ひきこもりと父親
ホーム > ひきこもりと父親

ひきこもりと父親

ひきこもり問題との関係で「父親」を語るとき、父親の「不在」という視点が持ち込まれることが多いです。

 

 

 

 

いちいち例証しませんが、これは臨床心理学や精神医学の立場から、その多くが発言されているように思えます。

 

 

 

 

この視点の源流もおそらくフロイトでしょう。社会的役割モデルとしての父親というあり方が男の子の成長には不可欠であり、その原点にはエディプス・コンプレックス(母を奪われることを代償に父が社会で果たす役割を模倣する)がある、という思い切りフロイトを単純化させた議論が、空気のように心理学や精神医学の専門家たちにすりこまれています。

 

 

 

 

父ー母ー子という閉ざされた三角形のなかで、父親は唯一、「社会」という外の風を持ち込む存在として捉えられています。

 

 

 

 

その役割が果たされていない、家の経済を支えることが逆に「父」という役割の希薄化につながっていると専門家たちは指摘します。

 

 

 

 

原因論でいいますと、母親は母子密着が取り上げられるのに対し、父親は父の不在が取り上げられます。

 

 

 

 

ところで、2000年代も半ばを過ぎてわたしたちがひきこもり・ニートの社会復帰活動をしながら感じるのは、「最近は父親の参加が増えたなあ」ということです。

 

 

 

 

個別相談にしろ、親対象のセミナーにしろ、家族会にしろ、以前はほとんど母親が占めていました。それがこの頃は、きちんと数字を比較したわけではありませんが、明らかに父親の参加率が高くなっているように思えます。

 

 

 

 

その理由はおそらく、会社を定年退職して時間に余裕ができた父親たちが増加したことにあるのではないでしょうか。

 

 

 

 

当然、50歳代の父親も参加しています。しかし、ひきこもりやニートの高齢化に伴い、親も高齢化しています。5~6年前まで親たちは「父親がもう少ししたら定年退職する。それまでに何とか自立してほしい」と子どもに迫っていました。しかし月日が経ち、現実に父親たちが定年退職してしまいました。

 

 

 

 

このように団塊の世代の退職問題はこんなところにも波及しているのですが、いざひきこもりやニートの問題に限ってみますと、それほど悪いことばかりでもありません。

 

 

 

 

個別相談や家族会やセミナーに父親が参加し、母親と問題を共有して解決法を探ることができるからです。

 

 

 

 

わたしたちは不在論で父親を問い詰めることはしません。原因を掘り下げていっても目の前のひきこもりの問題解決にはつながりませんし、第一、支援者が原因を伝えなくても親自身が自分を掘り下げています。

 

 

 

 

わたしたちが父親にお願いすることは、母親と同じくとにかく「動き続ける」ことであり、そのためにその意味と方法を伝えます。

 

 

 

 

とにかく理由は何であれ、ひきこもり問題解決のために父親が参入してくる割合が高くなっています。それまで母親の孤軍奮闘だった戦線に父親が参加することはとても重要で大切なことです。1人より2人で動くほうが当然いいわけです。

 

 

 

 

父親たちが動き始めています。けれども、今までの不在を埋めるためなのでしょうか、父親は「自立」を性急に子どもに迫ってしまいます。

 

 

 

 

父親たちは、抑えても抑えてもこの欲望を振り払うことができません。ひきこもりの状態に子どもがあるとき、「自立」-具体的には経済的自立と親との別居ーを迫ることは得策ではありません。

 

 

 

 

得どころか、損ばかり(親子関係の断絶とひきこもりの長期化)が現れます。ですが、この局面では、こうしたいい意味での利己主義的発想は父親たちには届きません。

 

 

 

 

デメリットを警戒し、技術として「自立」議論はしばらく封印するという提案は、内から突き動かされるマグマによって簡単に吹き飛ばされてしまいます。

 

 

 

 

結果、衝動的に自立議論を子どもに迫るという、ひきこもっている人からすると最も恐れていることを父親は成してしまいます。

 

 

 

 

つまり、父親は、「不在」か「自立を迫る」かのどちらかで大きく揺れているのです。白か黒、あるいは極端から極端。その間にとどまり続けることが多くの父親たち(もちろん留まっている父親も存在します。ここではあえて父親を一般化して語っています)には本当に苦痛なのでしょう。

 

 

 

 

こうしたあり方に対しては怒りも同情も抱きません。母親と同じく、わかっているけれどもそうなってしまう行為、その姿勢自体をまず尊重します。自立というマグマに突き動かされてしまう存在、それが父親なのです。

 

 

 

 

そのあり方を頭から糾弾してもあまり意味はありません。なぜなら、そのマグマにこそ、父親自身の「親としての倫理」が入り込んでいるからです。

 

 

 

 

父親は何もふざけて「自立」を持ち出しているわけではありません。子どもという親密な「他者」にむかうとき、どうしても発動してしまう概念、それが父親にとっては「自立」なのです。

 

 

 

 

他者と真剣に渡り合うときに現れる言葉を、簡単に封印することなどなかなかできません。どうしてもそうなってしまうことの真剣さ、言い換えると、父親の「父としての倫理」を尊重することから支援は始まります。

 

 

 

 

そして、それを尊重したうえで、粘り強くその「倫理」と支援者は向き合うべきです。

 

 

 

 

 

つまり、極端から極端に動く存在である父親、またマグマに突き動かされてしまう父という存在を、父親自身に自覚してもらいます。

 

 

 

 

それと同時に、やはり「動き方」を伝えていきます。これは時間のかかる作業であり、まさに支援者自身の「他者」との向き合い方が問われます。

 

 

 

 

いずれにしても、親という問題を考えるときに興味深いのは、母にしても父にしても、紋切り型の役割分担の押し付けがいかにこの社会に強く残っているかということです。

 

 

 

 

一方は愛情を持つこと、一方はモデルであることが強く求められます。また、その役割分担のなかで想定される子どもとは、常に男の子でもあります。

 

 

 

 

ひきこもりの8割は男性であるという議論がこのことを後押ししています。

 

 

 

 

このように、理屈としては精神分析を源流とする考え方が非常にあてはまりやすいということは確かでしょう。けれども、父ー母ー子の閉じた三角形の理論は、ひきこもりの原因をうまく説明するかもしれませんが、ひきこもりの解決法を具体的に提示してはくれません。その理論は、ただただ親たちに「変わりなさい」と迫るのみなのです。

 

 

 

 

実際は、なかなか変わることなどできません。それどころか親たちは、変われない自分たちを自分で責めるようになります。

 

 

 

 

そして専門家を渡り歩き、またもや「変わりなさい」と迫られます。求められる役割の問題はしばらく置いておくほうが、親自身のフットワークが軽くなるとわたしたちは考えています。

 

 

 

 

まずは閉じた三角形からでることが先決です。役割や変化はあとから付いてきます。まずは親が動くことです。

 

 

 

 

原因や役割はしばらく置いておきましょう。結果として親自身も変われたらラッキーですが、それよりも子どもの状態を少しずつ変化させることのほうが大切です。現実には、そんな考え方のほうがうまくいくことが多いです。

 

 

 

 

父親に求められるもの

 

 

 

 

子ども・若者のひきこもりの相談に来る多くは母親です。では、父親はどうかというと、相談の場面では大まかにいって、つぎの3つになります。

 

 

 

 

1、相談のなかでは、ほとんど(まったく)話に出てこない。

 

 

 

 

2、非協力者(または障害の代表人物)として登場する。

 

 

 

 

3、協力者として登場する。または父親自身が相談者。

 

 

 

 

3の「理想的」な父親は全体の1~2割でしょう。1と2はかなり重なっていて相談中に父親の話題が出ないので「お父さんはどうしていますか、どう考えているんでしょうか」と尋ねてみると、2に当たるという人が圧倒的に多いのです。

 

 

 

 

相談者がひきこもりの本人である場合も、この傾向は同じです。そのほかの返事としては、不在、単身赴任中、無関与・・・・というところです。

 

 

 

 

割合としては2割くらいはいるように思います。全体として、父親は非協力者の代表格、または子どもがひきこもりになった原因者となっている、とされているようです。

 

 

 

 

ときどき「父親さえ動いてくれたら、すぐにでも子どもが動き出す」という感じで話す人もいますが、わたしは父親が動き出したとこによってすぐに子どもが動き出した実例を知りません。

 

 

 

 

「当事者の会」に参加しているひきこもりの経験者、あるいは現在ひきこもり中の人たちの話の中でも、父親は非難の対象になっていることが多いようです。

 

 

 

 

「働いて当然ではないか」と攻撃してくる。話すことはそれしかないのかというほどワンパターンである。働かないのは「無駄飯食い」「怠け者」という単調な繰り返し、家族の中の絶対者であって、自分の思い通りにしている。

 

 

 

 

「外面はよく内面は最悪」・・・・・いろいろなバリエーションはありますが、非難される対象としての雰囲気は似ています。

 

 

 

 

それを聞いているわたしは、だんだん父親に同情したくなります。同じ父親としての連帯感でしょうか。父親にも、そんなに悪人はいないでしょう。

 

 

 

 

家族のことをあれこれ思っているけれども、表現方法が下手で、ちっとも理解されていません。そればかりか、むしろ非難の対象になっています。

 

 

 

 

気の毒というのはこういうことではないでしょうか。こんな話をしたところ、「なかにはそういう理解されていない父親もいるかもしれませんが、うちの父親は本当に違うんですよ!」と、あらためて父親の頑迷さを再確認させられたこともよくありました。

 

 

 

 

そのような独裁的で、人の意見を聞かない自己中心的な父親もたぶんいるのでしょう。ですからわたしもここは一歩引くしか手はないようです。

 

 

 

 

そうしたら、20代の女性が「うちは父親も母親も同じ」といってきました。子ども側からみれば、父親と母親は「五十歩百歩」というところが少なくありません。

 

 

 

 

女性の場合は、「母親との確執」を強く意識する人もいます。話がこんがらがってくるので、ここはとりあえず、子どもにとっては父親への怒りがある、母親にもその半分ぐらいは言いたいことはある、ということで収めてもらって、先に進みたいと思います。

 

 

 

 

母親と子どもは、ともかくコミュニケーションはとれています。そして父親とは断絶状態にある場合が多いです。このような状態を想定して、どこへどう進むのかを考えてみましょう。

 

 

 

 

ただし、それは解決策ではありません。たぶん事態が大きく変化するときには、ここに述べるような状態が基礎的にできているだろうということです。

 

 

 

 

ひきこもり状態を今より一歩でも改善・向上しようとするとき、父親と母親には、こういうことが求められているのではなかろうか、という提案みたいなものです。

 

 

 

 

劇的な特効薬的な処方ではありません。父親の言葉や行動が攻撃的になるのは、子どもの事情をよくわからないまま、「怠け者だ」「働け」などといったことを口にするからです。

 

 

 

 

社会参加という基準があり、そこから不足分をみていく、いわば引き算方式の評価でものを言います。また、甘やかしたからこうなった、厳しくすることが父親の役割だと単純に思い込んでいる人もいます。

 

 

 

 

いずれにしろ、子どもがひきこもりにいたった経過には関係なく、父親自身が家族の一員であることも度外視して、家族に君臨する形で言葉を発するからだと思います。

 

 

 

 

これでは敬遠され、コミュニケーションの場からはずされてしまっても当然といっていいかもしれません。この状況を職場にでも置き換えて考えてみれば、よくわかるだろうと思います。

 

 

 

父親であっても、母親であっても、家族のほかの誰であっても、ひkいこもりの当人とコミュニケーションが取れなくなっていては、何かをすることは難しいものです。

 

 

 

 

まず、子どもとコミュニケーションが取れるところからはじめることが大切です。「社会参加・社会復帰」への支援はその延長線上にあると考えてください。

 

 

 

 

「いまさらコミュニケーションといっても、どこから手をつけたらいいのか、見当もつかない」と思う人がいるかもしれません。

 

 

 

 

一口にコミュニケーションといっても、比較的とっつきやすいものと難しいものがあります。仕事、働く、将来設計的なことを一緒に考えようとするコミュニケーションは難しいものです。

 

 

 

 

ひきこもりの人はそこは暗中で、ほとんど模索の糸口がありません。そこからはじめるのは無理があります。まずは、衣食住に関することがいいでしょう。

 

 

 

 

それにあいさつなど日常生活的なことです。人間にとって必要な衣食住、つまり健康状態や食べ物、部屋の衛生状態、冷暖房についてなどをお勧めします。

 

 

 

 

このとき、子どもの意見を聞くことが大事です。しかし、一方的に聞くだけでなく、子どもの気分や状態を見て、提示したり部分的に反論もしてみることです。

 

 

 

 

これを聞いて、「衣食住に関する話をしたけれども、なんの返事もなかった。これはコミュニケーションの手段ではない」と言った父親がいました。

 

 

 

 

何年も断絶状態にあった父と子が、あるとき衣食住だったらコミュ二ケーションが取れると聞いて、それをやってみた。

 

 

 

 

 

しかし返事はなかった。だからそれはコミュニケーションの手段ではない・・・・・気持ちはわかりますが、そう短絡的に結論をださないでください。

 

 

 

 

時間の空白はそう簡単には取り戻せません。一度、話しかければすぐに反応が返ってくるというものではないのです。

 

 

 

 

衣食住に関することがいいというのは、とっかかりやすいという以外に、「おまえのことを日常的に気にかけているよ」というメタ・メッセージでもあるからです。

 

 

 

 

母親が子どもとコミュニケーションがとれているのは、その内容がおもに衣食住など日常生活的な内容であることと関係しています。

 

 

 

 

ですから、そのなかに、「外出してみたら」「バイトでもしてみたら」という言葉が混じっていても、子どもはある程度までは受け入れるのだと思います。

 

 

 

 

父親が心から気にかけているのか、本か何かで効果的だったと知った「方法」を試しているだけなのかは、一瞬のうちに子どもに見破られてしまいます。

 

 

 

 

子どもは「本物」を望み、それを判断する時間(期間)を経て、ようやく反応(返事)をするのです。

 

 

 

 

先日、ある母親が相談に来たときに聞いたことです。10代の息子と父母の3人家族で、息子はひきこもり状態です。

 

 

 

 

この親子3人でマージャンをしているそうです。面子が3人のうえ、母親はあまり強くないですから、マージャンとしては盛り上がりません。

 

 

 

 

しかし、父親と息子に日常的にコミュニケーションがあるのはこのマージャンがあったからだというのです。

 

 

 

 

このようなことも、とくに息子と父親との間のコミュニケーション作りの手段としてはいいのかもしれません。

 

 

 

 

たとえば、車やバイク、パソコン、テレビゲーム、プロ野球、サッカー・・・・などです。ひきこもり状態からの出口を求めて外出したり、人と会えるようになったとき、わずかなヒントを見つけたとき、子どもにとっていちばん話をしたいのは親でしょう。

 

 

 

 

とくに男性であれば、その相手は父親でしょう。その事態になって、実際に息子が父親に話せるかどうかは、日常的なコミュニケーションがあるかどうかによります。

 

 

 

 

それまで親子関係が断絶していて、突然そのテーマだけで話すのは難しいと思います。

 

 

 

 

父親はあらゆることを受け止めるつもりでいても、子どもにはそのような姿としては映っていないのです。

 

 

 

 

子どもの側から見れば、「ここ一番」のときにコミュニケーションをとりたいのはむしろ子どものほうであって、断絶しているのは父親のほうという関係になっています。

 

 

 

 

これは悲しむべきすれ違いです。

 

 

 

 

ひきこもりにおける父親の役割

 

 

 

 

いままで述べてきたように、子どもにとって父親の役割は非常に大きいものです。

 

 

 

 

ここで「親」といっているのは、両親がいる場合は両親のことをいいます。両親のうちのどちらだけ、たとえば母親だけがその役割をはたせばいいというものではありません。

 

 

 

 

母親も父親も、それぞれに役割を果たす必要があるということです。特に、実際にひきこもりの人の親を見ていて感じるのは、父親の役割の重要さです。

 

 

 

 

父親は子どもにとって父親であるとともに、社会の代弁者であり社会を象徴する存在なのです。

 

 

 

 

社会とは、父親と同じような人よって仕切られている世界です。その父親が変わることで、ひきこもりの子どもが元気になった例はたくさんあります。

 

 

 

 

ひきこもっている子どもへの接し方を父親が変えると、子どもが父親に心を開いていきます。

 

 

 

 

やがて父親と子どもの関係がよくなり、子どもは元気になってくるのです。

 

 

 

 

ひきこもりの人の多くが、父親と向き合い、互いの話に耳を傾けて対等に話し合った体験を持っていません。

 

 

 

 

父親は、子どもとほとんど会話をせず、子どもにいいたいことがあっても直接いわずに、「こういっておけ」とか「こうさせろ」などと母親に言って、母親を通して自分の意見を伝えたりします。

 

 

 

 

日本の夫は、妻に対して「メシ」「風呂」「寝る」の3つの言葉しか発しないという笑い話がありますが、実際、子どもに対してだけではなく、妻ともほとんど会話をしない父親はたくさんいます。

 

 

 

子どもがひきこもっているだけではなく、父親も家族に対して心を閉ざしているというべきかもしれません。

 

 

 

 

また、子どもにどなったり、命令したり、説教をしたりする父親もたくさんいます。

 

 

 

 

ひどい場合は、つしけと称して子どもに暴力をふるうことがあります。妻に対しても、自分が話したいことばかり一方的に話したり、気に入らないことがあるとどなりつけたりします。

 

 

 

 

こうした父親は、夫であり親であるという家庭での大事な自分の役割を、ずっと放棄してきたといえるでしょう。

 

 

 

 

ひきこもりの子どもが心を開くためには、両親の協力が必要です。しかし、現実には、ひきこもりの子どもの父親には、妻ともまともに話し合うことができず、ずっと無関心でいる人や、「ちゃんとしたことができない」本人を頭ごなしに非難する人が多いのです。

 

 

 

 

実際に口に出さないまでも、心の底では「本人が悪い」とおもっていることはよくあります。

 

 

 

 

当然、妻にも協力的ではありません。それどころか協力を求めると、怒り出すこともあります。

 

 

 

 

家庭での役割を放棄していても、本人は申し訳ないと思うどころか、「自分は苦労して金をかせいで家族を養っている」から「自分に不満を言うのはお門違いだ。不満をいわれるどころか、家族はもっと自分に感謝するべきではないか」と思っていることがよくあります。

 

 

 

 

父親への不満や非難に対して、「誰のおかげで食べていけると思っているのか」と反論することもあります。

 

 

 

 

家庭には、生活の経済面・物質面を維持する機能と、家族間の信頼関係を保つ機能が必要ですが、こうした父親は、「父親は経済面の担当者」と自分の役割を限定し、「自分は稼いでいるのだから、父親の責任を果たしている」と自信を持っています。

 

 

 

 

また、家事と子育ては母親の役割」と思い込み、子どもに何か問題があっても母親に対して「おまえがちゃんとしろ」といったり、「おまえが甘やかすからこうなった」と責めたりします。

 

 

 

 

家族の役割のうち、経済的な面の価値を極端に高く評価しているのも、こうした父親にはよくあることです。

 

 

 

 

「お金を稼いでいる人間は、家族のなかで一番苦労していて一番偉い」とでも思っているかのようです。

 

 

 

 

確かに仕事をしてお金を稼ぐのは、たいへんなことです。また、日本の高度経済成長を中心となって支えてきたのは、そうした仕事熱心な父親たちだったでしょう。

 

 

 

 

そして、家庭においても、経済面の安定がとても重要なことはいうまでもありません。

 

 

 

 

しかし、家庭の機能は経済だけではありません。経済面と精神面の両面が満たされることで、家族であることの幸せを家族全員が実感できるようになります。

 

 

 

 

「自分が一番苦労しているのだ」とおもっている父親は、ひきこもる子どものしんどさを感じることができません。

 

 

 

 

そしてひきこもりの子どものことを、「たいした苦労もしていないのにしんどいというのは、甘ったれているのだ」と思っています。

 

 

 

 

社会人として一定の成功を収めていると、なおさら「自分が間違っている」とは思いにくいようです。

 

 

 

 

たとえば、たいへん仕事熱心で「仕事の鬼」といわれていたお父さんがいました。

 

 

 

 

事業は大成功を収めましたが、妻はアルコール依存症となり、娘さんは父親に反発してひきこもり生活となっていました。

 

 

 

 

精神科医の斉藤学氏は、「家族パラドクス」(中央法規出版)で、「日本の父親たちに見られるアディクション(依存症)は、アルコール依存症よりも仕事依存症のほうがずっと多い」と指摘しています。

 

 

 

 

わたしの経験からも、仕事依存の父親は多いと思われますが、そうした人は職場では、「よく働く」と評価されがちで、本人に問題意識は乏しいと思われます。

 

 

 

 

さらに、そのような父親は職場の価値感や組織理論を家庭に持ち込み、お金中心の価値感や、支配、被支配の人間関係で家族を見てしまうことがあります。

 

 

 

 

母親が働いている場合は、母親も仕事中心の意識になることがあります。また、祖父母に子育てを任せていることもありますが、日常的な世話はできても、父親母親の役割を彼らに代わってもらうことはできません。

 

 

 

 

父親と子ども、母親と子どもの信頼関係づくりは、やはり父親、母親がやるしかないのです。

 

 

 

 

信頼関係が必要なのは、親子間だけではありません。家族でいえば、中核になるのはむしろ夫婦間の信頼関係でしょう。

 

 

 

 

子どもに無関心な父親や支配的な父親は、妻とも信頼関係を作れていない場合が多いです。

 

 

 

 

たとえば、妻が夫に話しかけてもあまり話を聞きたがりません。妻は夫が聞いているのかどうかわからず、わかってほしいと思って一方的にしゃべりつづけます。

 

 

 

 

すると、夫はうるさくなって、無視したり怒り出したりして、夫婦喧嘩になることがあります。

 

 

 

 

そんなことが繰り返されると、妻のほうもあまり夫と話さなくなります。カウンセリングをしていますと、夫に話を聞いてもらえなくても、「夫との間でトラブルになるよりも、わたしが辛抱したほうがいい」と、何十年も辛抱し続ける妻がたくさんいます。

 

 

 

 

このような状態ですと、表面的にはトラブルは起きませんが、妻は不満を溜め続けることになります。

 

 

 

 

そしてこのような妻は、子どもに関心を向けすぎて、過保護、過干渉になることがあります。

 

 

 

 

「父親がいない分、わたしが子育てをがんばらないといけない」と思ってしまうのかもしれません。

 

 

 

 

これは母親の執着愛であって、無条件の愛ではありません。前出の斉藤学氏は、「父親が仕事にかまけ、家庭での責任をほったらかしにしている」家の母親は、「夫に絶望し子どもの世話焼きに没頭する」ことが多く、子どもにとって悲惨な状況になると述べています。

 

 

 

 

そして、こうした母親は、「子どもを生きがいとし、期待で縛り上げる。この縛りから抜け出そうとする子は非行やひきこもりなどの「期待はずれ」を演じるほかない。

 

 

 

 

縛りに甘んじる子は、自分の欲望を知らないロボット人間と化す」として、わたしが前章で述べたような「良い子ロボット」と共通する指摘をされています。

 

 

 

 

ことに、夫の親と同居している場合は、その姑が子育てに介入してくることがあります。

 

 

 

 

子育ての経験者として口を出さずにいられないのかもしれませんが、妻にとっては夫の両親に文句を言われたり、いわれるかもしなれいと思ったりすることは、とても大きなプレッシャーになります。

 

 

 

 

そのように妻が子育てのプレッシャーを受けていても、夫は嫁と姑の問題はわずらわしいと思い、なるべく関わらないようにして、妻の支えにならないこともよくあります。

 

 

 

 

その結果、孤独な妻が姑から文句を言われないよう、口うるさく子どもに圧力をかけるようになることがあります。

 

 

 

 

あるいは、不満を溜めた妻が、子どもをストレスのはけ口にすることもあります。

 

 

 

 

なんでもないことで子どもを叱り、子どもに当たるといったことなどです。一方で子ども自身は、親を通して生き方を学ぼうとしても、父親が向き合ってくれないので、「お父さんは親なのに、なぜ自分の話を聞いてくれないのか。なぜ自分のことをかまってくれないのか」と不満をため、ストレスを強めていきます。

 

 

 

 

また、「社会は父親のような人ばかりで自分なんか受け入れてくれるわけはない。そんな社会ではとてもやっていけない」と思い込むようになります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メニュー

過去の記事

団体概要
団体名
関東自立就労支援センター
理事長:
大橋秀太
理事:
大畑健太
理事:
杉下真理
住所
東京都東久留米市浅間町1-12-9
TEL
042-439-4355
メール
ki6jt7@bma.biglobe.ne.jp
活動内容
・若年者の就労支援、
 学習 支援、生活訓練
・共同生活寮の運営
・教育相談の実施
・各種資格取得支援