会い」をしたいのです。その意味でも、これまでA君と知り合っていたわたしは「会いにくい」人になっていたようです。

 

 

 

 

 

それでも、追いつめられた精神状態にいるとしか思えないA君の話を母親から聞いて、極力「自然な出会い」に気を遣いながら再会しました。

 

 

 

 

 

家族のいない平日の午後、A君にとっていちばん気の休まる時間でした。チャイムを鳴らしても返事がありませんでした。わたしは玄関のドアの取っ手を回して引きました。

 

 

 

 

 

意外にも開いていました。「こんにちは」顔を伏せながら声をかけました。A君が顔を出しました。以前より太り気味で生気のない感じがしました。

 

 

 

 

 

「やあ、こんにちは。久しぶりだね。近くまで来たので、ついでに寄ってみたよ」と挨拶しました。A君は驚きながらも、突然で非公式な訪問に気を楽にし、微笑みました。

 

 

 

 

 

「何してたの?」「はい、テレビを見ていました」と照れくさそうに答えました。「わざわざ」訪問したのではなく、「ついで」に立ち寄ったという了解をもつことで、お互いに構えがとれたのです。

 

 

 

 

 

A君自身、わたしが「ついで」でないことはわかっていたようです。そこまで気を遣って、「僕に配慮してくれたことが嬉しくて、このままではいけないと思った」と、その時の思いを後日話してくれたことがありました。

 

 

 

 

 

A君はたどたどしくコーヒーを入れてくれると、「この考えは間違ってませんかね」とボソボソ確認するように、その心境を語ってくれました。

 

 

 

 

 

「僕は周りにいる人たちからおとなしい、素直な、控えめな子、そして思いやりのある優しい子だと言われてきました。僕自身もそう思ってきました。

 

 

 

 

 

でも最近そうではないと思うようになったんです。僕は自分に対してものすごく抑圧的であることに気がついたんです。一見自己主張しているようで、どこかで親や大人、周りの人にとっての良い子であろうと、無意識あるいは意識的に努めてきたと思うんです。

 

 

 

 

 

たぶん、不登校になったのも、そのことに疲れてしまい、演じきれなくなってしまったからだと思うんです。相手や周りに、自分の状況を抜きにして合わせすぎたんだと思うのです。

 

 

 

 

 

人から頼まれても、嫌だと言って人間関係を壊すよりも、言うとおりやっていたほうがよかったのです。でも相手に気を遣って次から次へといい子でやっていくには、僕の能力の限界を超えていました。

 

 

 

 

 

結局後で、引き受けなければよかったとか、自分の納得いく方向に進まなかったとかで愚痴ることになるんです。腹の中では、不平不満といい加減な自分にうんざりしていたんです。

 

 

 

 

 

僕も「人並み」に生きたいんです。僕が僕らしく自信を持って生きる、そのためにはどうしたらいいのか。僕はこのことに気づくのに二年かかりました。

 

 

 

 

 

そしてこの頃、これから先のことばかり考えていたんです。もちろんすごく不安です。そんな僕を父も母も見抜いていたと思います。

 

 

 

 

 

おどおどしている自分を隠そうと、母に乱暴な言葉を何回も浴びせていました。どうかしてますよね、僕は」A君は言葉を何回も選びながら、一つ一つ区切るように語ってくれました。

 

 

 

 

 

そして、このA君が語った話の内容は、その後に関わった多くの子どもたちからもわたしは聞きました。実に、それは真摯な言葉でした。

 

 

 

 

 

ただ最近、これほどまでに他人と自分を見つめて葛藤している若者との出会いが少なくなった気もします。

 

 

 

 

 

約二時間話し込むとA君は、「タイミングですね。今の自分に変化を与えなければと、夏に入ってから毎日ずっと考えていたんです。でも、そう家族に宣言したり、行動したりすることが恐かったんです。

 

 

 

 

 

言ったら後に引けないし、家族も期待するでしょ。それに、今ひとつ踏み出せなかったのは、自分にそれだけの力があるとは思えないし、親にこれ以上の迷惑をかけたくない、と思っているうちに自分で決めたチャンスの日を何回も延長してきたからです。もう延長戦はないですよね」とわたしに同意を求めてきました。

 

 

 

 

 

返答に窮したわたしは、「延長戦は何回あってもいいんじゃないかな。その回は終わっているんだから・・・・・。むしろ仕切り直して延長戦があるから希望もあり、生きていけるんじゃないかな」とわけのわからないことを言っていましたが、どこかA君なりに納得していたようです。

 

 

 

 

 

こうして十数年前、A君は当時開いていたフリースペースに顔を出すことになり、同世代の仲間と共に歩むことになりました。その翌年の春、A君は定時制高校に入学しました。

 

 

 

 

 

しかし、そこは彼の想像していたよりも厳しい世界でした。綱渡り的人間関係に、友人を見つける前に退学することに決めました。

 

 

 

 

 

そしてその帰り道に本屋さんでアルバイトの広告を見て、働くことになりました。「自分でも驚くほど行動的だった」といいます。

 

 

 

 

 

「親をこれ以上頼ってはいけない、と思うとともに、どこかに身を置きたい」と焦ってもいました。十八歳になると、友人たちの進学の噂が耳に入ってきました。

 

 

 

 

 

「同世代に遅れたくない。なぜ僕だけ十五歳の中卒のままでいるんだ」という気持ちは、抑えきれるものではありませんでした。高卒認定試験を受験しましたが、数科目に合格したのみでその他は全滅でした。

 

 

 

 

 

「これで大学に入れるわけがない。もう一度、高校に入ってやり直そう」と彼は思いました。その頃A君は、アルバイトをやっていたこともあって、関東自立就労支援センターにはほとんど顔を出してはいませんでした。

 

 

 

 

 

ただ、月に一度開かれる親子例会に何回か出席していました。わたしもA君に会うのはこの時ぐらいになっていましたが、不安になると電話をしてきたり、直接自宅に訪ねてくることもありました。

 

 

 

 

 

十九歳で大学付属高校の通信制課程に入学しました。「通信は自分に合っていた。やるもやらないも、すべては自分の責任でした。そして何よりもよかったのは、月二回のスクーリングが友だちづくりの下手な僕には合っていました」

 

 

 

 

 

スクーリングでできた友だちと休日に会うことも増えました。この一年間、アルバイトをやめて通信制の学校のリズムを体に慣れさせたようです。

 

 

 

 

 

二年生になると、A君はわたしの知り合いの会社で働くことになりました。「この頃から、俺はすごいじゃないか。これだけ”まわり道”したのになんとかやっている、と自分に自信が生まれてきました。自分がかわいく思えてきました」といいます。

 

 

 

 

 

二十二歳で四年間の通信制高校生活とアルバイト生活を終えて、A君は大学を目指しました。「本当は一部(昼間)に行きたかったのですが、やはり実力がありませんでした。受験勉強も好きになれなかったし、親にも負担をかけたくなかったので二部(夜間)に推薦で入りました」

 

 

 

 

 

アルバイト生活を続けながらの四年間でした。A君はとにかく一つだけ守ったといいます。それは遅刻しないで行くことです。

 

 

 

 

 

仕事の中身とか、授業の内容とかを考えるよりも、自分にできることは時間を守ること、そのことに存在価値を持たせていたようです。

 

 

 

 

 

「不器用な僕には、それしかありませんでしたから」と、当時を顧みます。そして、「大学を出たのに」という親の声を背に受けながらも、ある駅前のレストランでウェイターを始めました。

 

 

 

 

 

アルバイト気分のつもりで入った店でしたが、今はアルバイトを指導する身となって、その日のスタッフの配置に苦慮している毎日のようです。

 

 

 

 

 

「今日から息子も社会人となりました。アルバイトから、社会保険を受け税金を払い続ける正社員の身となりました。まだ多少の不安もありますが、息子を信じて見守っていきたいと思います。ご迷惑をおかけした時期が嘘のようです」と、二十七歳になったA君のお母さんから電話をいただいてからもう八年が経過しました。

 

 

 

 

 

今、A君は夫として父親として、店の近くのマンションに住み、職場の中心的働き手として活躍しています。

 

 

 

 

 

「最近、やっと不登校の自分から卒業した気がします。二十代を生きる一人の平凡な若者ですね。そしてちょっとクサいけど、自分一人で生きているんじゃないということがわかってきたような気がします。

 

 

 

 

 

たぶん僕も関東自立就労支援センターのスタッフの方やアルバイト先の社長さん、通信制高校で知り合った同じ境遇の友だちと出会うことがなかったら、今でも家の中に引きこもっていたと思います。

 

 

 

 

 

紙一重って言いますよね。本当にそう思いますよ」と、ある日、正社員として就職した一年目の思いをA君は語ってくれたことがありました。

 

 

 

 

 

別れ際、彼は恥ずかしそうに「名刺ください。これ、僕の名刺です」と言って、両手で丁寧に名刺を差し出してくれました。

 

 

 

 

 

「フロアマネージャー、大変だね」

 

 

 

 

 

「ええ、小さな店ですが、がんばっていこうと思います」

 

 

 

 

 

雨が降る中、この名刺を見ながらわたしはA君との十数年間に思いを馳せて、「大人になって・・・・・」と感傷的につぶやいたことを思い出します。

 

 

 

 

 

 

そして、A君の名刺を宝物のように大事に財布に入れました。

 

 

 

メニュー

過去の記事

団体概要
団体名
関東自立就労支援センター
理事長:
大橋秀太
理事:
大畑健太
理事:
杉下真理
住所
東京都東久留米市浅間町1-12-9
TEL
042-439-4355
メール
ki6jt7@bma.biglobe.ne.jp
活動内容
・若年者の就労支援、
 学習 支援、生活訓練
・共同生活寮の運営
・教育相談の実施
・各種資格取得支援