ひきこもり・ニート・不登校と親のしつけと虐待
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ひきこもり・ニート・不登校と親のしつけと虐待

関東自立就労支援センターへの相談や問い合わせは、主に子どもがひきこもりであったり、不登校であったり、ニートであるケースです。

 

 

 

 

しかし、ときには少し、異色なものもあります。ある母親から「自分の子育ての参考のために、相談されたケースについて話を聞かせてほしい」というものです。

 

 

 

 

ひきこもりや半ひきこもりの体験の話から、そこまで読み取るとはたいしたものです。しかし、そう言われてあらためて考えてみると、たしかに子育て一般の参考になる面もあるのではないかと思えてきます。

 

 

 

 

ここでは相談事例から子どものしつけについて考えてみたいと思います。あるとき電話で母親から相談が入りました。

 

 

 

 

10代の娘(大学生?)が家でだらだらした生活をしている。どうすればいいのか、親としてするべきことを教えてもらいたい、という趣旨の相談でした。

 

 

 

 

「学校は普通に卒業できそうだが、なかなか仕事につこうとしない。そして、これといって熱中するものもない。何か一つのことをめざしてやればいいのにそれをしない。

 

 

 

 

休日なんかは遅くまで寝ている。いつもどおりに起きて規則正しい生活をさせたい。学校の勉強もやっているのかどうかも怪しい。

 

 

 

 

放課後や休日になると友達と一緒にすぐにどこかに遊びに行って、ろくに勉強をしているとは思えない。親として高望みをしているわけではない。

 

 

 

 

本当は教師になってほしいと思っていたが、今は本人に任せている。本人は英語が好きで英会話をやっているので、それを生かせばいいと思っている。

 

 

 

 

 

でも、それも「とりあえずやっているだけ」とはぐらかされる。おしゃれとお化粧がどうのこうのということに夢中になっている。

 

 

 

 

このまま時間が過ぎていくことは親のしつけの放棄のように思える・・・・」わたしはこれが母親の干渉の根っこにある気持ちだと思っています。

 

 

 

 

しかし、子どものことは子どもをもっと信頼して、子どもに任せてあげてほしいのです。

 

 

 

 

ひきこもり自立支援センターの相談室や子どもたちとの会話のなかで、子どもの側からの意見をいろいろ聞いています。

 

 

 

 

子どもといっても10代後半から30代前半までの人たちです。ここで紹介する例は、しつけの範囲を超えたものになっていないでしょうか。

 

 

 

 

「学生のころ、テストで何点とってもほめられたことがなかった。95点とればなぜあと5点とれなかったのかと原因追求と反省を求められた。

 

 

 

 

100点とったときには100点とったのは何人いたのか?と言われたこともある。そんなことわかるはずはないのに。

 

 

 

 

今の自分には達成感がない。何をしても何が足りないのかを考えてしまっている。いつも不満足の状態にいる」

 

 

 

 

「わたしは母親の作品にされてきたように思う。母親の思い通りのもので、細かなことまで親の意思が行き届いた完成品が目標だったように思う。

 

 

 

 

親の意思と一ミリでも違っていたら、丁寧に削られ、矯正されてきたのではないかと思う。だからわたしは、わたしであってわたしじゃない。本当の自分がわからない。

 

 

 

 

何か考え方をきかれても、すぐ横に母親がいて答えてくれないと、自分の気持ちを言葉で表せなくなってしまっている。

 

 

 

 

ひとりでいるときは、自分で自分のことが決められない。それが苦しい・・・・。」

 

 

 

 

「母親のもとから早く出たかった。母は常に穏やかに、でも絶対にその手のうちからこぼれないようにわたしを育ててきた。

 

 

 

 

このままではわたしはもぬけの殻になってしまう。形は整っていても中身がすかすかにされそうな気がしていた。わたしはあせっていた。

 

 

 

 

ものすごい危機感だったのかもしれない。でも、母親を知っている人は誰もわたしの気持ちを理解してくれそうな気がしなかった。

 

 

 

 

わたしは育った家族とは離れるしかないと思った。そのためには自分で家族をもつことがいいと思った。心の中でいつも、結婚してくれる人を探していた。

 

 

 

 

いや、実際に初対面の人に向かって結婚してくださいと言ってしまったこともあります。それしか母親と切れる方法を思いつかなかったのです。

 

 

 

 

子どもが母親を殺害する事件を聞いて(あ、そういう方法もあったのか)と思う自分がいて、正直ショックでした」

 

 

 

 

「母親はたぶん家族や親戚、あるいは世間に対して、わたしはこれだけのことをやっているんだと弁解できるものをこしらえておきたかったのだと思います。

 

 

 

 

子どもにはこんなにしっかりとしたしつけをしている。家に帰れば、学習塾に通わせ、体を鍛えるためにプールにも通わせた、とか。

 

 

 

 

親戚の集まる席では礼儀よく食事をし、遠慮がちで、あいさつがきちんとできる人間でいるように。食事のときの箸の置き方がどうの、座り方がどうの、話し方がどうのと練習をさせられた。

 

 

 

 

いま思えば、そんなことは全部どうでもいいのだとわかる。けれども動作のひとつひとつの細々としたことを気にするのが癖になって、自分になりえていない。

 

 

 

 

そのことで苦しんでいる。なぜもっと自然に動くことができないのか、なぜマニュアルがないと何もできないのか。誰かがつくった仕組みの中でしか自分は動けなくなっている。

 

 

 

 

母親は世間体というか、親族の前で言い訳ができる「べからず集」をわたしに植えつけたが、生き方の基本というものはまったく教えてくれなかった。

 

 

 

 

逆に、こと細かなしつけによってわたしは人生をうまく歩けていないでいます。」

 

 

 

 

「記憶を思い返していくと、親が自分に対して言ってきたことは三種類しかなかった。

 

 

 

 

*指示・命令・・・・勉強しなさい、学校に行きなさい、体を動かしなさい・・・・。

 

 

 

 

*差別用語・・・・なぜこんなこともできないのか、誰だってやっているのになぜあなたはしないのか、そんなことじゃ世間で通用しない・・・・。

 

 

 

 

*親自身のこと・・・わたしが子どものころはそんなことは当たり前のようにできた・・・などの自慢話。

 

 

 

 

わたしが求めていたことは、自分の言葉や行為を親から受け止められたり相槌をうってもらうことだったのではないかと思う。

 

 

 

 

「そうだね・・・・」という言葉をいくら思い出そうとしても親から聞いた記憶が出てこない。親が未熟だった、それだけのことだったとあるとき気づいた。それ以降、動き出せるようになった。」

 

 

 

 

以上、子どもの側からの言葉を並べましたが、親の側、子どもの側、それぞれに思いあたることがあると思います。

 

 

 

 

最後の例の人と同じたぐいの体験は、日本の子どものなかで広範に繰り返されていると思います。指示・命令・差別用語、親自身のこと・・・・この三種類の言葉と行為以外に、親としてどんなことを言ってきましたか。

 

 

 

 

あなた自身が、子ども時代、どんな言葉を聞きましたか。思い出してみてください。わたしはここで紹介したようなしつけを「無意識の、善意の、執拗な、広く行われている虐待」ととらえています。

 

 

 

 

2000年5月、児童虐待防止法(児童虐待防止などに関する法律)が制定されました。児童といっても18歳未満を対象としています。

 

 

 

 

この防止法では虐待は4つに分けられます。

 

 

 

 

 

1、身体への暴行(身体的暴行)

 

 

 

 

2、わいせつ行為(性的虐待)

 

 

 

 

3、長時間の放置(ネグレクト、保護の怠慢)

 

 

 

 

4、心理的外傷(心理的虐待)

 

 

 

 

日本弁護士連合会子どもの権利委員会編「子どもの虐待防止・法的実務マニュアル」は、この法律制定以前に発行されたもので、法の解説書ではありませんが、法とよく照合している参考書です。

 

 

 

 

同書では、上記の4分類による虐待件数として、98年3月発表「全国児童相談所における家庭内虐待調査」2016件の内訳を引用しています。

 

 

 

 

身体的虐待48.4%、ネグレクト40.4%、心理的虐待5.9%、性的虐待4.9%です。「心理的虐待は従としてあげられる数が多く、従を入れると18%に増加する」と記されています。

 

 

 

 

わたしはこれをはじめて読んだとき、「心理的虐待」の割合が低いとおもいました。その理由として、心理的虐待をしている親はもちろん、虐待を受けている本人も(それが中学生や高校生になっていても)、虐待と自覚しづらい面があるためではないかと考えました。

 

 

 

 

同書では、アメリカの子どもの虐待防止ナショナル・センターのガイドラインによる心理的虐待の6つのタイプを紹介しています。

 

 

 

 

1、軽蔑する  2、脅す  3、ひとりぼっちにする  4、子どもを利用して金銭をかせぐ  5、存在を無視する  6、心理的配慮、医学的・教育的ケアを不当に拒否する

 

 

 

 

わたしが想定する「無意識の、善意の、執拗な広く行われている虐待」は、もしかしたらこの「5存在を無視する(子どもの行為に対してわざと情緒的に反応しない)」に関係するのではないか、と考えてこの本に紹介されていた実例を読んでみました。

 

 

 

 

しかし、それはわたしが先に紹介したいくつかの子ども・若者たちの話とは、たしかに一段違うものでした。親からの無視とつらくあたることが強烈であり、その行為によって、子どもの精神・運動機能に重大な退行症状が出るほどのものでした。

 

 

 

 

そして、それは「善意」ではなく「悪意」によるものでした。ただ、「執拗」な点は共通しています。「無意識」かどうかは文章では判断しづらいのですが、「5存在を無視する」虐待の場合には、無自覚ではないことが多いように思います。

 

 

 

 

結論を言えば、わたしが前節で紹介した子どもや若者の体験は、この児童虐待防止法でいう虐待のレベルのものではありませんでした。

 

 

 

 

もちろん、だから安心、だからそれは認められるということではありません。わたしはこれを法的な虐待の周縁にある「法定外虐待」と位置づけることにしました。

 

 

 

 

法律的には虐待とは違うけれども、子どもの成長、自立にとって妨げとなる親子関係、しつけのゆがんだかたちと考えることにしました。

 

 

 

 

その意味で、それは「虐待の周縁にあるしつけ」なのです。たとえば、次の2点について考えてみてください。

 

 

 

 

親の思い通りのしつけはある程度うまくいったとしても、それは親が先回りをして教えているためで、子どもが持っている潜在的な力を引き出すことができません。

 

 

 

 

子どもが自分のやり方で、自分の考え方で、練習や失敗する自由を奪ってしまっているからです。子どもは自己否定感を強める条件を膨らませていきます。

 

 

 

 

これは比較的おとなしく、学力の高い子ども・若者によく見られる傾向です。反抗期がなく、いい子で育った人には、こういうタイプの人が多くいます。

 

 

 

 

思春期以降になって、それらがひきこもりの形で呈するのです。学業などのできが悪くて、親の思い通りの成長から早々と撤退しなくてはならなくなった子どもたち・若者たち・・・・その場合、親がその子なりのよさを認めよう、伸ばそうとして、その子にあった人生を目指す方向を応援する側に移行すればよいのです。

 

 

 

 

しかし、親が相変わらず「よい学校、安定した職」志向の世界にとどまっていると、子ども・若者は真実の愛と支えのない環境に置かれます。

 

 

 

 

子どもは「できそこない」と責められるのですが、親の人間評価の幅が狭いだけです。このような子どもはエネルギーが低く、挑戦の勇気をもてなくなりがちです。

 

 

 

 

知らず知らず、無意識のうちに、このような志向になっている親は少なくないと思います。「虐待の周縁にあるしつけ」の広がりはかなり広範であり、今日のひきこもりの重要な背景のひとつになっていると推測しています。

 

 

 

 

これは、ひきこもりそのものでなくても、今日の多くの子どもの問題状況の要因のひとつでもあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

知人から聞いた話です。「小学校三年生のAさんのところに家庭教師に行っています。母親と子二人が、父親を残して教育に専念できる東京近郊のマンションに逆単身赴任の形で生活しているのです。

 

 

 

 

そこに毎週、わたしが家庭教師に行きます。わたしがAさんに教えている間ずっと、母親もすぐ横にいて、メモをとっているようなんです。

 

 

 

 

家庭教師として、とてもやりづらいです。ほかの時間はどうなのかと考えると、Aさんはその母親の監視のなかで、母親の望む方向でのみ、枝を伸ばすことが認められる生活になっている気がします。

 

 

 

 

成績が特別いい子ではありませんが、自分のいい面を伸ばすという以前に、自分のいい面はどんなところなのかをみつける条件が乏しい状況におかれているように思います」

 

 

 

 

わたしには、この母親がAさんを人間扱いしているようには見えません。しかし、法律的には虐待とはいえず、これも「虐待の周縁にあるしつけ」になると思います。

 

 

 

 

母親はそれを親の愛、責任だと信じ、やっているに違いありません。しかし、それはとても重大な結果を招く勘違いです。

 

 

 

 

家庭教師も、じつは人間扱いされていないでしょう。学習機の代わりにすぎません。そして母親自身もまた、自分の人間としての存在を消しているのかもしれません。

 

 

 

 

子どものなかに自分の人生を託し、自分の願望を子どもに押しつけているのです。母親が自分の人生を取り戻すことと、子どもが自分の人生を母親から取り戻すことは、同じことの2つの面なのです。

 

 

 

 

わたしは、このAさんが将来、自分の存在根拠が見出せないまま、人生に立ち往生し、ひきこもり生活に入ってそれを探そうとして苦しむ可能性は大きいと考えます。

 

 

 

 

母親は善意で親の責任としてやっているつもりかもしれませんが、Aさんは人間として育てられている状況ではないと思えるからです。

 

 

 

 

Aさんの例に典型的に見られるように、「虐待の周縁にあるしつけ」の底には、愛情の過多や過干渉があります。この愛情の過多や過干渉について、いくつかの実例をあげましょう。

 

 

 

 

*子どもが学校に行くとき、教科書などの持ち物を子どもがそろえるのではなくて、親が全部そろえ、点検していませんか(これが忘れ物をしない子どもでしょうか?)

 

 

 

 

*友人が訪ねてきたとき、親戚の人が集まる機会などで、子どもより先に、親のほうから「あいさつは?」「あいさつしなさい」などと子どもに促していませんか(むしろ、「あいさつ」のじゃまをする親ではないでしょうか?)

 

 

 

 

おもちゃや遊び道具、食べ物、着るものなど、子どもに好きなものを選ばせているはずなのに、「これがいいね」「これが良く似合う」などと「助言」し、子どもがそれに同意したとき「子どもの希望に沿って選んだ」と親が判断していませんか。

 

 

 

 

子どもは親が喜ぶことを好むので、それと一緒にしがちなのです。

 

 

 

 

*食事の片付け、遊び道具の片付け、部屋の片付けなど、子どもの身のまわりのことにも親が手を出していませんか。

 

 

 

 

家事の手伝いで子どもが分担しているものがない、あるいは分担していても実際にはしたことがない状態ではありませんか(親がやったほうが早くきれいにできる)。

 

 

 

 

上記の4つの例が親と子どもの間に見られるとき、子どもはかなり愛情過多の状態(愛情不足と似た結果)におかれていると考えていいと思います。

 

 

 

 

全部ではないけれども、いくつか思い当たるというのも、ある程度は愛情の過多になっていると思います。

 

 

 

 

以上は、小学校低学年での例としてあげましたが、実際には高校生であっても、20歳を超えていても、ほとんど同じ状態の人がいます。

 

 

 

 

ひきこもりの経験者の話には、もっと明確な干渉の例がいくらでもあります。「小学校や中学校の宿題の作文は、親が事前に目を通し、ついには親が作文を書いてわたしの名前で提出した」

 

 

 

 

「アニメ映画を見に行こうとしたのだけれども、親はもっと教養ゆたかな作品を選んできてそれに連れて行かれた」

 

 

 

 

「知らないうちに日記を読まれていて、その内容についてとことん説教された」

 

 

 

 

「子ども部屋という個室があると親子の断絶が起こるかもしれないという方針で、うちには子ども部屋がなかった。大きな部屋をついたてのようなもので仕切った場が自分の場だったけれども、それは常に親がわたしを監視しやすくするためだったような気がする。

 

 

 

 

たしかにほしいものはいろいろ買ってくれたが、買うにはいつも親で、わたしはそれを与えられるだけだった」

 

 

 

 

これらの意見は、いまは20歳を超えた子どもから見たものです。親はたぶん善意であり、一生懸命だったのでしょうが、どこかが大きくくい違っているのです。

 

 

 

 

わたしには、これらの背景に、親の側に「親としての責任は、子どもに立派なしつけをすることが含まれている」という思いを前提とした、次のような無意識の心配りが働いているように思います。

 

 

 

 

*子どもには失敗させてはいけない。

 

 

 

 

*子どもにはできるだけ生活上の心配をかけてはいけない。

 

 

 

 

このようなかかわり方は、結局は子どもを親の内側に「暖かく囲い込む」ことにつながっていきます。思春期以降、子どもは徐々に親元から離れて自立していくものです。

 

 

 

 

ところが、「暖かく囲いこまれた」子どもには、そのとき備えておくべき経験、能力、意欲、あるいは意味づけがありません。

 

 

 

 

そのため、自立へのエネルギーがだせなくなってしまうのです。それらのひとつの結果がひきこもり状態です。

 

 

 

 

これらの子育ては、親の気持ちからすれば、安全でしっかりした間違いのない子育てを目指してのものです。

 

 

 

 

しかし、子どもを「育てる」ことのなかには、子どもが自ら考える、ものや条件が不足していてもそれを補おうとする意思が働く、などの面があります。

 

 

 

 

愛情の過多状態では、それを親が奪ってしまうのです。子どもにとっての「失敗」とはなんでしょう。それは、自分のやり方でものごとを処理する方法を学ぶ経験の副産物です。

 

 

 

 

ですから、失敗させないようにすることとは、自分のやり方でものごとを処理する方法を学ばせないことになります。

 

 

 

 

失敗の経験がないということは、要するにいろいろなことに取り組んだ経験が少ないということです。そういう人は、失敗してしまったときに、どうすればいいのかがわからなくなります。

 

 

 

 

マニュアルどおりにやれればよい、と思うかもしれませんが、マニュアルとは最大公約数的なものであり、その最後のツメの部分も含めて当人の裁量によって処理することが前提になっています。

 

 

 

 

マニュアルは誰かが作ったものであり、それは人生や子育ての参考としては不完全であり、また不完全であるからこそいいのです。

 

 

 

 

それを完全と思うことがそもそも間違いです。人間は失敗するものです。失敗したときに求められるのは、それを最小限の影響にとどめ、必要な教訓を引き出して対応策を考えることです。

 

 

 

 

失敗したときの本当の「失敗」は、そこでパニックになるだけで、事態に対して何もできなくなることなのです。

 

 

 

 

では、2つ目の生活上の心配とは何でしょうか。思春期以降の子どもにとって家庭の経済状態に目が向き、自分なりにできることをしようとするのは自然な成長過程です。

 

 

 

 

それは自分の周囲、社会に目が向き、社会性が育っていることの証拠です。生活上の心配に目を向けさせないようにすることは、この成長に目隠しをし、社会性を身につけるのを妨げることになるでしょう。

 

 

 

 

失敗を回避し、生活面に目を向けないことは、行動性の乏しい人間、社会性の乏しい人間、表現しない・できない受け身の人間、依存的な人間、自己中心的な人間にさせることです。

 

 

 

 

その一方で、「傷つきやすい心」の持ち主になりやすいと思います。

 

 

 

 

前述のとおり、ひきこもりの背景と理由を、わたしは三つに分けました。同じ状況にあっても、ひきこもりになるかそうならないかは人それぞれです。

 

 

 

 

また、ひきこもり状態がかなり深刻に見えても病的状態に至らない人と比較的元気な時期があっても、あるときを境に病的状態になっていく人の違いがあります。

 

 

 

 

この違いはどこからくるのでしょうか。これには先天的要素の違いがあります。一言で言えば、繊細な感性の持ち主ということでしょう。

 

 

 

 

それに続いて、当事者がある要素・条件を抱えているかどうか、ということに影響されるように思えます。その条件・要素とは、「傷つきやすい心」の持ち主だということです。

 

 

 

 

 

じつは、これも先天的要素が、後天的要素によって促進された部分があります。「傷つきやすい人」の人は、まわりの人との意見の違いはもとより、感覚(感じ方)の違い、振る舞いの違いをとても気にします。

 

 

 

 

そのために、自分を駄目な人間と感じてしまうこともよくあります。自分の存在を認めてほしいという意味での「個性尊重=多様な存在のしかた」を必要としていますが、自分とは異なるタイプの人間に対しては、この「個性尊重=多様な存在の仕方」が認められなくなり、他者の容認の幅が狭くなります。

 

 

 

 

異なるタイプの人に対して不安を覚えたり、批判的になったり、ゆるせない気持ちを抱きやすくなるのです。そして、「傷つきやすい心」をもつ子どもは、「いじめられた」感覚をもちやすくなります。

 

 

 

 

心を皮膚にたとえると、上皮がなくじかに真皮にふれられる痛さを感じるのではないかと思います。子ども同士がぶつかり合うようなけんかの概念はなく、それをイコールいじめと受け取ります。

 

 

 

 

場合によっては、行動の違いや意見の違いさえもいじめと感じたりすることがあります。「わたしは、人間として働くのは当然だと思っていますが、いま現在は働けなくて苦しんでいます」

 

 

 

 

あるとき、わたしはこのような内容の文章を読んだ人から「攻撃されている。傷つけられた」と言われたことがあります。

 

 

 

 

通常の言葉の範囲では、このなかにはなんら攻撃的内容、人を傷つける内容はありません。しかし、「傷つきやすい心」の持ち主は、これだけの言葉で勝手に傷ついてしまいます。

 

 

 

 

この例の場合、核心となるキーワードは「働くのは当然」という言葉で、それが自分に向けられていると感じたのです。

 

 

 

 

このように、「傷つきやすい心」の人は言葉や振る舞いをその文脈とは関係なく受け止め、勝手に傷つく状態になりやすく、それが他人への不信感として堆積し、いっそう傷つきやすくなりがちです。

 

 

 

 

そして、このようにいじめとして感じやすい人は、本当のいじめを受けやすくなります。相手にすれば、自分が普通にやっていることが避けられたり、嫌がられたり、いじめと受け止められるために、そういう反応をする子どもが「変なやつ」に思えるからです。

 

 

 

 

このような場合でも、いじめる側にいる子どもを支持することはできません。ここをあいまいにしてはいけません。

 

 

 

 

しかし、それは「いじめの撲滅」などといって押さえ込む対象ではなく、人と人との関係を学ぶ機会として対処すべきものです。

 

 

 

 

「傷つきやすい心」の持ち主は、本格的ないじめや体罰などを受けなくても、長期にわたって人間への違和感や不安感を持ち続けることで、やがて視線恐怖、対人恐怖、あるいは自己否定感、自信喪失、さらには破滅願望の状態に入っていきやすくなります。

 

 

 

 

このような状態が長期化すると、ひきこもりになったり、場合によっては精神障害になったりすることによって、精神的安定を得ようとするようになります。

 

 

 

 

ひきこもるのは自分なりのペースを取り戻そうとする無意識の働きによるものです。精神障害になるのは、精神が錯乱しているというよりは、精神的安定を得ようとする心の働きと体の変調が大きいため、混乱、錯乱するからです。

 

 

 

 

わたしはどこかで「やさしいことはだめですか」という母親の意見を読んだことがあります。子どもが教師から「やさしいだけじゃだめだ」という意味のことを言われた。

 

 

 

 

本当にそうなのか、やさしいだけでいいじゃないか、という反発をこめたものでした。「やさしいだけじゃだめ」どころか、「やさしいことはすばらしい」とわたしは思います。

 

 

 

 

しかし、この母親と教師の間には、「やさしさ」をめぐってすれ違いがあると思います。教師はおそらく「傷つきやすい心」系の「やさしさだけではだめだ」という趣旨のことを言ったのだと思います。

 

 

 

 

子どもはそれを聞いて、深く理解できず、「やさしいだけじゃだめなのか」と納得できないまま母親に伝え、母親はそこを問題にして意見を発表したように思います。

 

 

 

 

教師の言葉がそれだけのものだったのか、もっと違ったものであったのかはわかりません。少なくとも子どもにはその部分しか伝わっていなかったのでしょう。

 

 

 

 

やさしさには幅があります。自分が相手(他人)を「傷つけない」というレベルから、相手(友人、知人)が困っているとき、苦しんでいるとき、そのときの自分の条件に応じて手を差し伸べるレベルのやさしさまで、幅があります。

 

 

 

 

たぶん「傷つきやすい心」系のやさしさとは、前者でしょう。後者のような、相手をサポートできるレベルのやさしさを、もしかしたらこの教師は言いたかったのかもしれません。

 

 

 

 

しかし、じつはもうひとつ奥があるようにも思います。「傷つきやすい心」も持ち主は往々にして、自分にできないこと、やりたくないこと、ほしくないものを勧められたときに、「断れない」ことが多いのです。

 

 

 

 

また何かちょっとした迷惑、そこまでではないけれども世話をかけたときにぜんぜん悪気はないのですが「お礼」「お詫び」を言うことができません。

 

 

 

 

これらが社会性の未熟と思われたり、態度がはっきりしない、意思表示がはっきりしないと受け止められやすくなっています。

 

 

 

 

「傷つきやすい心」系のやさしさには、消極性や必要な意思表示をしない未熟な面があると思います。行動しないことで相手を傷つけない、それはそれでやさしさのひとつですが、それは「他人とかかわることで自分の心を傷つけない」ためのやさしさのようにも見えます。

 

 

 

 

自分のことで精一杯というのではないやさしさ、友人など周囲にいる人が困っているとき、自分にできる範囲で手を差し伸べることができる積極的なやさしさ、それがほしいと思います。

 

 

 

 

それは、芯のあるやさしさといえるかもしれません。強さのあるやさしさ、それを目指したいものです。

 

 

 

 

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