ひきこもりについて
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ひきこもりについて

「ひきこもり」とは、不登校や就労の失敗等をきっかけに、何年もの間、自宅に閉じこもり続ける青少年を指す言葉です。いまや日本人なら誰もが知る言葉ですが、最近では海外でもhikikomoriとして広く知られるようになりました。

 

 

 

 

2010年に内閣府が発表した調査研究によれば、現在、日本国内には約70万人のひきこもりがいるとされています。ひきこもり人口の正確な把握はきわめて難しいのですが、とうに社会問題の規模となっていることはおわかりいただけるでしょう。

 

 

 

 

「ひきこもり」とは独立した病名や診断名ではなく、ひとつの状態像を意味する言葉です。いくつかの定義がありますが、共通するのは、1、6ヶ月以上社会参加していない2、非精神病性の現象である3、外出していても対人関係がない場合はひきこもりと考える、の3点です。

 

 

 

 

「ひきこもり」そのものは、必ずしも「治療」の対象ではありません。長期間に及ぶひきこもり状態がもたらす二次障害としての精神症状や問題行動が治療の対象となります。

 

 

 

 

また、未治療の「発達障害」や「統合失調症」がひそんでいる可能性もあります。2010年に厚生労働省が発表したガイドラインによれば、ひきこもりの約8割は何らかの精神障害として診断可能であるとしています。

 

 

 

 

このため、ひきこもりの支援に当たっては、医療も有力な手段のひとつになりうるのです。ひきこもりの支援を考えるにあたって、基本方針としてもっとも重要なことを述べておきます。

 

 

 

 

長期に及ぶひきこもり問題は、本人や家族の自助努力だけで解決することはきわめてまれである、ということです。

 

 

 

 

現在、当支援センターがかかわっているひきこもり事例の平均年齢はすでに33歳と、著しい高年齢化傾向を示しています。この原因のひとつが、ひきこもり状態の長期化のしやすさと考えられます。

 

 

 

 

そう、何もしなければひきこもりは、ずっとそのままの状態にとどまり続けるということです。わたしたちはこれまで、ひきこもり状態から社会参加を果たしたケースの話を直接聞いたり、体験談を読んだりする機会がたくさんありました。

 

 

 

 

そして、ほぼ全例に共通する特徴がひとつあることに気がつきました。社会参加への導き手として、家族以外の「理解ある第三者」の介入がなされていることです。

 

 

 

 

ここでいう「第三者」とは、もちろん医療関係者に限りません。さまざまな支援団体のスタッフや、時には友人、恩師といった人たちからの援助や協力が、ひきこもりからの回復において、きわめて大きな意味を持っています。

 

 

 

 

 

「ひきこもったままでよい」という主張もあるでしょうし、それはそれで理解もできます。ただ、わたしたちにはその肯定の先に何があるかをまったく想像できません。

 

 

 

 

当支援センターは、これからも「ひきこもりを何とかしたい」と悩んでいる当事者や家族の大しては、ひとつの支援団体として、具体的かつ有効な支援を提供する立場でいたいと考えています。

 

 

 

 

ひきこもりに至る原因

 

 

 

 

ひきこもりに至る原因は多種多様です。きっかけとしては、成績の低下や受験の失敗、いじめなど、さまざまな挫折体験からはじまることも多いのですが、原因やきっかけがはっきりしない場合も少なくありません。

 

 

 

 

もともとの性格傾向として、内向性、非社交性、「手のかからない良い子」などがしばしば見られますが、いずれも決定的なものではありません。むしろ、不登校などと同じように、どんな家庭の子どもも「ひきこもり」になりうる、と考えるべきでしょう。

 

 

 

 

「長男に多い」という印象もありますが、統計的に有意かどうかは今のところ未検証です。また、きょいだいがいる場合、揃ってひきこもってしまう事例もまれながら存在します。

 

 

 

 

複数の子どもがひきこもっいている場合でも、基本的対応に大きな違いはありませんが、いくぶん複雑で困難なものになることは避けられません。

 

 

 

 

男性に多いこと、国際的には日本と韓国に突出して多く見られることなどから、社会文化的な背景も原因のひとつと推定されています。韓国の精神科医によれば、韓国には約30万人のひきこもりがいると推定されているそうです。

 

 

 

 

徴兵制がある韓国でひきこもりが問題となっている事実は、若者に対するスパルタ的な介入策が、予防策としてはおよそ意味をなさないことを示唆しています。

 

 

 

 

ひきこもりの原因は、日本人の国民性や日本の社会病理とは必ずしも関係ありません。若者の社会的排除のありようと家族文化との関係から、十分に説明することができる問題です。

 

 

 

 

つまり「ひきこもり」とは、「若年ホームレス」などと同様に、青少年が社会から疎外されていく形式のひとつなのです。ホームレスとひきこもりを同列に考えることに違和感を覚える方もたくさんおられるでしょう。しかしいずれも、その原因を個人的資質や病理のせいにばかりはできません。

 

 

 

 

社会や家庭の事情によって、本人の意図にかかわらずそうなることを余儀なくされるという側面を持っているからです。残念ながら、どんな社会にも、そこから疎外される青年は一定の割合で存在します。

 

 

 

 

問題は、彼らの居場所です。社会から排除された青年たちの居場所は、「家の中」か「路上」のいずれしかありません。

 

 

 

 

先進諸国中、両親との同居率が70%以上の地域は、日本と韓国以外ではイタリアとスペインがありますが、イタリアではEU諸国中、唯一ひきこもりが社会問題化しています。また、スペインにも同様の問題があるといわれています。

 

 

 

 

一方、イギリスには25歳以下のホームレスが25万人います。アメリカにいたっては160万人の若年ホームレスがいます。

 

 

 

 

要するに、青年の親との同居率が高い地域では「ひきこもり」が多くなり、同居率が低い地域では「若年ホームレス」が増加する傾向があります。

 

 

 

 

家族主義がひきこもりをもたらす一方で、個人主義がホームレスをもたらす、そのように考えることもできるでしょう。

 

 

 

 

 

ひきこもりをホームレスと同様に社会的排除という文脈で考えることは、この問題を医療に限定されない包括的支援の対象と考える上でも重要な視点であるように思います。

 

 

 

 

ひきこもりのメカニズムについて

 

 

 

 

マクロな社会現象としてのレベルについては見てきたとおりですが、それぞれの家族のミクロなレベルについては、別のモデルで考える必要があります。

 

 

 

 

 

 
ひきこもり状態を理解するには、「犯人探し」や「なぜひきこもったのか」の追求はあまり意味がありません。適切な支援のためには「何がひきこもりから抜け出すことを難しくしているのか」について、十分に理解することが必要となります。

 

 

 

 

そのためのモデルとして、ひきこもり自立支援センターでは、「ひきこもりシステム」というものを想定しています。

 

 

 

 

ここで「ひきこもりシステム」とは、個人→家族→社会それぞれのシステム同士の間でコミュニケーションがなくなった状態を指しています。

 

 

 

 

ひきこもり当事者と家族が断絶し、家族はそのことを誰にも相談できずに抱え込んでいるような状態です。

 

 

 

 

この状態はたいへん安定性が高く、外から何らかの介入がなされないかぎり、システム全体の安定はいっそうゆるぎないものになります。

 

 

 

 

このため放置すれば次第にこう着状態に陥り、長期化しやすくなるのです。病気で言えば「自然治癒」にあたることがきわめて起こりにくいのも、こうしたシステムの働きがあるためと考えられます。

 

 

 

 

ひきこもりの症状

 

 

 

 

ひきこもり状態にともなう精神状態は、しばしばひきこもりから二次的に生じてきます。その症状が「ひきこもり」のはじまりと前後して起こり、長期化とともに悪化するようなら、二次的な症状と考えてよいでしょう。

 

 

 

 

これは、ひきこもりという長期間の孤立状態が心身に悪い影響をもたらした結果生じたものと考えられます。それゆえ入院など、何らかの理由で「ひきこもり」状態から抜け出す機会があれば、それだけでこうした症状が改善してしまうこともあります。

 

 

 

 

たとえば家庭内暴力が典型ですが、問題行動が起きるのはあくまでも家庭内に限られ、家庭外でも暴力を振るうようなケースはほとんどありません。

 

 

 

 

あるいは「強迫症状」です。一般的に強迫性障害は治療が難しく、改善にも時間がかかります。しかし、ひきこもりに伴う強迫症状は、入院などの環境変化であっさりと消えてしまいます。

 

 

 

 

要するに、何であれその症状がひきこもりに随伴して生じた症状なら、治療もそれほど難しくありません。

 

 

 

 

以下、ひきこもりに伴いやすい重要な症状を多い順にあげておきます。対人恐怖症(自己臭、醜形恐怖を含む)、被害関係念慮、強迫症状、家庭内暴力、不眠、抑うつ気分、希死念慮、摂食障害、心身症状、などです。

 

 

 

 

対人恐怖症状は、世間体を気にしたり、近所の人の視線を恐れて外出しなくなったり、家を訪れた親戚や宅配便業者とも会いたがらないといった行動として現れます。

 

 

 

 

社会恐怖のような「注目される不安」よりも、「他人から悪く思われる」ことを恐れるという「対人恐怖」のニュアンスに近い症状です。

 

 

 

 

自分の体がくさいから他人に避けられるといった「自己臭」や、自分の顔や体つきがみっともないので嫌われると思い込む「醜形恐怖」も、対人恐怖症状に含まれます。後者はとりわけひきこもりで多く見られます。PAK52_ashibayanohito20140315500_TP_V1

 

 

 

 

対人恐怖症状は、こじれるとしばしば被害関係念慮、つまり被害妄想的な思い込みにまで発展します。

 

 

 

 

実際、ひきこもっている人は、「近所の人たちが自分のうわさをしている」「自分を監視し、いやがらせをしてくる」などとしばしば訴えます。こうした訴えを本物の妄想と勘違いして、統合失調症と誤診される事例が少なくありません。

 

 

 

 

強迫症状というのは度を越した几帳面さや病的なこだわりを指しますが、そのほとんどは洗浄強迫や確認強迫などの強迫行為で、しばしば不潔恐怖(潔癖症)を伴います。

 

 

 

 

外出から帰るたびに何度も着替えたり、手洗いを繰り返したりといった行為がその典型です。なかには家族にも強迫行為への参加を強要するような「巻き込み型」の確認強迫もあります。

 

 

 

 

不眠や昼夜逆転傾向はほとんどの事例でみられますが、ここには日内リズムが障害されること以上に、家族関係の葛藤が反映されています。

 

 

 

 

「家族と顔を合わせたくない」ことも、昼夜逆転をこじらせる一因となるからです。

 

 

 

 

抑うつ気分や空虚感、自殺願望めいた訴えもしばしばみられますが、実際に自殺に至った事例はきわめて少数です。また女性事例では手首自傷なども少なくないことを付け加えておきます。

 

 

 

 

ひきこもり状態を伴いやすく、混同されやすい精神疾患として主要なものは、統合失調症、社会不安障害、強迫性障害、うつ病、広汎性発達障害、ADHDなどです。

 

 

 

 

この中で、もっとも重要な病気が統合失調症(かつての精神分裂病)です。ひきこもり状態は「自閉」や「自発性の減退」に、独り言や思い出し笑いは「独語」や「空笑」に、家庭内暴力は「精神運動興奮」に、妄想様観念は「真性妄想」と誤診されやすいためです。PPW_benchinisuwaruseinen_TP_V1

 

 

 

 

診断の上で注意すべき点としては、ひきこもり状態では幻聴はみられないこと、メディアを巻き込んだ妄想(テレビやラジオが自分の悪口を放送しているなど)は少ないこと、思考伝播や思考吹入(思考が外に漏れたり侵入してきたりする)といった志向障害はみられないこと、などがあります。

 

 

 

 

ひきこもりからの出口

 

 

 

 

人間の精神作用は、脳や神経系統の微細な器官や化学物質などの体内物資によって行われています。これを観察し、身体外部からの薬物の投与、あるいは手術などをすることによって、精神症状やひきこもりのような行動を「治す」方法が生まれるかもしれません。

 

 

 

 

しかし、そういう方法は、なんらかの副作用を伴うと考えていたほうがいいでしょう。わたしはそうではない方法をさぐりたいと思っています。

 

 

 

 

とくに自我や社会性などの高度な精神作用を担う脳や神経系は、思春期以降の全生活のなかで成長・発達してきたものです。

 

 

 

 

だとすれば、本来の思春期の時期をはずれても、それぞれの現在の年齢のところで、相応の行動、生活を重ねれば、これは相応の程度、取り戻せるのではないでしょうか。

 

 

 

 

脳や神経系統が体内のほかの器官と格段に違うことは、脳のある部分が不十分で機能をはたせないとき、ほかの脳や神経系統の器官が代替するという説からもわかります。

 

 

 

 

そこを信じて、わたしは医学的方法ではなく、教育的方法によるひきこもりからの出口をめざしている気がします。

 

 

 

 

幸か不幸か、精神医学はひきこもりに対してまだ特効薬的なレベルでの処方を示していません。というよりも、それが本格的に精神障害の世界に入っていないだけに、精神医学の対象になっているかどうかも疑わしい状態です。

 

 

 

 

とはいえ、わたしの言う教育的方法が、それに代わって確立しているわけでもありません。わたしの知る範囲では、むしろ遠い段階です。

 

 

 

 

以下に述べることの全部が教育的方法の枠内に入るとは思いませんが、同時に、おもに医療的な方法でもないことは明確だと思います。

 

 

 

 

わたしがかかわって取り組んできた内容です。ここに、教育的方法を考える材料があるように思います。

 

 

 

 

ひきこもりの状態にある人にほしいのは、少しの勇気です。動いてみる、こころの奥にある感情・感覚を表情に出したりことばにしてみる・・・この二つのうちの少なくとも一つから始める勇気です。

 

 

 

 

家族の支援の第一は、こういう努力を評価するアンテナの感度を高めることでしょう。ですから、ひきこもりが安定したと思える時期は、親(家族)が相談するところや、サポートする人による家庭訪問などが必要です。

 

 

 

 

それとともに重要視しなければならないのは、ひきこもりの当事者が動き出そうとするとき、そのような勇気を発揮するきっかけとなるような場です。

 

 

 

 

わたしたちのひきこもり自立支援センターでは、当事者が集まり、交流をする「ひきこもり当事者の会」を重視して、頻繁に開いています。

 

 

 

 

これが対人コミュニケーションの練習の場となるからです。福祉における自助グループ、心理におけるエンカウンターグループ、精神医療におけるデイケアもほぼ同様の役割を果たすものです。

 

 

 

 

わたしがそれを「ひきこもりの当事者の会」と呼び、あえて活動内容や目的・目標のようなものを表現せずにいるのは、適切な位置づけをしかねているからです。

 

 

 

 

これらの場で、まず第一に必要なことは、「安心してそこにいられる」ということです。そのなかで、やがてことばによる表現や身体表現ができるようになっていきます。

 

 

 

 

身体表現には、緊張感が少なくなった状態で、座ったり歩いたりすることも入りますし、喜びや笑い、あるいは怒りを表現することも含まれます。

 

 

 

 

いずれにしても、それを受け入れられるという安心感がなければ、ことばにしたり、身体表現したりすることはできません。

 

 

 

 

さらに進むと、自分の体験で負担になっていることを話せるようになります。最初は特定の人へのつぶやきのようなものかもしれません。

 

 

 

 

嗚咽しながらのばらばらのことばの投げかけかもしれません。親やかつての友人に対する激しい非難かもしれません。

 

 

 

 

すべての人がこういう特別な形で自分の負担になっている体験を語り始めるわけではありません。むしろ、ごく自然に、落ち着いたかたちで苦しかったこと、いやだったことを語る人のほうが多いように思います。

 

 

 

 

この場を見た人は、「とてもひきこもりだった人とは思えません」と言い、適当な働き口さえあればすぐにでも働き始めるのではないかと受け取ります。

 

 

 

 

いやわたしも、当初はそれに近いことを考えていました。それは社会参加に必要なステップのうちの最初の数段にすぎません。

 

 

 

 

それに続く数段のステップを、着実に、それぞれの人のペースで上っていくことが必要なのです。そのとき彼らに必要なことは、「社会参加」に向けての初歩的な意識です。

 

 

 

 

「自分で自分を育てなおす」という意識でもいいし、「自分はいま思春期の課題に挑戦している」という意識でもいいでしょう。

 

 

 

 

いずれにしても、自力で進むことが求められます。家族の協力があることはそれを進めるうえで、とても有利です。

 

 

 

 

しかし、現実に家族とは敵対関係になっている人もすくなくありません。しかし、どういう環境であってもひきこもり状態の当人に、その気持ちがあれば、進むことはできます。

 

 

 

 

あせらないこと、目標はいまの状態より一歩前進することです。壮大な目標や夢は、挫折を繰り返すことにつながる可能性が高いように思います。

 

 

 

 

親は、社会参加や社会復帰をすぐに口にしがちです。でも、これは大相撲で、前半を八連勝した力士に対してインタビュアーが「優勝をねらいますか」的な質問をするのににています。

 

 

 

 

問われた力士は「明日の一番に全力を尽くす」的に答えることが多いと思います。大リーグのイチロー選手は、目標について質問を受けたとき、「次の打席でヒットを打つこと」とよく応じています。

 

 

 

 

このようなことが大事だと思います。ひきこもりの当事者は、将来の壮大な目標ではなく、足元の一歩に目を向けて着実に進むことで手一杯です。

 

 

 

 

家族も周囲の人も、そこに最大の注目をしてほしいのです。わたしが家族の方にお願いしたいことをつきつめれば、「辛抱」ということになるでしょう。

 

 

 

 

「辛抱」とは、辞書によれば、「環境の苦しさに押し流されないで、向上心を持ち続けること」です。

 

 

 

 

ひきこもっている子どもには、この「辛抱」の姿勢でたいしてほしいと思っています。

 

 

 

 

ひきこもり自立支援センターの「ひきこもりの当事者の会」では、よく雑談をしています。この会は雑談中心の集まりです。

 

 

 

 

日常生活で他人との接触がすくないなかでは、雑談こそプライベートなことに触れる大切な機会だからです。

 

 

 

 

雑談とは何でしょうか。とりとめのない話、よもやま話、世間話、むだ話・・・・ということになるでしょうか。

 

 

 

 

しかし、そのようななかにも、必ず有益な内容ははいっています。自己紹介や近況報告のように、個人の公式の自己開示情報といえるものもあります。

 

 

 

 

これらとりとめのない非公式情報に溶け込んでいるところが、雑談のおもしろいところです。

 

 

 

 

この雑談におけるプライベート情報のなかに、「ひきこもりの当事者の会」では避けられない要素が入ります。

 

 

 

 

それは、自分が負担に感じている過去の体験・・・たとえば虐待を受けた、いじめを受けた、家庭が崩壊している、家が貧しい、高校を中退した、登校拒否やひきこもりの経験がある、仕事に就いていない・就けない・・・・当人が負担に感じていて、一般的には話しづらい内容が、比較的多く話題になることです。

 

 

 

 

雑談というかたちで、自分の負担に感じていることを話せるのは、それを受け止めてもらえる相手がそこにいるからです。

 

 

 

 

その相手がいない場では、心の負担になっていることは話せません。心の負担になっていることを、職業的あるいは実務的に話す場、話せる場があります。

 

 

 

 

医師やカウンセラーを前にしたときでしょう。ほかにもあrいかもしれません。(本来なら、ここに教師も入れたいところですが。。。。)

 

 

 

 

ただし、そこには雑談との一定の質の違いがあります。はなす相手と「友達」になれるわけではない、という前提です。(例外はあります。)

 

 

 

 

しかし、そうではあっても、そういう場でいったん話した、話せたことによって、気持ちが楽になり、より本格的な心の負担を軽くする場に進む人もいると思います。

 

 

 

 

こうして心の負担になっていることを話せる場ができると、場があること自体が心の負担を軽くします。居場所ができた感覚になるのでしょう。

 

 

 

 

癒しであり、その状態から抜け出す出口のエネルギーを得る機会となるのです。事情が話せたらそれで解決するというわけではありません。

 

 

 

 

つぎの段階に進むことが必要で、それは前にわたしが述べた対人関係における感知能力を身につけることです。

 

 

 

 

逆にいえば、この感知能力づくりの土台のひとつになるのが、心の負担になることを話せることです。一言で「心の負担になっている」といっても、奥深いものがあります。

 

 

 

 

雑談のなかでは、本人も気づかないできたものが、話している間に、はなしている相手によって、つぎつぎとつむぎだされていくこともあります。

 

 

 

 

最初はごく輪郭的なものだったのが、受け止める相手によってより深い話になっていくこともあります。

 

 

 

 

少し脱線しますが、人によっては、この心の負担を話すということを「書く」という作業のなかで果たすことができるでしょう。

 

 

 

 

日記や体験手記のようなもので、日常の様子、気がついたことや感じたことをつづっていくことです。話を戻しましょう。

 

 

 

 

雑談というのは、このようにみるとけっしてむだ話、むだな時間で満ちているわけではありません。公式のコミュニケーションではできない、心の奥の真実を表しあう最高の場にもなるのです。

 

 

 

 

雑談の面白いところは、そういう有意義な場面が予告もなくおとずれることです。雑談中の当人たちも気づかないままその世界に入り、そして離れることが繰り返されます。

 

 

 

 

雑談できる場というものを考えてみましょう。いろいろな要素がありますが、気分が楽になる、というひとことで表すことができます。

 

 

 

 

それには、人数が少なすぎても多すぎてもだめな気がします。わたしの経験で言うと、5~6人以上いないと、さみしい気がしてくるようです。

 

 

 

 

30人でも40人でもいいようですが、その場合は、場の広さも関係しますし、その人数のなかで移動しながらのグループ化現象も生まれます。

 

 

 

 

もうひとつは、椅子にすわっているときよりも、マットや畳の上に座り、「ひざを付き合わせる」状態が、気分的に楽になるようだということです。

 

 

 

 

これは日本人的な特質なのか、日本人を超えた現象なのか、わたしには比較材料はありません。ひきこもっていた人が動き出すと、次への移行が見られます。

 

 

 

 

10代までの子どもの場合、その変化は顕著に出ます。外出する、学校に通い始める、途絶えていた勉強を再開する、フリースクール的なところに行きたいといいだすなどです。

 

 

 

 

なかには海外留学をした人もいます。10代までの場合、本人の柔軟性もあり、また受け入れる社会的な条件、対応機関も、かなり整ってきていることが背景にあります。

 

 

 

 

20代以上、とくに20代後半からは、2つの点で重さが違ってきます。ひとつはひきこもっている本人の精神的負担が重く、行動がさらに慎重になっていることです。

 

 

 

 

もうひとつは、社会的対応、支援が、きわめて不十分なことです。ひきこもりからの出口というと、おそらく多くの人が予測(または期待)しているのは、遠回りはしたが、ひきこもりの経験を経て、ひきこもり経験のない人と同じように通常の生活をし、仕事に就き、自立的な人生を歩む姿でしょう。

 

 

 

 

これを、たとえば「通常生活回復型社会参加」と名づけておきましょう。それはひとつの経過であり、ひとつの形であると思います。

 

 

 

 

しかし、またそれはひとつのとらわれになっているのではないかとも考えています。医師から境界性人格障害と診断を受けた人が、医師に「どう生きていけばいいですか」と尋ねました。

 

 

 

 

医師の答えは「境界性人格障害に合った生き方をすることです」というものでした。わたしはこれを聞いて、具体性にはかけるけれども、この答えは真剣で真実のものだと思いました。

 

 

 

 

重要な点は、自分の持っている「境界性人格障害」と自分との共生でしょう。その診断された自分の状態を自分のなかから排除するのではなく、自分のなかの一部として存在を認め、そのうえでそれに合った生き方を探してはどうか、と提示したのだと思います。

 

 

 

 

これを、たとえば「症状共生型社会参加」と名づけておきましょう。以前に30代のある女性から、「ひきこもりのまま社会参加をしたい」といわれたことがありました。

 

 

 

 

少し違和感がありましたが、よく考えてみると新鮮な感覚で、肯定できる気がしました。ひきこもり状態を受け入れたまま社会参加をするのです。

 

 

 

 

ひきこもったままの生活とは違います。これは、「症状共生型社会参加」と近いもの、あるいはその一種でしょう。

 

 

 

 

あるとき、ひきこもり自立支援センターでひきこもりやニートの当事者数人と話をする機会がありました。

 

 

 

 

そのときは、「症状共生型社会参加」という概念はわたしのなかにはまだありませんでした。その場に偶然居合わせたのは、30代3人と20代後半1人の男性4人とわたしです。

 

 

 

 

雑談をしているなかで、「トレーニングをかねて収入につながる会社みたいなものがほしい」「ひきこもりの期間が、いまの自分、これからの自分をつくっていくうえで必要な時間であったと思えてくること、これが、ひきこもりから抜け出たときのひとつの理想状態だと思う」などの話が出てきました。

 

 

 

 

社会参加とつながる意識や願いだと思いました。この話の途中でわたしの口から出たのはこんなことばでした。

 

 

 

 

「ひきこもり自立支援センターを第二のひきこもりの場にしよう。ここに来ている人が、それぞれの方法で収入につながること、仕事みたいなことをする場として活用する方法を考えてみてほしい」

 

 

 

 

話が散漫になった、いきずまった感じがしたので、その閉塞状態にたいしてひとつの出入り口をもうけたつもりでしたが、なかなかいい提起ではないかとも思いました。

 

 

 

 

この発想のポイントは、2つあると思います。1、「第二のひきこもりの場」になることを受け入れたこと。

 

 

 

 

2、「仕事につながる場」として活用しよう、と考えたこと。わたしはこれを「ひきこもりながらの社会参加」の型のひとつと考えることにします。

 

 

 

 

「症状共生型社会参加」が個人のレベルでのものであるとすれば、ひきこもりの人が経済活動できるこのような場は、集団レベルでのもののように思えます。

 

 

 

 

そのような場を設定することで、個人レベルでの「ひきこもりながらの社会参加」の見本となり、実現しやすさが表面化するのではないでしょうか。

 

 

 

 

わたしは「通常生活回復型社会参加」とは異なる、ひきこもりからの社会参加への道を示しました。もしかしたらこれはある人にとってはショックかもしれません。

 

 

 

 

わたしはリアリストです。理想を望みながらも理想だけではない、緊急避難型の対策や通常タイプとは異種のかたちの実現も、それに現実的な根拠があるのならさぐっているつもりです。

 

 

 

 

「ひきこもりながら社会参加する」という方法は、たとえていえば、手足を失った人が義手、義足をつけ、より日常生活に近いかたちを追求するような方法だと思います。

 

 

 

 

現在、ひきこもり自立支援センターでは、実際にこの取り組みを始めています。試行錯誤の段階ですが、続けていく中で、新たな発見、新たな発想や方法が見えてくるのではないかと思っています。

 

 

 

 

このような「通常生活回復型社会参加」とは異なる社会参加は、ほかの方法でも成り立つのではないでしょうか。

 

 

 

 

ここに2つの例をあげてみます。ひとつはとくに女性のひきこもりの人が結婚によって社会参加する「社会につながる」方法を得ることです。

 

 

 

 

以前にわたしは次の例をあげました。「わたしは育った家族とは離れるしかないと思った。そのためには自分で家族を持つことがいいと思った。

 

 

 

 

 

心の中ではいつも、結婚してくれる人を探していた。いや、実際に初対面の人に向かって、結婚してくださいといってしまったこともあります。

 

 

 

 

それしか母親と縁を切れる方法を思いつかなかったのです。」この例はけっしておおげさなもの、特殊な例ではありません。

 

 

 

 

わたしは、このような母親の執拗な介入と干渉から抜け出せずに苦しんでいる女性と多数出会ってきました(もちろん、同様な男性も多数います)。

 

 

 

 

この例では、母親との関係を断ち切るためには、初対面の人にさえ「結婚してください」といってしまうほどの状態に追い込まれるほど、切迫した場合があることを示しています。

 

 

 

 

このような追い詰められた精神状態で実際に結婚に踏み切る場合、別のリスクを背負う可能性ももっています。

 

 

 

 

しかし、現実に結婚するかたちで母親からの干渉を断ち切り、自分の人生を歩み始めた人もいます。だとすれば、そうした過程や方法も肯定できるのではないでしょうか。

 

 

 

 

そのときの問題のひとつは、やはりリスクの点です。現実に、合わない相手と結婚してしまい、二重のショックを受けた人もいます。

 

 

 

 

結婚による社会参加というかたちは認めても、それまでの経過が大事だということになります。また、ふさわしい相手と結婚したとしても、不十分な社会参加になるかもしれません。

 

 

 

 

夫への依存、夫の支えによって社会とつながる、夫を通して社会とつながっている人もいると思いますが、「主婦のひきこもり」はそれが十分ではないこともあることを表しています。

 

 

 

 

それでもこれが自然なかたちで進むなたば、これは大きな前進で、女性が強い精神的ダメージにおかれたままの状態から抜け出していくことは確信できます。

 

 

 

 

もうひとつの例として、家族との断絶をあげましょう。反抗期を反抗期らしくなく過ごした人、いい子として通り過ぎてきたはずの人の一部が、20代後半になってこの不燃焼の反抗期を抱え込むことになります。

 

 

 

 

この抱え込んだものをどう表現するのか。20代後半以降の人の思春期の迎え方、遅れてやってきた思春期の迎え方、自分で自分を育てるときの姿、それがここでのテーマです。

 

 

 

 

反抗期とは、思春期から青年期にかけて、子どもが親離れする過程での親子関係の現われ方です。20代後半になっても、10代のころの反抗期と同じ姿でそれが現れる人もいると思います。

 

 

 

 

しかし、それとは違うかたちでの遅れてきた思春期・反抗期の姿が想定できます。そのときにわたしがやむなしと考えているのは、「修復しがたい親子の断絶」状態です。

 

 

 

 

子どもからの「自分がこうなっているのは親の責任だ」という叫びを、わたしたちはよく聞いています。そんなとき、やがてそれを乗り越え、親子関係として自然の状態になることを想定して、アドバイスをしたりして時を待ちます。

 

 

 

 

子どもの叫びがそのまま、親子関係の終着点になるのではなく、子どもも親も変容していくものだと考えているからです。

 

 

 

 

しかし、場合によっては、この子ども側の叫びの時点で、それがそのまま(ある人は沈黙の怒りのまま。またある人は「怒りが高じて空っぽになった」と表現しました)、子ども側が自立の道を進み、深い断絶にいたることがあります。

 

 

 

 

物理的には同じ家にいても、心理的には深い断絶状態である場合には、赤の他人(というよりもさらにゆがんだ関係)になることもあります。

 

 

 

 

わたしは、それがその人なりの自立のしかた(反抗期のかたちで前進していくもの)ならば、それを肯定します。

 

 

 

 

時間遅れ型の反抗期も含め、それ以外のさまざまな変則的な現れ方があるでしょう。どんなかたちのものであれ、それが子ども側にとって自立の過程、自立の方法として位置づけられるならば、それは肯定され、支持されなくてはならない、とわたしは考えています。

 

 

 

 

きちんと傷つき、腹をくくる

 

 

 

 

ひきこもりという現象は、一般的・常識的にいえば、「よくないこと」「望ましくない状態」です。

 

 

 

 

でも、その一見マイナスに見えるこの現象を、意味あるものにしていくにはどうしたらよいのか、どのように家族の再生へとつなげていけるかをわたしは考えています。

 

 

 

 

新しい関係性の世界へのいざないといってもよいでしょう。そう考えていくと、わたしが目指しているのは、本人も家族もみんなが捉えている、単に「よくないこと」と捉えるひきこもりに対する理解や認識を変えようとしているといってもよいのかもしれません。

 

 

 

 

子どものひきこもりは、単に子どもだけの問題ではなく、個々の家族の生き方そのものをめぐる問題です。

 

 

 

 

だから、そこに一般的な医療モデル、「よくなるモデル」は通用しない、と考えています。

 

 

 

 

しかし、だとしたら親や大人は、何もできないのでしょうか。そうではありません。その問題を、ここで考えることにしましょう。

 

 

 

 

人やものとの関係のなかで、わたしたちは楽しいよい体験もします。が、同時につらいことやいやなこともあり、それが心の傷となります。

 

 

 

 

その両方が必ず起こります。そしてその傷を何とか癒し、よう方向に向かっていこうとあがいていく過程で、人は精神的な成長や心理的な変容を遂げていきます。

 

 

 

 

苦しみなしの喜びなどありませんし、不幸なくして幸せはありません。生きることは苦しいこと、小さな傷、大きな傷をたくさん心に受けながら人は成長していくのだろう・・・・・と思うのですが、なぜかそんな当たり前のことをわたしたしはどこかに置き忘れてしまったのではないでしょうか。

 

 

 

 

そして小さな傷つきに敏感に反応し、誰かを責めることでそれ以上深く傷つくことを避けています。

 

 

 

 

その傷を、きちんと自分で引き受けていません。だから、そこから巣立つこともできません。

 

 

 

 

心に傷を受け、ひきこもったり暴れたりしている子どもたちに必要なのは、まずはその疲れ果てた心をそっくりそのまま受け止めようとする、おとなの側の心でしょう。

 

 

 

 

しかし、それは単に居心地の良い環境を提供し続けるということではありません。やさしく、時に過剰に保護することも必要です。

 

 

 

 

ですが、ただ甘ければよいということでもありません。親が罪悪感にかられ、自責の念を抱いてあとの人生をその贖罪のためにあてる、ということも間違っています。

 

 

 

 

いわんや「二度と傷つかせないように守る」ことがおとなの仕事ではありません。

 

 

 

 

休息はその傷を引き受け、必要な関係性の調整をするための時間です。そして次には現実の過酷さを受け止める軸に切り替えていかなければなりません。

 

 

 

 

そのタイミングとコツが、きわめて難しいのです。だから多くの場合、そこで読み違いが起こり、ひきこもりが長期化し、事態が深刻化していくのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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