ひきこもり~手のかからなかった子どもが・・・・~
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ひきこもり~手のかからなかった子どもが・・・・~

手のかからなかった子どもが・・・・・・

 

 

 

 

 

Aは長男で小さい頃からおとなしく、ぐずったりわめいたりしたことがありませんでした。二歳の頃、唐紙をパーッと引き破ったときには、こんなに子どもらしいいたずらをする面があるんだと嬉しくなって、思わず写真を撮ったほどです。三歳下の弟のほうがずっとやんちゃでした。

 

 

 

 

 

関西の地方都市に住んでいましたが、Aは中学受験のために小学校六年から電車で塾に通いました。私たち夫婦は、子どもたちに特に高い望みを抱いていたわけではありません。

 

 

 

 

 

ただ私自身、教育ママの先端をいく母親のもとで私立の一貫校で中学から大学へとエスカレート式に進み、夫も私立小学校から国立大付属中学、公立進学校、大学への道を進んだので、中学は受験するものと自然に思っていました。

 

 

 

 

 

親を対象にする塾の講座で偏差値ばかりを問題にする方針に疑問は感じましたが、だからといってほかにどうしたらいいのか、深く考えませんでした。

 

 

 

 

 

低学年のときのIQが100より少し上くらいだったAの成績が、六年のときには五段階中最高に上がったのは受験勉強のおかげだと思いました。たいした苦労もなく、それなりの私立中学に合格することができました。

 

 

 

 

 

Aが中学二年になるときです。夫の転勤で実家のある東京に戻ることになりました。一人娘の私は、老いてきた両親のことが気になっていたので、願ったり叶ったりでした。

 

 

 

 

 

次男は「引っ越しは嫌だ」と駄々をこねましたが、Aは東京に憧れていたので、すんなりと公立中学に転校しました。勉強はしなくてもトップクラス、生徒会の役員にもなり、転校によって何か困ったことがあるようには見えませんでした。

 

 

 

 

 

運動系の部活に入り、むしろ毎日楽しそうでした。Aの初めての挫折は高校受験でした。夫の出身校である公立進学校にわずかの点で入れなかったのです。

 

 

 

 

 

Aは仕方なく滑り止めの私立高校に一時間半かけて通うようになりましたが、特にやる気をなくしたようにも見えず、淡々と高校生活を送っていました。

 

 

 

 

 

第二の挫折は大学受験でした。やはり夫の出身大学を第一志望にしたのですが、第二志望にも落ちました。第三志望には受かりましたが、本人は浪人すると言いました。

 

 

 

 

 

しかし、入学金納入の締切日前日、高校の担任から電話があり説得されて入学を決めました。Aが大学を辞めたいと言い出したのは二年の冬です。

 

 

 

 

 

その前年、次男のBも高校を一年で中退していました。高校に入学して間もない五月に、Bは青ざめた顔で早退してきました。理由はわからなかったものの、ただならぬ様子にとても学校に行けとは言えない状態でした。

 

 

 

 

 

当時、私はカウンセリングの勉強を始めていましたので、自分の先生に相談しましたが、「子どもの問題は一人ひとり違うから何とも言えない」と言いました。

 

 

 

 

 

高校の担任とも相談して休学の手続きをしましたが、夏休みには日本中を自転車旅行し、秋には高卒認定試験の予備校に通いだし、英語を勉強するためにオーストラリアにも行き、たくましく自分らしく生きていました。

 

 

 

 

 

Aが大学を辞めると言い出したときも休学を勧めましたが、自分で退学届けを出してきました。彼にとって初めての自己決定でした。

 

 

 

 

 

夫は仕事人間でほとんど家におらず、子どものことは私任せでした。子どもが小学校の頃までは一緒にハイキングや山登りをしていましたが、自分の子どもの時の経験から、それ以降の年代になれば親はもう関わらなくていい、関わるとむしろ害になると考えていたようです。

 

 

 

 

 

子どもたちが不登校になっても「学校に行け」とは言いませんでしたが、怠けているという受け止め方で冷たい目で見ていました。

 

 

 

 

 

Aが大学を辞めて一年後、その夫が家を出てしまいました。こんな時に父親までも家を出るとは考えられないことでしたが、夫は、「自分は一人で大きくなった。子どもたちのこの状態は、親のせいではない」と気にもしない様子でした。

 

 

 

 

 

私は納得がいかず途方に暮れ困りはてましたが、わが家に何が起きたのかを理解するためにも、ちょうど勧められていた相談員の仕事を引き受けることにしました。

 

 

 

 

 

Aはそのころ海の家で働いていました。休みで家に帰ってくると、父親はいなくなっていたのです。「海の家でこれまで会ったことのない、いろいろな人と知り合っておもしろかった。そういう話を両親に聞かせようと帰ってきたけれど、お父さんはいない、お母さんは僕の話を聞けるような状態ではない。僕はこの家にいてはいけないような気がした」そうです。

 

 

 

 

 

わが家の異様な雰囲気を感じ取って海の家に戻りましたが、そこでの人間関係がうまくいかなくなり、次の仕事を仲間から紹介されていたにもかかわらず、シーズンが終わって家に戻ってきてからは、外に出ることはなくなりました。

 

 

 

 

 

八年間のひきこもりが始まったのです。二十二歳でした。Aの生活はだんだん昼夜逆転になり、不機嫌で怒りっぽく怖い存在になってきました。

 

 

 

 

 

その頃私が分かっていたことは、「Aのありのままを受け入れ、文句は言わないが、その不機嫌さに巻き込まれない」ということでした。

 

 

 

 

 

不登校の権威と言われていた専門家の相談会にも参加しました。大学の教授でもあった彼は、病気という言葉を使い、「治療の対象だ」と言いました。

 

 

 

 

 

私は思わず「病気なんですか?」と聞き返しました。そこでは、十年以上も親子でカウンセリングを受け続け、息子は大学院まで出たが仕事には就いていないといった話はありましたが、うまくいった人の話はありませんでした。

 

 

 

 

 

親たちは専門家に頼ってばかりで、自分を問う姿勢はありませんでした。自分と子どもの問題を人に預けるのではなく、自分のやり方で探っていくしかない、と私は腹をくくりました。

 

 

 

 

 

Aは昔のアルバムを引っ張り出しては、あのときはこうだった、ああだったと夜通し話につき合わせ、くどくどと私を責めたてました。

 

 

 

 

 

理不尽な非難もあり、当惑し、怒りも覚えました。友人に話をし、自助グループで自分の思いを出し、仕事仲間に相談し、本を読み、講演会に行きながらわが家で何が起こり、どう対応したらいいのか悩み続ける毎日でした。

 

 

 

 

 

もがいているうちに、仕事柄もあり、ようやく少しずつAの話が聞けるようになりました。AとBは普段は仲がよくないのに、私についての不満を言うときだけは話が合いました。

 

 

 

 

 

Aは、「お母さんが、おばあちゃんとお父さんとの間で困り果てているのを見て、これ以上困らせてはいけないと思ってずっといい子にしてきた」と言うのです。

 

 

 

 

 

子どもが小さい頃、実家の母は毎月のようにリュックに食料品やおもちゃを山のように詰め込んできては、狭いわが家に一週間ほど泊まっていきました。そして、夫に何の遠慮もなく私たちを連れまわしました。

 

 

 

 

 

子どもとばかりいる生活の中で、私にとってそれは気晴らしになっていました。母が来ていると、夫はさらに遅く帰るようになりましたが、不倫をしている夫にもある意味で好都合でした。

 

 

 

 

 

そのころの私は、疑いを持っていても、夫の不倫に対峙することは怖くてできなかったのです。後の夫の告白によると、当時は夫も「浮気」と位置づけていたようで、のらりくらりとはぐらかしていました。

 

 

 

 

 

感受性の強いAは、家族のおかしさを敏感に感じ取っていたのでしょう。どうすることもできない思いや感情を、そっと小さな胸にしまい込んだのです。

 

 

 

 

 

「お母さんのように正直に生きられないし、お父さんのようにも生きられない」とも言いました。

 

 

 

 

 

夫はエリート志向の強い家庭に育ち、常に一つ違いの弟と比較されながら育ちました。夫の母親は素朴な人でしたが、彼が東大に入れなかったことで「失敗した息子」と言っていたのを聞いて驚いたことがあります。

 

 

 

 

 

夫は父親に反発しながらも、一流高校、一流大学へと進み、大手企業に勤めていました。仕事にやりがいも感じており、猛烈社員そのものです。

 

 

 

 

 

海外に出張して疲れきっていても、翌日には時差などものともせず朝早く起きて出社します。子どもたちと夫との間に会話はほとんどなく、ガチャンとドアを開ける鍵の音がすると、子どもたちはサーっと自分の部屋に引きあげるような関係でした。

 

 

 

 

 

夫は野球好きで、幼い頃Aをキャッチボールに連れ出すことがありました。運動神経が良くなかったAは、うまくボールが取れません。すると夫はイライラして、ボールをぼんぼんAに投げつけたそうです。

 

 

 

 

 

家ではテレビも堅苦しい教養番組ばかり見て、いかつい顔でむっつりしている夫は、子どもたちにとって息苦しい存在でした。

 

 

 

 

 

Aが自分の生き方を探し始めたとき、良くも悪くも大きな壁だった父親は家を出ました。これで父親の姿には、Aは納得がいったようです。

 

 

 

 

 

「親父のことはこれではっきりしたが、お前の正体は分からない」。Aが私に投げつけたこの言葉は、今でも私の胸に突き刺さっています。

 

 

 

 

 

そのころ、弟も自分の道を探すのに必死、母親は経済的、精神的自立を迫られ不安定、混乱しているAを誰も支えることができませんでした。

 

 

 

 

 

感受性が強く、自分を殺してでも周囲との調和を取ってきたAは、調和を取ろうとする相手も不安定だったため、自分の居場所がつかめなかったのです。

 

 

 

 

 

父親と同じように生きることはできないし、父親みたいな生き方もしたくない。では、自分はどうするか、という像を作ることができなかったのです。

 

 

 

 

 

Aがひきこもっている間、「これはAにとって必要な時期なんだ、私はAに巻き込まれないようにしよう。自分ができないことをAに期待することはやめて、自分のことに専念しよう」と、何度も自分に言い聞かせました。

 

 

 

 

 

Aが不機嫌でも、明るい声で「ただいま」と声をかけ、「今日のご飯は肉じゃがよ」と、普通に振る舞うよう気を配りました。

 

 

 

 

 

Aにはいつか自立してほしい。そのために彼が家でできることは何かと考え、家事を覚えてもらうことにしました。自分一人のときの食事はもちろん、生協の注文や荷物取りなども、班の人に協力してもらってAが担当することにしました。

 

 

 

 

 

そんなふうにいろいろ工夫しても、Aとの生活はストレスに満ちたものでした。何か気に入らないことがあったとき、カッとなって私に殴りかかったこともあります。

 

 

 

 

 

「暴力は振るっている子ども自身が一番傷つく。だから絶対に振るわせてはいけない」と、先輩カウンセラーに聞いていましたから、グッと体に力を入れて、それでも内心震えながら、「やれるもんなら、やりなさい」と、頑とした声で言いました。

 

 

 

 

 

それ以来、暴力を振るうことはありませんでした。Aと弟との関係も難しいものでした。高校を中退した後、バイトで自活している弟は、「兄貴は何をもたもたしているんだ」とAを非難します。

 

 

 

 

 

するとAはひっくり返り、体全体がガタガタ震え始めます。毛布でしっかりと抱きしめてやって、その発作のような状態がおさまるのを待つのです。

 

 

 

 

 

神経症状になって同じ行動を繰り返したり、Bの部屋のものを壊したこともあります。いかに巻き込まれないように努力しても、一緒に生活することは大変です。

 

 

 

 

 

私は、自分自身の思いや感情を大事にすることの大切さをセラピーの勉強で学んでいましたし、親殺しや子殺しのニュースを耳にするたびに、家族の解体を念頭に考えていました。

 

 

 

 

 

Aがひきこもってから五年後、ついに私は家を出てアパートを借りました。五十歳にして初めての一人暮らしです。するとある夜、Aから切羽詰った声で電話がありました。

 

 

 

 

 

「今、ナイフで手を切ってしまいそうなんだよ。怖いんだ」「ナイフを放しなさい。すぐ今から行くから」「放したよ。来なくてもいいよ」

 

 

 

 

 

本当は来てほしいのではないか、行かないで何かあったらどうしよう、行ったら信用していないと怒るだろう、とどうすべきか迷いました。

 

 

 

 

 

結局、Aの言葉を信じることにしました。彼が私との間に引いた境界を越えないようにしよう・・・・・・と。

 

 

 

 

 

成人した子と親が離れることは大切なこと、と理性では納得できていたけれど、「不安定な青年期に親が離婚するなどの迷惑をかけたから」という罪の意識で、離れていても不安感をぬぐうことはできませんでした。

 

 

 

 

 

Aが自分から動き出すのを待とうという気持ちではいましたが、現実には限界がありました。母子三人の生活を考えると、いずれは家を売らなくてはいけません。

 

 

 

 

 

そこでお金を計算して何年までは家にいられるが、その後は家を出て自立してほしい、とAには告げてありました。実際そうせざるを得なかったし、Aに動き出す枠を与える意味もありました。

 

 

 

 

 

期日の年になり、不動産屋やお客が家を見に来るようになって、Aは彼なりに自然と社会との接点を持つようになったのです。

 

 

 

 

 

Aが一人で家を見つけられるとは、私は思っていませんでした。ところが、Aは自分で不動産屋に行き、アパートを見つけてきたうえに、引っ越しの段取りまで立てました。細々と交流の続いていた中学時代の友人に手伝ってもらったのです。

 

 

 

 

 

家を出るまでの一つひとつの過程で、Aが人と交われることが分かり、どれほど嬉しかったことでしょう。アパートに住むようになってから、テニスを習いたいとも言いだしました。

 

 

 

 

 

これまでの生活を考えると、何かをしたいと言うこと自体に意味があることに思え、私の乏しい稼ぎから授業料を出してやることにしました。

 

 

 

 

 

現在、家を出て二年たちますが、レストランのウェイターの仕事が一年以上続いており、テニススクールで知り合った人たちとのプレイを楽しみにしています。

 

 

 

 

 

「ずっと親を責めていたけれど、何もいいこともないし、展望もないこともわかった」と言います。いまだに自分の母親を許せない私の一歩先をAは歩んでいるように思えます。

 

 

 

 

 

Aは高校のときには「バイトをしたい」、大学生になってからは「家を出たい」と言いだしましたが、どちらも夫ははねつけました。今思えば、これは自立への欲求だったのです。

 

 

 

 

 

「Aのしたいようにやらせてあげればいいのに」と内心思っていたのに、私は夫に翻意を促すことはできませんでした。

 

 

 

 

 

夫は私よりずっと知識も思考力もあり、社会のことも知っている、男のことは男自身が分かっているから、と私は自分で考えることを放棄していたのです。

 

 

 

 

 

子育ての根っこについても同じです。のびのびと育ってくれれば良いと思っていたので、子どもの生き方に干渉したつもりはありませんが、何が大切かも分かっていませんでした。

 

 

 

 

 

私自身は染織に夢中になったり、自分の生き辛さからセラピーを学んだりと、自分が生き延びることばかり考えていました。

 

 

 

 

 

自分に都合よく、「子どもは親の後ろ姿を見て育つ」と考えていた私は、ただただ自分に一生懸命なだけで、男の子であるAやBのことは、夫が考えてくれていると思っていたのです。

 

 

 

 

 

その上、自分があまり考えていないことや、分からないことを自覚せず、さも分かったような、できているような親面だけしていたのです。

 

 

 

 

 

子どもたちの幼い日、「自立できていない私が自立した男の子を育てられるのか?」と、一瞬頭をよぎった不安を封印した結果だったのです。

 

 

 

 

 

Aの自立を願っていましたが、わが身を振り返ると結婚するまでは実家の庇護のもとにあり、結婚してからは夫を頼って生きてきました。

 

 

 

 

 

自分ができないことを子どもに期待してはいけないと考えていましたが、生活費が稼げるようになり、アパートで一人暮らしを始めたのは、五十歳を過ぎてのことでした。

 

 

 

 

 

離婚やAのひきこもりによって、私はだいぶ変わりました。それまでの友人は、大学を卒業している人ばかりで、おしゃれな会話ができ、経済的にも恵まれていました。

 

 

 

 

 

すごく狭い世界で生き、そこに子どもを押し込めていたのです。けれどもAのおかげで、「人はどんな生き方をしてもいいんだ」、「こうあらねばならない、ということはない。現実の今ここにいる子どもを大事にすることが自分を大事にすることだ。家族はそれだけでいいんだ」ということが分かったのです。

 

 

 

 

 

Aがひきこもらなければ、自分が痛みを感じなければ学べなかったことです。

 

 

 

 

 

母と夫に振り回され、「自分」をつくってこなかった私に、息子の苦しみの一因があると思うと、彼に申し訳ない、という気持ちでいっぱいです。

 

 

 

 

 

二十数年一緒に過ごしてくれたことを子どもたちに感謝しています。二人の子どもが体を張って教えてくれたように思います。

 

 

 

 

 

この子たちがいたからこそ私が成長でき、少しだけ一人前に近づけたのです。

 

 

 

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