不登校・ひきこもり・ニート経験者のインタビュー~不登校からひきこもりへ~
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不登校・ひきこもり・ニート経験者のインタビュー~不登校からひきこもりへ~

現在、ひきこもり・ニート状態にある人たちのなかには、かつて不登校状態にあったという人がたくさんいます。

 

 

 

 

学校に行かない(行けない)という状態が続いた子どもたちの一部に、学校の生徒という肩書きを失ったあとも、進学、就職などの社会参加をせず、社会から身をひいて、引きこもり続ける人たちがいます。

 

 

 

 

東京都内に住むAさんもその一人でした。現在28歳ですが、今も図書館に通うほかは人や社会とのかかわりを持てずにいます。

 

 

 

 

Aさんの場合、小学校一年生のころから学校を休みがちになり、中学時代からは自宅にひきこもりがちになる生活がはじまりました。

 

 

 

 

それ以降は、一時期を除いて他人とコミュニケーションをとることを避けるようになり、就職を考えながらも実現できない状態が続いています。

 

 

 

 

Aさんとわたしは、Aさんが当支援センターに相談に来たことで知り合いました。

 

 

 

 

事情を知らない人が見れば、彼はまじめでおとなしく気の優しそうな普通の社会人青年に見えたことでしょう。

 

 

 

 

彼は質問に対し、丁寧に考えて回答してくれました。心の深いところを問う質問や、思い出しにくい質問をされたときには、何度も黙ってじっとうつむいたまま考え続けました。

 

 

 

 

それでは、インタビューの様子を記載していきます。

 

 

 

 

ではまず、Aさんのご家族の構成から教えてください。

 

 

 

 

うちは四人家族です。父親は六十六歳で、今も働いています。六年前までは飲食店に勤めていましたけれど、その後はビルの清掃とか四回ほど仕事を変えています。

 

 

 

 

母親は七十一歳です。八年前まではパートの仕事をしていました。四つ上の姉がいるのですが、十四年前に統合失調症を発病して今も通院中です。

 

 

 

 

小さな頃は、どんな子どもでしたか?

 

 

 

 

生まれたときは、東京の渋谷に住んでいました。家は木造アパートです。辺りは一人暮らしの青年や若い夫婦が多く住んでいた地域で、近所にはあまり子どもがいなかったような気がします。

 

 

 

 

幼稚園に入る前と幼稚園のころは、子供同士で遊んだ記憶がほとんどありません。

 

 

 

 

姉の友達の弟さんと何回か遊んだ記憶はあるのですが、それだけで・・・・。

 

 

 

 

遊び相手はほとんど姉でした。姉とは元気に遊んでいたと思います。

 

 

 

 

幼稚園というと、いまだに覚えているシーンがあるんです。最初にか通い始めたとき、母親が一緒にいてくれるという約束だったはずなのに気づくと母親の姿がなくて、砂利道を母親が走って帰っていくのを見つけて追いかけました・・・・。

 

 

 

 

幼稚園は正直、行きたくなかったですね。集団に入るのは初めてだったし・・・・。でも数ヶ月もすると、仲良しの友達ができました。

 

 

 

 

では学校に通い始めたころは、いかがでしたか?

 

 

 

 

地域の公立小学校に進みました。でも新しい友達になじめなくて、友達の輪にはいれませんでした。

 

 

 

 

幼稚園のときと違って、このときはうまく改善できなかったですね。なぜかはわかりませんが・・・・。

 

 

 

 

それでも一学期の間は学校に通い続けていました。夏休み明けの九月一日に、学校に行けなくなったんです。

 

 

 

 

夏休みで休んでいる間に、家のほうがいいなと思ってしまったんだと思います。

 

 

 

 

どういう意味で「いいな」と思ったのでしょうか?

 

 

 

 

・・・・・(黙ってしばらく考えた後)家のほうが安全だと思ったのだと思います。

 

 

 

 

何を守ろうとしていたのかは、自分のなかで整理できていなくて、まだわかりません。

 

 

 

 

学校に行きたくないというよりは、行けないという感じでした。

 

 

 

 

なぜ学校に行けないと感じたのかについて、今どうお考えでしょうか?

 

 

 

 

自分の性格が関係しているだろうと思います。内向的な性格です。クラスメイトと遊んだりしなかったですし、一人で家に帰って・・・・。

 

 

 

 

下校途中に、ほら穴があったんです。男の子が五、六人でそこで遊んでいたんですけど、僕だけは入っていけなかった。

 

 

 

 

入っていきたいとは思っていたんですけど・・・。周りで見ていた女の子たちから「A君は入らないの?」と尋ねられたことを覚えています。

 

 

 

 

僕が小学校に入った頃、姉は五年生になっていて、学校でいじめにあっていました。

 

 

 

 

姉自身が「いじめられている」と僕に話していましたし、服の背中にサインペンで「バカ」と書かれていたこともありました。

 

 

 

 

Aさんの場合、不登校は具体的にはどのような体験だったのでしょうか?

 

 

 

 

ほとんど毎朝、頭が痛かったり、おなかが痛かったりするんです。母親は「学校に行きなさい」と言いましたし、級友も毎日数人がドアの前まで来て「Aくーん、行こうよー」と声をかけてきました。

 

 

 

 

先生にそうするように言われていたんだろうと思います。母親から「行きなさい」と言われても、言い訳もせずらだ床に座って、ずっとひざを抱えていました。

 

 

 

 

自分の部屋などありませんでしたし、本当に頭やおなかが痛くて・・・・。心のなかで「行けない」と思っていました。

 

 

 

 

ただ、少しは学校に友達はできていたと思うんです。ときどきは一緒に遊んだりもしていましたから。

 

 

 

 

でも当時から、自分が相手に合わせているような感覚はありました。

 

 

 

 

ご両親はAさんに、どのような姿勢をとっておられたのでしょうか?

 

 

 

 

母親は学校側から勧められたようで、僕を何度か教育センターに連れて行きました。

 

 

 

 

バスで母親と一緒に行くと、男性の定年退職した元教師がいて、その人と二人でプレイルームでトランプやゲームをしました。

 

 

 

 

「学校へ行きなさい」とは言われませんでした。父親は、強硬に学校に連れて行こうとしました。

 

 

 

 

登校時間になると僕を学校まで引きずっていくんです。僕は泣いたり抵抗したりしましたけど、父親は怖い顔で僕の手をつかんで、地面を引きずるようにして校門まで引っ張っていきました。

 

 

 

 

僕が暴れてランドセルを背負えないから、ランドセルは後で母親が学校へ届けにきました。

 

 

 

 

学校は歩いて二、三分の距離でしたが、体が痛かったことを覚えています。

 

 

 

 

ただ父親は、口で「行け」とは言いませんでした。仕事への出勤時間の関係があったせいでしょうか。

 

 

 

 

父親が引きずっていくのは週一回ぐらいでした。その日はいやいや学校で過ごし、次の日はまた休むという繰り返しでした。

 

 

 

 

子どものころの父親の印象は、怖いというより嫌いという感じですね。

 

 

 

 

憎しみはありません。自分が悪いと思っていましたから・・・。

 

 

 

 

もし当時、毎日学校へ無理やりつれて行かれていたとしたら、やがて学校へ通うようになっていたと思いますか?

 

 

 

 

・・・・・小学校の頃の自分の通知表を調べてみたら、僕の登校率は小学一年の二、三学期が二十一パーセント、小二が二十六パーセント、小三は二十九パーセントで、四年生になると八十二パーセントに増えているんです。

 

 

 

 

父親が無理やり引きずっていくことも、このころにはなくなりました。

 

 

 

 

ただし、今思うと、学校へよく通うようになったころ僕には、強迫的な神経症症状に似たものが出始めたように思います。

 

 

 

 

下校中にギタースクールの看板を見ると、なぜか、そこに書いてある言葉を繰り返し、読まないと気がすまなくなってしまいました。

 

 

 

 

また「三」という数字を見たり考えたりすることが怖いと思えたりもしました。

 

 

 

 

だから、もし一年生のころにも無理に毎日通っていたら、同じような症状みたなものが出ていたのではないかなと思います。

 

 

 

 

当時、誰かに相談をしましたか?

 

 

 

 

いえ、誰にも相談していません。

 

 

 

 

逆に誰かがAさんの話をきいてくれることはなかったのでしょうか?

 

 

 

 

・・・親から「なぜ学校へ行かないんだ」と理由を聞かれた記憶はないです。

 

 

 

 

症状みたいなものは、しばらくすると自然に消えました。六年生になると欠席日は二日だけになりましたし、僕自身も克服したいと思っていました。

 

 

 

 

楽しさを感じていましたし。

 

 

 

 

では、中学での生活はどうだったのですか?

 

 

 

 

中学も公立でした。入学してすぐ、一年生のゴールデンウィーク明けに、また学校に行かなくなりました。

 

 

 

 

行かなかったというより行けなかったという感じです。休む始めた頃、「こうしていていいのだろうか」という焦りを感じていた記憶がありますから・・・・。

 

 

 

 

学校では、友達になじめないと感じていました。小学校の友人はほとんど隣の中学へ行ってしまいましたし、ちょっかいを出してくるようなやつもいましたし。

 

 

 

 

ちょっかいというのは、からかうような感じで、怒りを感じたりつらいと感じたりするものではありませんでした。

 

 

 

 

ただ快くはなかったですね。「会いたくないな」と感じていたように思います。

 

 

 

 

僕は、中学へ入っても大丈夫だと思っていたんです。小学校時代に自分は克服できたんだと思っていたので。

 

 

 

 

もう昔の話だと・・・・・。

 

 

 

 

中学では教室にいるとき、どんなことを考えていたのですか?

 

 

 

 

・・・・「休み時間をどうしたらいいか」と考えていました。やることはないし、居場所もないから・・・・。

 

 

 

 

楽しくなかったです。でもゴールデンウィークまでは毎日通っていました。

 

 

 

 

これは自分の性格の問題なんだろう、と思います。環境が変わるたびに、同じような問題が現れてくるのですからね。

 

 

 

 

幼稚園でも、小学校でも、中学校でも・・・・。対人関係のスキルやコミュニケーションの慣れの不足だと言われれば、それもその通りだろうと思います。

 

 

 

 

自分には、友達同士で遊ぶ経験が小さい頃からありませんでしたので・・・・。

 

 

 

 

でも、誰かをうらむ気持ちはありません。自分の性格ですから・・・。

 

 

 

 

その当時、毎日の生活ぶりはどうだったのですか?

 

 

 

 

家にいました。2DKのマンションです。母親はパートで働いていて昼間は家にいませんでしたから、僕は昼間はたいてい居間にいました。

 

 

 

 

自分の部屋もありませんでしたし・・・。朝起きて、夜は十二時くらいに寝ていました。

 

 

 

 

たいていは朝から晩までテレビを見ていたと思います。見ていたというよりは、つけっぱなしにしておいて、興味のある番組があったら見るという感じでしたけど・・・・。

 

 

 

 

グリコ森永事件があって、それはよく見ていた記憶があります。ゲーム機はありませんでした。

 

 

 

 

夕方になると外へ出て、用もないのに一時間くらい、近所で自転車を乗り回していました。

 

 

 

 

今と違って、フリースクールもなかった時代ですよね。夜は家族と一緒にテレビを見たりしていました。

 

 

 

 

周囲の人たちは、今度はどのような対応されたのでしょうか?

 

 

 

 

父親はもう学校に行けとは言いませんでした。基本的には無関心だったと思います。

 

 

 

 

学校の教師は干渉してきませんでしたし、級友がくるようなこともありませんでしたから、学校との縁はほとんどなくなりました。

 

 

 

 

母親は逃避的でした。時間が解決するとでも思っているようでした。

 

 

 

 

また教育センターに通い始めたんですけど、そのセンターにも、用がないのに「用がある」と言って行くのを断ったり、姉の病気を隠したり・・・・。

 

 

 

 

僕のことを心配はしてくれていたと思うんです。放り出しちゃおう、という態度とは違いました。

 

 

 

 

でも、逃避的に見えて・・・・。きっと、働きかけても効果を期待できないという、あきらめの気持ちなんだろうなと思います。

 

 

 

 

対人関係や世間とのかかわり、いわゆるひきこもりの度合いがどう変わっていったのか、について教えてください。

 

 

 

 

中学一年のゴールデンウィーク明けに学校に行けなくなって、初めの数ヶ月はあせっていました。

 

 

 

 

「学校へ行かなくちゃ」と・・・・。さっきも言ったように、初めのころは夕方になると外へ出て、自転車で用もなく走り回っていました。

 

 

 

 

ただ、昼間には外に出ませんでした。やはり心理的に抵抗があったからです。

 

 

 

 

昼間はみんなが学校へ行っている時間でしたから、「外でうろうろしていると他人に問いただされるのではないか」とか「他人から悪く見られるんじゃないか」とかいう漠然とした不安がありました。

 

 

 

 

誰かが実際にAさんを責めたりしたのでしょうか?

 

 

 

 

・・・・自分が自分を責めている、という感じでした。何が悪いのかは、今でもはっきり整理できてないですけど、あのころは漠然と「今の自分はだめだ」と思っていました。

 

 

 

 

なるほど・・・・。夕方だけ外へ出るような生活ですが、その後、どうなりましたか?

 

 

 

 

しばらくたってから、自転車で夕方に走っているときでさえ、周りの人たちの目が気になるようになってきてしまいました。

 

 

 

 

走っていて、向かい側から通行人が来ると、角を曲がってしまったりするようになりました。

 

 

 

 

信号待ちをしていても、反対側に立っている人の目が気になったりするんです。

 

 

 

 

その年の九月になるころには、僕は汗かきだったので、「涼しくなってきたのに僕だけ汗をかいていることを周りの人はおかしいと思うのではないか」という心配も始まりました。

 

 

 

 

そうなると、「こんなしんどい思いをしてまで、用もないのに外へ出ても仕方がないじゃないか」と思うようになっていきました。

 

 

 

 

結局、自転車での散歩もしなくなって、家にほとんど閉じこもるようになりました。

 

 

 

 

無気力で、問題を解決しようという気もなくなっていきました。

 

 

 

 

不登校の経験者に話を聞いている最中に、不登校当時の心理として、「みんなが学校に行っている昼間の時間帯は、家の外に出ることができなかった」という言葉を聴く機会は多いです。

 

 

 

 

理由として多いのは、Aさんが語ったように「周りの人から悪く見られるのではないかと思えて不安だった」といったことでした。

 

 

 

 

ただし、わたしの印象では、近所の人から実際に「こんな時間に学校に行っていないなんておかしいじゃないか」とか「なぜ学校へ行っていないんだ」と言われた経験のある人は少数派です。

 

 

 

 

Aさんもそうですが、こうした場合、学校へ行っていない当人をもっとも責めているのは実は当の本人だった、という場合が多いということです。

 

 

 

 

つまり彼(彼女)は、自分の内にある社会的規範によって責められているのです。

 

 

 

 

評論家の芹沢俊介氏の言葉を借りれば、「社会規範に浸透された自己」

 

 

 

 

によって責められている、ということになるのでしょう。今から三年前のことですが、「悲しいことにほかの誰でもなく自分自身が「ひきこもり」を肯定していないんです。」というひきこもり経験者の言葉を聞いたことがあります。

 

 

 

 

学校に行くべきだ(社会に出るべきだ)という内なる規範と、学校に行けない(社会に出られない)という現実の自分との間に起こる葛藤、当人にとっての大きな問題は多くの場合、ここにあるのだと思います。

 

 

 

 

ですから基本的には、親や周囲が「学校へ行かない(社会に出ないのは)だめなことだ」という批判を実際には浴びせていない場合でも、当人が自身の内面にこうした葛藤を抱えて苦しんでいる場合はありうるとみたほうがいいかもしれません。

 

 

 

 

無気力なままのひきこもり状態は、どのくらい続いたのですか?

 

 

 

 

中学二年の終わり頃、意欲がわいてきました。このころから見るテレビ番組の傾向に変化が出てきたんです。

 

 

 

 

初めは手当たり次第だったのが、報道番組とかドキュメント番組とかを見るようになってきて、だんだんと社会的なものに関心が出てきました。

 

 

 

 

それまでは、高校とか先のことは考えていなかったのですが、高校へ行きたいという気になって、そのとき考えたのは私立の鉄道関係の高校でした。

 

 

 

 

小学校のころから鉄道が好きだったせいです。中学二年の終わりに僕はテレビで国鉄の分割民営化の報道を見て関心を持ったのですが、それももともと鉄道好きだったからです。

 

 

 

 

ローカル線が廃止されることが嫌だったんです。それをきっかけに、電車が消えていく問題とか自動車社会の問題とかを考え始めました。

 

 

 

 

公害のこととか、交通事故のこととか・・・・。

 

 

 

 

社会問題に興味を持たれたのですね。そのとき何をしたいと思いましたか?

 

 

 

 

本を買いたいと思いました。探したら家に一冊だけ、日本の近代史の本があったんです。

 

 

 

 

それを読んで僕は、戦前や戦中の社会主義者が戦争に反対していたことを知りました。

 

 

 

 

またそのころ家に日本共産党のチラシが入っていたんです。読んだら、共産党は分割民営化に反対しているようでした。

 

 

 

 

僕は、民営化に反対したいと思っていたし、共産党がかつて戦争に反対したいたというのも良いイメージでした。

 

 

 

 

だから、中学三年の五月ごろには、機関紙の「赤旗」を購読したい、集会にも参加したい、と思うようになっていました。

 

 

 

 

でも親には、赤旗を買ってほしいと頼めませんでした。図書館に行けば読めるだろうとは思っていたんですが、当時は外に出ることができなくて、それもだめでした。

 

 

 

 

外出というと、家の前が川の土手で夜になると人通りがなくなっていたので、そこで夜に散歩をすることはできましたけれど・・・・。

 

 

 

 

学校については当時、どう考えていましたか?

 

 

 

 

不登校の専門家たちが「不登校の子に登校刺激をしてはいけません」と言っていたせいか、ひきこもっている最中、学校からはなんの働きかけもありませんでした。

 

 

 

 

僕の中には当時「できれば学校へ行きたい」という願いがありましたから、「あのころ適切な登校刺激をしてくれていたらな」と思うことはあります。

 

 

 

 

なにしろ、学校がどうなっているのかが、さっぱりわかりませんでしたから。

 

 

 

 

Aさんがそのころに一番知りたかったことはどんなことだったのでしょうか?

 

 

 

 

・・・「学校や級友が僕のことをどう思っているのか」です。情報がまったくなくて判断のしようがなかったですから。

 

 

 

 

自分がどのように思われていると思っていたのですか?

 

 

 

 

悪く思われているだろうと思っていました。ただ、全員でなくてもいいから、僕を待っていたという感じでなくてもいいから、そこそこ普通に受け入れてくれる余地があってくれたら、と思っていました。

 

 

 

 

そういうことがわかったら学校に行けたかもしれない、と思います。

 

 

 

 

ただ当時は、学校やクラスにそんな余地はないだろうと思っていました。

 

 

 

 

不登校の存在や実像が知られるようになったため、学校に行かない子を親や教師が無理やり引っ張っていくような図は近年、ほとんど見られなくなってきました。

 

 

 

 

文科省は不登校を「どの子にも起こりうる」と認め、世間では学校以外のフリースペースなどで過ごす子どもたちの生き方にも理解が広がりつつあります。

 

 

 

 

ですがその一方で、近年、不登校の子どもたちを小・中学校の教師がまったくかまわなくなった、放任して顧みなくなったという弊害も指摘され始めています。

 

 

 

 

子ども本人の望まない家庭訪問を教師が押し付け的に繰り返すような例は論外だとしても、Aさんの訴えからこうした弊害への反省点を汲み取る必要はあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

教育学者の佐藤学・東京大学教授は、著書「教育改革をデザインする」(岩波書店)のなかで「行政に必要なことは、学校に行けない子どもに対する学習権の保障」であると述べています。

 

 

 

 

「アメリカなどでは、不登校が生じた場合には、まず親の責任が問われ、それでも解決されないときは、子どもの学習権を保障するために、家庭を訪問して公教育を保障する教師が派遣されることになる」と佐藤氏は言います。

 

 

 

 

行政や教師が「学校で学ぶのか学校以外の場で学ぶのかは子どもの選ぶことだ」という場合、それは個々の子の自律的な生き方を保障する姿勢につながりうる反面、ときには大人が体よく大人としての責任を回避する姿勢(つまり無責任)にもつながりうる危険があるとわたしは思います。

 

 

 

 

不登校について、公教育をどうしたら保障できるかという視点から考えてみることは、行政や学校のあり方、ひいては大人のあり方をより深く議論するための足がかりになるでしょう。

 

 

 

 

高校はどうされたのですか?

 

 

 

 

受験もしませんでした。本当は、中学二年の終わりごろには「高校へ行きたい」と思っていましたけど、親に「受験したい」とは言わなかったんです。

 

 

 

 

もし言えば、親は喜んだだろうと思いますが・・・・。

 

 

 

 

希望を親に言わなかったのは、なぜだったのですか?

 

 

 

 

・・・・話す機会がないというか、話す習慣がないというか・・・・。家のなかでもコミュニケーションはあまりありませんでしたから・・・・。

 

 

 

 

当時は親とは、晩御飯は一緒に食べていましたし、雑談はしていました。

 

 

 

 

でも、大事な話はしていなかったです。親もぜんぜん、聞いてこなかったですし・・・。

 

 

 

 

なぜかはわかりません。

 

 

 

 

家からの外出の度合いは、どう変わっていったのですか?

 

 

 

 

中学三年の冬には、夜の川の土手での散歩もやめてしまいました。寒かったのと、パトカーが気になったせいです。

 

 

 

 

このころからは本当に外に出られない状態でした。中三のときには、姉が統合失調症になって一ヶ月入院することも起きました。

 

 

 

 

回復したのですが、僕が十七歳のときに再発しています。母はパートで働いていたので、家にいる姉の面倒は僕が見ることになりました。

 

 

 

 

ほとんど付きっきりです。姉が、そばにいてほしいと訴えるからです。

 

 

 

 

トイレに行っても呼ばれたりしました。

 

 

 

 

家にひきこもりながら看病する生活に変化が現れたのは、いつでしたか?

 

 

 

 

緊張とか恐怖とかを吹っ切るために。四股を百回踏んでから思い切って外に出たのを覚えています。

 

 

 

 

僕は当時、相撲のファンだったものですから・・・。

 

 

 

 

ある日、母親から「自動販売機でおねえちゃんのジュースを買ってきて」と頼まれたんです。

 

 

 

 

僕はそのとき「買いに行かなくちゃ」と思って、昼間だったのに外に買いに行きました。

 

 

 

 

いま思うと、そのころは、きっかけさえあれば外に出て行ける状態になっていたのでしょう。

 

 

 

 

その次の日から朝の散歩を始めました。ジュースの件で自信がついたんだと思います。

 

 

 

 

それからは少しずつ外出ができるようになりました。他人の視線へのこだわりも消えていきました。

 

 

 

 

その年の十二月に教育センターに呼ばれて、「外に出られるようになったので相談は終了です」といわれました。

 

 

 

 

元気を取り戻されたのですね。それからはどのような外出をしていたのですか?

 

 

 

 

外出をできるようになったころから自転車がほしいと思っていたのですが、実際に親に言えたのは翌年の8月でした。

 

 

 

 

でも言ってみたら、すぐに買ってもらえたんです。それで、すぐに図書館へ行きました。

 

 

 

 

本や「赤旗」を読むためです。そのころは姉も少し回復していたので、僕は朝から昼間までは毎日、図書館へ行っていました。

 

 

 

 

朝の散歩も続けていました。ただ、母親がパートに出ていましたので、昼からは姉の面倒を見る役割がありました。

 

 

 

 

外へ出ていきたいという気持ちはありましたけど、姉のそばから離れることが結局できなくて・・・。

 

 

 

 

休日だけは母親がかわってくれたので、青春18切符で日帰り旅行をしたことがありました。

 

 

 

 

他人とのコミュニケーションも生まれたのでしょうか?

 

 

 

 

図書館で赤旗を読み始めた直後に、近くの自治体で首長選があったんです。

 

 

 

 

興味があったし、委員長(日本共産党)の街頭演説があるというので見に行きました。

 

 

 

 

駅前に数十人の人だかりがあって「こんなに人が集まっているんだ」と新鮮な思いがしました。

 

 

 

 

民青の人が寄ってきて「どこの高校?」と聞かれたんですが、無職というのが恥ずかしくて答えられずにいたら、「定時制?通信制?」と聞かれるので仕方なく「無職です」と言いました。

 

 

 

 

「職を探しているの?」と聞くので、「探してません」と言ったら、「じゃあね」と選挙ビラを渡されて終わりです。

 

 

 

 

いま振り返れば、あのときにもしもっと勧誘されていればひきこもりから抜け出せていたかもしれない、と思います。

 

 

 

 

当時は、何かをやろうという意欲がありましたから・・・・。それからは、選挙の集会などへも足を運ぶようになりました。

 

 

 

 

自分から誰かに声をかけることはできませんでしたが・・・。

 

 

 

 

政治への関心は高まっていったのですか?

 

 

 

 

十八歳から、だんだんと共産党への不満が生じてきました。たとえば、東欧の社会主義国が崩壊していったことについて、なぜそうした誤りが起きたかを共産党が十分に説明しているように思えなかったんです。

 

 

 

 

失望を感じました。でも僕は当時、社会党にも新左翼にも納得できなかったですし、宗教も違うと感じていました。

 

 

 

 

ただそのうち、何も納得できるものがなかったせいだと思いますが、ヘルメットにマスクの新左翼に魅力を感じました。

 

 

 

 

顔を隠せるのもいいし、シュプレヒコールで人前で大声を出すという行為も魅力的でした。

 

 

 

 

警察にマークされるんじゃかいかとか抗争があるんじゃないかと心配もありましたけど、機関紙を新宿の書店で買って集会に出ました。

 

 

 

 

「デモしないか」と誘われたのでデモには参加しました。でも自分の名前を教えたのは三回目でした。

 

 

 

 

そのときは帰りに家の近くまで車で送ってもらったので、教えずにはいられなくなってしまったんです。

 

 

 

 

相手は市民団体を装っていましたが、中核派です。彼らとは何度か、それぞれ異なる場所で会いました。

 

 

 

 

会合の場所も日時も、メモに記録してはいけないといわれました。

 

 

 

 

自分の経緯も彼らに説明したのですが、不登校のことは言えたけど、ひきこもりのことは説明できませんでした。

 

 

 

 

当時は、あんな状態になっているのは僕だけなのだろうと思っていたので、人に説明する手段がなかったんです。

 

 

 

 

当時は、あんな状態になっているのは自分だけなのだろうと思っていたので、人に説明する手段がなかったんです。

 

 

 

 

彼らとは結局、待ち合わせ場所に誰も来なくて会えなかったのを機に数ヶ月だけで縁が切れました。

 

 

 

 

ただ、僕にとっては、そんな団体でも人間関係があってよかったんです。

 

 

 

 

今のようにまったく関係が無いよりは、中核派でも縁が続いていたほうが良かったと思います。

 

 

 

 

中核派と縁が切れた後は、どうなったのですか?

 

 

 

 

そのころ短期のアルバイトも考えたのですが結局、第一歩が踏み出せませんでした。

 

 

 

 

夜間中学の聴講生になる手もあると思ったのですが、それも行きませんでした。

 

 

 

 

当時はそれより「団体にこだわらずいくつか政治集会を回ってみれば、いつか納得できるところがみつかるかもしれない」と考えていました。

 

 

 

 

十九歳のころのことです。就職でいうと、それ以前にも考えたことはありました。

 

 

 

 

図書館に通い始めた頃、その図書館が夕方の数時間だけのバイトを募集していたんです。

 

 

 

 

でもカウンターでの対応ができないな、と思いました。他人とのコミュニケーションをしなければならないからです。

 

 

 

 

十九歳のころにはむしろ、「自分には働く前にやらなければならないことがあるんじゃないか」と感じていたと思います。

 

 

 

 

それが何かはわかりませんでしたけど・・・・。

 

 

 

 

では続けて、二十歳、成人になって以降の話をお願いします。

 

 

 

 

心理学の本を読んで、自分は心理療法を受ける必要があるんじゃないかと思いました。

 

 

 

 

ただ、自分の状態が何であるかは、読んでもわかりませんでした。

 

 

 

 

そのころはまだひきこもりというものを知らなかったからです。対人恐怖というのは紹介されていましたけど、自分はそれより重症だと思っていました。

 

 

 

 

その後、二十一歳のときに読んだ別の心理学の本に、心理学関係の援助者が登場していました。

 

 

 

 

最初は危ないかなとも思ったのですが、半年考えて、「ここに頼るしかない」と思い、連絡を取る気になりました。

 

 

 

 

僕の状態は何なのか、どこでどんな心理療法を受ければいいのかについて、アドバイスをしてほしかったからです。

 

 

 

 

でも実際には電話をかけたりすることができなくて、だめでした。

 

 

 

 

翌年には、会費三千円という心理学関係の団体の情報を知って、安いから入れるかもしれない、と考えました。

 

 

 

 

いざとなったら「変わりたくない」という気持ちが生じて半年ほど迷いましたけれど、十一月に思い切って入会金を送りました。

 

 

 

 

梨のつぶてでしたけれど・・・・。その後にもやはり心理学系の援助者のセミナーを知ったのですが、通うということに恐怖を感じていけませんでした。

 

 

 

 

Aさんは物事の起きた年月を本当によく記憶されていますね。

 

 

 

 

・・・・僕は経験というものが少ないから、記憶に残るんだろうと思います。

 

 

 

 

その間、就職や社会参加という問題とは、どう向き合っておられましたか?

 

 

 

 

ひきこもりというものを知る前は、ずっと焦りを感じていました。知ってからは、自分だけではないのだとわかって圧力が減った気がします。

 

 

 

 

就職については、二十代になって以降は具体的に考えたことはありません。

 

 

 

 

とにかく心理療法だと思ってきました。そのことを親に話したことはありませんが・・・・。

 

 

 

 

これは前にも言いましたけれど、今でも僕は「就職をする前にやらねばならないことがある」と思っているんです。

 

 

 

 

それはまずは、カウンセリングに通うことです。はっきりさせるために、整理するために・・・・・。

 

 

 

 

何を整理されるのでしょうか?

 

 

 

 

・・・えーと・・・・・。

 

 

 

 

・・・その間のAさんの生活ぶりは、どんな様子だったのでしょうか?

 

 

 

 

図書館に週に数回通う以外は、家にいました。友人はぜんぜんいません。

 

 

 

 

親御さんのことを改めて聞かせてください。Aさんのいう「逃避的な親」と、一般にいわれる「理解のある親」「受動的な親」とは、どう違うのでしょうか?

 

 

 

 

まあ・・・・・(うつむいて沈黙)。

 

 

 

 

親御さんに何を求めておられたのでしょう?

 

 

 

 

うーん・・・・(沈黙)。

 

 

 

 

たとえばしかってほしかったのでしょうか?

 

 

 

 

いえ・・・・(沈黙)。

 

 

 

 

一緒に遊んでほしかったとか?

 

 

 

 

いえ・・・・(沈黙)。

 

 

 

 

何だったのでしょうね、何かの努力でしょうか?

 

 

 

 

ええ、まあ・・・・(沈黙)・・・・あまり期待してなかったというか・・・・「してほしい」というの、特になかったんです。

 

 

 

 

期待をしていなかったとすると、Aさんから見て、お母さんは何から逃避しているように見えたのでしょうか?

 

 

 

 

時間が解決すてくれるのを待つというか・・・・。いま毎月、保健所で姉と同じ病気を持つ人の親が集まる家族会があるんですけど、母親はそれにも一度も行かないですし・・・・。

 

 

 

 

行くべきだろうと思うのですね?

 

 

 

 

行ったほうがいいと思うんですけど・・・・。

 

 

 

 

Aさんからお母さんに、そういう考えを言ったことはありますか?

 

 

 

 

ないです。言えない・・・・・。表面的なことしかいえないんです。

 

 

 

 

表面的とはどういうことですか?

 

 

 

 

本音を言えないということです。小さい頃から本音は言わなかったです。

 

 

 

 

中学三年のとき、「赤旗」を読みたいと思ったときも結局、親には頼みませんでしたし。

 

 

 

 

なぜなのでしょう?

 

 

 

 

・・・・わからない。長年のくせとしか思えません。

 

 

 

 

この十年余りの間、僕は風邪をひいても親には隠しています。自分でこっそりクスリを飲むんです。

 

 

 

 

熱が出ても、親に気づかれるまでは横になるのを我慢したりしています。

 

 

 

 

だから僕が病院に行ったのは、五年前の一度だけです。このときも風邪をひいて、四日ほど我慢していたんですけど、血をはいてしまいました。

 

 

 

それでも親には隠して、家にある医学の本を見たら結核とか肺炎とか恐ろしい病名が目についてしまって・・・・。

 

 

 

 

それで、どの病院へ行けばいいのか、自分で一週間かけて調べたんです。

 

 

 

 

相手の医者や看護師がどういう人か心配だったので、最後には共産党系の病院ならいいかと思って行きました。

 

 

 

 

そこまでして親に言えないとは、どうしてだったのでしょうか?

 

 

 

 

・・・・親に心配をかけたくない・・・・罪悪感です。ひきこもっていることで、すでに親には迷惑をかけてしまっていますから・・・・。

 

 

 

 

Aさんなりにそう気遣っていることに、ご両親はお気づきでしょうか?

 

 

 

 

気づいてないと思います。親は僕が働いていないことだけを問題と考えているようで、母親は「お姉ちゃんが良くなれば、家中が楽になって、お前も働けるのにね」といいます。

 

 

 

 

でも僕は、親や周囲とうまくかかわりをもてないことが問題だと感じているんです。

 

 

 

 

自分自身に問題があると思っているわけです。僕と親には認識にギャップがあるんです。

 

 

 

 

ご両親に言いたい本音は何ですか?

 

 

 

 

親はもう高齢ですし、お金も持っていないし、知的にも高くないので、僕はすでに無理な要求ばかりしていると思います・・・・。

 

 

 

 

ただ、もし言えるのなら、たとえば小遣いは月五千円ではきついと思っています。

 

 

 

 

五千円だけでも、もらうのは申し訳ないですけど・・・・。一万円あったら何とかできるのに・・・・。

 

 

 

 

自分用に必要なお金はどうしているのですか?

 

 

 

 

貯金はないです。服は、小遣いとは別に買ってくれます。読みたい本は図書館で読んでいます。

 

 

 

 

携帯電話(スマートフォン)はどうしていますか?

 

 

 

 

買えません。

 

 

 

 

もし小遣いを五千円から一万円に増額してもらえたら、何に使いたいですか?

 

 

 

 

毎月ではなくて数ヶ月に一度でもいいから、民間のカウンセリングに通いたいんです。

 

 

 

 

毎月通うためには五千円や一万円では足りないと思うので・・・・・。

 

 

 

 

服は買ってもらっているのですよね。今のAさんにとっては、むしろカウンセリングに通わせてくれと求めることのほうが切実だと思えるのですが、いかがでしょうか?

 

 

 

 

それが言えないんです。

 

 

 

 

親御さんが嫌がるからでしょうか?

 

 

 

 

ええ。

 

 

 

 

親御さんがカウンセリングに対する否定的なセリフを実際に言ったから、そう思われるのですか?それとも「嫌がるだろう」とAさんが推測をしているのですか?

 

 

 

 

・・・・僕の推測です。

 

 

 

 

では、Aさんがもし「カウンセリングに通いたい」と言い出したら、そのとき親御さんはどうお感じになるか、Aさんなりに推測してみてくださいますか?

 

 

 

 

晴天の霹靂だろうと思います。僕は、今ここで話したことの大部分は知らないですし、なぜ突然カウンセリングに行きたがるのか理解できないだろうと思います。

 

 

 

 

なるほど。しかしずっと学校とも社会ともかかわりを持たずに過ごしてこられたわけですから、Aさんが何らかの重い心の悩みを抱えているということは、ご両親も感じておられるのではないでしょうか?

 

 

 

 

・・・・問題意識がないというか、姉の統合失調症のほうがたいへんで頭が回らないというか。

 

 

 

 

親は、僕が働いていないこと、就職していないこと以外は困っていないと思います。

 

 

 

 

外出なら図書館へ出ていますし、家の中でも姉の面倒を見たり皿洗いやそうじをしたりの家事手伝いはしていますし・・・・。

 

 

 

 

最近は数日に一回、僕がスーパーへ行って食料品を買います。母親は年をとって、朝から疲れた疲れたと言います。

 

 

 

 

姉は病気で寝ていますし、父親は家事をしません。僕が毎日外で働いたら家のなかのことが困る状況もあると思います。

 

 

 

 

それで問題が先送りされているといいますか・・・・。

 

 

 

 

姉は二日に一回は精神的に不安定になって、週に一、二回は母親に暴力をふるいます。

 

 

 

 

幼児的な暴力です。ぶったり、つねったり・・・・。母親は泣くこともあります。

 

 

 

 

母親は、ぶたれた直後は「(姉を)入院させよう」というのですが、落ち着くと「家でめんどうを見てやろう」といいます。

 

 

 

 

姉は今までに五回以上入院していますが、結局効果が出ていません。そのことも母親の意識に影響していると思います。

 

 

 

 

Aさんご自身は、精神科医療への期待感を持っておられますか?

 

 

 

 

きっと今の病院は「三分間診療」で、クスリを出されるだけでしょう。

 

 

 

 

それでは治らないと思います。よくて現状維持でしょう。だから僕は一般の精神病院へ行きたいとは思いません。

 

 

 

 

ただ、ひきこもりに詳しい病院やクリニックなら考えてもいいかなと思います。

 

 

 

 

診察時間も多くとってくれそうだし、心理療法も充実しちぇいそうだし、若い患者も多そうだし・・・・。

 

 

 

 

その意味では精神科医療も、僕の中ではまだ選択肢のひとつに入っています。

 

 

 

 

でも親には、ばれないようにしたいんです。精神科医にかかったなどといったら、ショックを受けると思うので・・・・。

 

 

 

 

うちの親は世間体を気にするタイプですから・・・・。

 

 

 

 

実際に親御さんの口から、精神科医療に対するネガティブな発言を聞いた経験がおありなのでしょうか?

 

 

 

 

ありません。親はネガティブな印象を持っているだろうな、と僕が思っているだけです。

 

 

 

 

僕自身のなかには、精神科医のところへ行くことへの抵抗はありません。

 

 

 

 

いつか親にも言わなければならないな、とは思います。ばれないと前に進めないのだろうな、と・・・・。

 

 

 

 

だからそのためにも、まずは自分がカウンセリングを受けて、心の問題を整理して、自分の口から親に言えるようになりたいんです。

 

 

 

 

Aさんには、親がよく思わないだろうという予見のもとに、自分にとって大事なはずの行動までも強く自己規制している傾向が感じられます。

 

 

 

 

カウンセリングを受けたいのに、その希望すら親に伝えられないのです。

 

 

 

 

精神科への相談も考えましたが、それを言い出すことさえ自制しています。

 

 

 

 

親に「助けてくれ」と言えない心理を作り出している一因はおそらく、他人に迷惑をかけてはいけないという過剰な規範意識です。

 

 

 

 

彼には、親に経済的に支えてもらっていることへの引け目の意識が感じられました。

 

 

 

 

ひきこもる青年は周囲から「のうのうと親に食わせてもらっている」と見られることがありますが、それは青年の意識や感情が第三者に見えにくいための誤解である場合も多いのです。

 

 

 

 

Aさんの例のように、ひきこもる青年の周りには本音を言いにくくさせる社会的環境がしばしば存在します。

 

 

 

 

親が「弱音を吐くな」「強くあれ」というメッセージを発する場合はそれらがさらに追いうちとなって、本人は本音を奥にしまうようになりやすいのです。

 

 

 

 

本音とは多くの場合、弱音であるか手助けの希求であるかのどちらかだからです。

 

 

 

 

「昔から大事なことを言い合わず、表面的なことしか言わない家族だった」というAさんの言葉にはリアリティーがあります。

 

 

 

 

「僕も親も大事な問題から逃避している」という彼の自己認識もおそらく正しいのでしょう。

 

 

 

 

とはいえ親にいえないという彼の性格がもともと彼の持っていた傾向なのか、親や周囲から刷り込まれた結果なのかは、どちらか一方に結論できる問題ではないかもしれません。

 

 

 

 

また家族全体のコミュニケーションに表面的で逃避的な傾向が見られるとしても、それがもともとある性格の傾向なのか、ひきこもりが長期化したことによる結果なのかも、どちらか一方だと言い切れる問題だとは思えません。

 

 

 

 

深く染み付いた今のコミュニケーションのあり方をどうしたら変えられるかという現実的な視点から考えたときに、彼がカウンセラーや精神科医といった第三者の援助を借りようと発想したのは理にかなっていると思います。

 

 

 

 

固定して動かせなくなっている密接な人間関係のあり方を、そのなかにいる(元気をなくした)一人の力でかえていこうという作業はそもそも困難だと思うからです。

 

 

 

 

就職して働きたいという気持ちはおありなのでしょうか?

 

 

 

 

・・・あります。罪悪感があります。働いていないことへの・・・・。

 

 

 

 

もともと家が裕福ではないですし、父親は6年前に一度仕事をクビになっていますから、働かなければいけないという事情は、ほかのひきこもりの人たちより状況的に切実だと思います。

 

 

 

 

母親はときどき「アルバイトをしてよ」といいますし、姉は「通信制高校に行きなさい」といいます。

 

 

 

 

ただ、父親は何もいいません。僕も父親も逃避的に問題を避けているような気がします。

 

 

 

 

いつ父親がまたクビになるか、いつまで元気に働けるのか・・・・。

 

 

 

 

Aさんにとって、この社会のイメージはどのようなものですか?

 

 

 

 

・・・・否定的です。漠然と、ですが・・・・。そんなところに自分から出て行きたいというのは矛盾しているとは思います。

 

 

 

 

でも出て行きたいし、出て行くべきだと思います。家庭的に厳しい状況があるので・・・・。

 

 

 

 

働かなくとも大丈夫、ではないので・・・・。どんな職業がいいか、とは考えません。

 

 

 

 

とにかく、何でも・・・・・。

 

 

 

 

では他人というもののイメージは、どうですか?

 

 

 

 

・・・・大きな不安を感じます。まず僕は他人とのつながりの問題を乗り越えないと・・・・。

 

 

 

 

その先に社会とのつながりがあると思いますから。

 

 

 

 

年の暮れに、翌年の抱負や目標を考えるようなことはおありですか?

 

 

 

 

以前は「来年こそはやろう」と考えていました。でも、毎年毎年同じなので、この数年は考えないようにしています。

 

 

 

 

立ち入った質問ですみませんが、女性を好きになったことはありますか?

 

 

 

 

淡いのは過去にあったかも・・・・・。ただ20代はまったく女性と接触する機会がなかったので、そういうことはまったくないです。

 

 

 

 

あこがれることもありません。無理だと思いますから・・・・・。

 

 

 

 

プライド、自尊心のようなものはおありでしょうか?

 

 

 

 

あまりないです。自分に何かができるとは思いません。過去の人生を振り返っても、見当たらないです。

 

 

 

 

ただ今回、インタビューをお受けしたことで、少し自信がつくかもしれないとは感じています。

 

 

 

 

人とのかかわり、という面での自信です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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