ひきこもりとのコミュニケーション
わたしがひきこもりや不登校の子どもと話をしているときに気をつけていることがあります。それは答えを焦らないということです。焦って答えをだすことがいい結果につながらないことが経験上わかっているからです。質問されたときすぐに答えを出そうとするのは、早く答えを出したいという焦りからです。
早く答えを出すことによって、その場から解放され、自分を安心させたいということです。問題の答えが出ない状態で心に残っていれば、不安感や焦燥感から逃れられないからです。しかし、ちょっとまってください。その場で答えを出さなければならないことがそんなにありますか、と逆に問いたいのです。
少し待って考えて、それから答えを出して遅いということがそんなにあるのでしょうか。はっきりいって、焦ってそんないい答えが出せるとは思えません。特にひきこもりの子どもと話していると、答えに窮するような質問を投げかけてくることがあります。
それに答えれば、また次の質問というように、ある意味では相手を困らせるように投げかけてくる子どももいます。そういう子どもたちは、相手を言い負かすことがコミュニケーションだと思っているのです。相手が答えられなくなって困っている姿を見て、自分のほうが優れているんだという間違った優越感を持とうとするのです。
しかし、これはあまりほめられたことがなく、成功体験も乏しい子どもが、自分のことをすごいと思ってもらいたいという気持ちからやっていることなので、別段気にする必要はありません。
それよりも、その子どもの意図に乗ってしまっては自分自身を追い込み、また子どもを増長させることにもつながります。わからなければわからないでいいのです。親だからすぐに答えを出さなければと自分を追い込む必要はありません。
わたしは子どもと話をするとき、そのなかですぐに答えがだせそうにないときは、間をとるようにしています。心の中で「1,2,3、」と数えてから答えを出すように努めています。それぁら冷静になってゆっくり考えたり、他人の意見を聞いてみたりして答えるようにしています。
答えてしまったばっかりにそれを実行しなければならず、余計困った事態になったことはないでしょうか。もしその答えた約束が実行できなければ子どもとの信頼関係がさらに悪くなってしまいます。考えた結果できないという結論が出たならば、その通りに答えてあげればいいのです。
少なくとも焦ってできもしない答えを出してしまうよりよほどいいはずです。コミュニケーションは勝ち負けではありません。もちろん子どもの言うことに関心を持って、できるだけ一生懸命考えてあげることは必要です。しかし、そのなかで相手の言うことにすばやく答えなければいけないという考えは取り払ってください。
言い方を変えると、感情的になって答えてはいけないということです。感情的になって答えると、相手を否定するような言動になりがちです。だからそのときは腹が立ってもそれをすぐにぶつけ返すのではなく、いったん心の中で「1,2,3、」と数えてみてください。そうすることで冷静さを保つこともできますし、考える余裕も生まれます。子どもが言ったことに感情的になって、子どもを罵倒したり、叩いたりしたことはありませんか。
そういうときは必ず後になって後悔するものです。叱るのならば、愛情を持って叱らなければ、残るのは後悔だけです。子どもにしてみたら、自分の言うことを否定されて暴力を振るわれたという恨みの感情が残ってしまいます。もう一度言います。難しい質問をされたり、迷ったりしたときは、心の中で「1,2,3、」と数えるようにしてください。
意思表示をはっきりと
関東自立就労支援センターでは子どもたちに「イエス・ノー」をはっきりと言うことを教えています。日本人的な考え方をすれば、「イエス」でも「ノー」でもない真ん中を言うことが多いのですが、それでもあえて「イエス・ノー」をはっきりさせるようにしています。
それは、「イエス・ノー」がまずあって、次に真ん中があるという考えに基づいています。そうでないと、「どちらでもいい」「わからない」などが先に出て、物事を決断する能力がつかないのです。
食事をするときにメニューを選ぶことさえままならない子どもたちがいるように、自分で何をしたらいいか決められず、言われるがままにしている子どもたちに自分で決めるということを教えたいからに他なりません。
これはもちろんコミュニケーションがとれて、信頼関係ができた上で教えられることなので、その一歩手前の話をしましょう。親御さんに理解してもらいたい「イエス・ノー」は少し趣がかわってきます。今書いたような教育ができる以前の状態であると推察されるので、これは親の側が意識してもらいたいことになります。
それは「イエス」か「ノー」かどちらか一方にするということです。どういうことかというと、簡単に言えば、ほめるときはほめるということです。よく親子の会話を聞いていると、「よくやったね、でも・・・・」というやりとりがでてきます。
この「でも」が問題なのです。これでは、子どもはほめられているのか叱られているのか分からなくなってしまいます。もちろん「がんばったらゲームを買ってあげる」というのとは違います。これはあくまでやる気をださせるための動機付けであって、意味合いが違います。
わたしもこういう方法を使うこともありますし、やり方によっては有効な手段になります。しかし、ほめるときに条件付きというのはいいやり方ではありません。ほめるならば、ほめられたんだと相手に感じさせてあげる必要があります。
これは小さい子どもでも大人でもかわりません。ほめられたという感情はもっとやろうというやる気につながっていきます。だからやる気を失っているひきこもりや不登校の子どもたちには、ほめるときはちゃんとほめるということが大事なのです。もし、「でも・・・・」に続く言葉を伝えたいのであれば、別の機会に分けて話をしてください。
いっぺんにやろうとせずに待つことも大切です。これは叱るときも同じです。しかしここで必要なのは、叱った場合は必ず後でフォローするということです。ほめるときと同じでいいじゃないかといわれるかもしれません。しかし、人間はそんなに強くありません。
特にひきこもりや不登校になる子どもは叱られること、怒られること、注意されること、もっと言えば何かいわれることに対してとても敏感です。だから必ずフォローするということが必要になってくるのです。本人が理解して納得しているのであればいいのですが、わたしならそれでも必ずフォローするようにします。
会社でも信頼される上司というのは必ずフォローしているはずです。逆に言えば、言ったら言いっぱなしでは人間は育ちません。これは抵抗力がない子どもにはなおさらです。付け加えていうと、叱るときや真剣な話をするときはタイミングを選ぶことが大事です。
時間的には、食事の前は避けたほうがいいでしょう。お腹をすかせた状態で、叱られるのはあまりいいものではないからです。場所的には、いかにもこれから叱るぞという場所は避けましょう。たとえば、居間に両親が座って、いかにもこれから真剣に話をするぞという雰囲気は止めたほうがいいです。
これでは話をする前から、子どもも構えてしまいますし、子どもはこういうとき、いかにしてこの場から逃げるかを考えてしまい、肝心の話が頭に入ってきません。一緒に出かけることが可能であれば、場所を変えて気分を変えて話をすることが有効です。わたしは話の内容によって、喫茶店に行くこともあれば、ホテルのラウンジで話をすることもあります。
それは環境を変えるだけでも、厳しい話が和らぐこともありますし、楽しい話がさらに印象深くなることがあるからです。褒めることと?ること両面について書きましたが、パーセンテージとしたらほとんどほめることに比重を置いてください。愛情を持って、本心からほめてあげるようにしてください。ほめられることが嫌いな人間などいません。
しかも子どもがいちばんほめてもらいたいのはいつだって親なのですから。子どもとコミュニケーションをとるために大事なことを書いてきましたが、ご理解いただけたでしょうか。コミュニケーションは「対話」であって、お互いがお互いのことを尊重して初めて成り立つものです。ここまで書いてきたことはある一つのものが基本になっています。それは「心」です。
現代社会の教育において、やれ方法だとか能力だといった技術を身につけることにあまりにも偏っているように思えてなりません。右と左があるように、人間にも能力を身につけることが右だとしたら、「心」を身につけることが左になります。この2つがバランスよく身についていなければ、人間関係は円滑には進みません。
勉強することもスポーツで勝つための技術を身につけることも大事なことです。しかしその一方で、挨拶、感謝、反省、相手を思いやる心が欠けていれば、バランスの悪い人間になってしまいます。
今、このバランスを失ってしまっている人間がいかに多いことでしょう。人間は目に見える成果を重視する傾向があります。それはわかりやすいからに他なりません。勉強で言えば、点数であり、偏差値というものでしょう。
一方、「心」には点数も偏差値もつけることはできません。しかし、ひきこもりの子どもたちを救うのはこの点数も偏差値もつけられない「心」を持った人間なのです。今、自分の子どもが学校に行かずひきこもっていて、暴言を吐いたり、暴力を振るったりしていることもあると思います。
しかし、子どもが小さかったときのことを思い出してください。「お父さん、お母さん」と親に頼って、自分のことを一番信頼してすり寄ってきたはずです。
原点に戻って、そのときのことを思い出してみれば、「この子をなんとかして救ってあげたい」という気持ちが沸き起こってくるはずです。その愛情こそが子どもを救うことができるのです。わたしは「何とかしてあげよう、絶対にあきらめない」という気持ちだけで子どもたちに向かい合っているといってもいいでしょう。
わたしも人間ですから、子どもたちの言動で腹が立つこともたくさんあります。しかし、そういった子どもたちの言動だって一時的なもので、もしかして自分のやり方が間違っているのではないか、愛情が足りないからではないかと考えると気持ちが落ち着いてきて、また何とかしてあげようという気持ちがふつふつと沸きあがってきます。
だから、親御さんには「あきらめないで、愛情を注いであげてください」と強く言っておきます。そうすれば、子どもは必ず親のところに戻ってきます。そして、いつか必ず、子どもとのコミュニケーションがうまくとれて、希望が持てる日が来ることを信じてがんばってほしいと思います。
コミュニケーションの基盤
そもそも話を聞くということと、話をするということはいったい、どういう行為なのでしょうか。「なぜ、お前はひきこもっているのか」「なぜ、お前は会社(学校)へ行かないのか」と親に問われるとスーッと自室に逃げ込んでしまったり、壁やドアを蹴ったり叩いたり、物を放り投げたり、あるいは耳をふさいでワーッと叫びだして出て行ってしまう、ということがよく起こります。
また、何か言うと、がなりたてる子どもを前に、「そんな声を出さなくても、ちゃんと聞こえているのだから静かに言ってちょうだい」と眉をひそめるお母さんがいます。
「わめかれるともうそれだけでもう、聞こうという前に生理的に嫌悪感が走ってしまうのです。神経がおかしくなるのです。どうしてうちの子は普通に話せないのでしょうか」と、聞かれたりもします。でも、それは違うのです。子どもたちは普通の言い方では伝わらない、あるいは伝えられないから、そういう行為で内面を語っているのではないでしょうか。
民俗学者の柳田国男は、「近頃はなんでもかんでも言葉にする、泣いていたのではよくわからないから言葉にせよ、という言い方をするけれども、言葉にならないから泣くのだ」と言っています。
先の例でいえば、子どもはきちんとした意味内容のある言葉としては、まだ自分の体のなかでうずいているものを表すことができません。だから言葉として凝結させられず、それ以前のうめき声や泣き声、吼え声といったような動物的な語りや、暴力的な行動、あるいはその場から黙って去る、という「からだ言葉」でせめて表現しているのです。
それが今、その子どもにとって、精一杯のギリギリの応答なのです。今、それまでおとなしかった子どもが突然キレるということが話題になっています。それは、彼らの内面で言葉として凝結される以前の、もやもやとしたかたちで自分のなかに散らばっている気分や感覚といったものが、あるとき何かのきっかけでいきなり突き上げてくる、というときに生じる現象であるとわたしは考えています。
子どもがキレたり非行に走ったり、ひきこもりになったり家庭内暴力を起こしたり、あるいは神経症的な症状で表しているのは、子どもの「何か違う・・・」「何かをどうにかしなければ(これ以上、このままでは生きていけないよ)」「助けて・・・・」という、どうにもならない内的世界のうめきなのではないでしょうか。
わたしたちが赤ちゃんに関わるときには、赤ちゃんの発する泣いたり笑ったり、怒ったりむずかったり、というような「からだ言葉」を必死に解読しようとし、その意図するものを探り当てていこうと思います。おしめを替えてにっこりされたときには、「ああ、今泣いていたのは、おしめを替えてほしかったからなのね」とわかります。あるいは抱っこして泣きがおさまれば、抱っこしてほしかったのだ、と理解します。
わかってもらえたうれしさと、わかってあげられた喜びが重なり合う、至福の瞬間です。このとき、赤ちゃんの発する「からだ言葉」は、立派に人と人とがわかりあうための道具として機能し、活躍しています。
ところが、わたしたちが語り言葉を獲得していくに従い、このコミュニケーションに基底にあるはずの、非言語的なメッセージを軽んじるようになり、それが急速に受け皿を失っていきます。しかし、非言語の世界は圧倒的に大きく、言葉に置き換えられるものは、そのごく一部にしかすぎません。
「コミュニケーションの基盤にあるのはノンバーバルなものであり、言葉は枝葉部分」なのです。
それなのに、いつのころからかわたしたちは、語られる(あるいは書かれている)言葉だけでコミュニケーションをしようとする、あるいはしている気になっているのではないでしょうか。「言わなければわからない」という前に、わたしたちは「言葉になる前のフィーリングを察する心」をもう一度、取り戻すことが必要なのではないでしょうか。
それがまず、人と人とがわかりあうための、コミュニケーションの第一歩なのではないかと思うのです。聞くという行為は、ただ語られている言葉の意味内容を聞いて、やりとりをするということではありません。それは本来、語られている言葉と、言葉以外のメッセージを合わせて相手に触れる、という行為であり、言葉の響きを感じることです。
もう少し、具体的にお話しましょう。たとえばわたしが心理治療の場で人の話を聞くときには、その人が語っているその言葉の意味内容に注意を向けるだけでなく、まったく同時にその言葉を発しているその瞬間に相手が示す躊躇、語りのトーン、目の伏せ方、りきみかたや座っているときの姿勢のかたさなど、「からだ」が語るそれらすべての情報を総合して聞いているように思います。
それは相手の語りの響きそのものに触れようとしているということになるでしょうか。心理面接の場で、「親がわかってくれない」と子どもが訴える、あるいは、「あの子はもう、だめなのではないでしょうか」と親が訴えたとしましょう。
その彼らの声はまず、わたしの耳に届きます。その語りが語り口とともにわたしの耳や目から入り、静かに腹にまで降りていきます。腹で受け止められた感情は、今度はじっくりとわたしの末梢神経にまでめぐっていきます。
その「言葉」に含まれているすべてを、わたしのからだ全体で聞くのです。わたしの体を通って醸成された「何か」は、今度はゆっくりと上昇し、心を通過してわたしの口から何らかのメッセージとして語り返されます。
このようなプロセスをへて発せられる「言葉」には、いのちが通っています。このような「言葉」が相手の心に響くと、相手に何かしらの変化や動きを生じさせます。わたしの考える対話する関係とは、このように互いに影響を及ぼしあい、影響を受け合うことによって互いに変容していく、という行為です。
ところが、通常おこなわれている話し合い・・・・それは学校場面でも親と子の間でも響きとしての相手の全存在をかけた「言葉」に注意が向かず、語られている意味内容にばかりひっぱられている、ということが多いのではないでしょうか。
耳から入った情報を直接頭にスッとあげてしまい、頭で考えたことを口に出している・・・・いわば頭だけがつかわれ、自分自身のからだ全体がつかわれていません。
だから、ああいえばこういう、というようなうわっつらだけの言葉のやりとりになっていってしまいます。当然、相手と分かり合える対話にはなりません。だから何の変化も変容も起こりません。
このように考えると、わたしたちは言葉を単なる記号としてつかい、浅く捉えることにあまりにも慣れてしまっていることがまず、根本的な問題になっているように思われます。何かを問われれば、ほとんど反射的に知識を総動員して答えを出そうとします。
だから肝心なことは何も聞けていない、ということになります。しかしわたしたちはほとんど、これまでお話してきたような学びの体験を教育の過程で受けていません。
竹内敏晴氏は、「ほんとうに話しかける、声で相手にふれるという、人間の基本的な行為の能力が今わたしたちから、しらずしらずのうちに奪われていきつつあるのじゃないか・・・ことば=声が相手の体に触れ、「胸に沁み」「腑に落ちる」つまりからだの内にはいっていって、相手のからだとこころを動かす、変える、これが話すということでしょう。
現代のわたしたちのかわす話とは、ただ文章としてのことばを投げかけ、それを聞き分け、意味だけがわかればそれで了解した、ということにとどまる・・・・だがそれはいわばサインの伝達で、全人間的な話しかけとは違うでしょう」(教師のためのからだとことば考・ちくま文芸文庫)と述べています。
わたしは「話を聞くこと」と「話しかけること」は別々のものではなく、互いに連動しあう車の車輪のようなものであると考えています。「話を聞く」とは、単に語られている意味内容を分析し、理解することではありません。聞くということは響きを感じるということであり、「話しかけること」もまた同様です。それは、言葉をつかって相手にはたらきかけることであり、言葉は相手に触れるための媒介物です。
さて、これまでお話ししてきたことを、別の角度から再度ながめて見ましょう。よく「自分は子どもと何でも話し合っている。だから、子どものことはよくわかっている」といわれる親御さんがいます。
しかしわたしは、いわゆる「おしゃべり」は対話ではない、と考えています。たとえば「今日はどうだった?」「変わったことあった?」と親が子どもに問うたとしましょう。この問いかけに対してこと細かに話すこともあるでしょうが、多くは「別に」とか「ないよ」などといった返事が返ってくるでしょう。
そのときわたしたちはその言葉だけでなく、そのやりとりのときに周囲に漂っている雰囲気全体によって、そのときどきの子どもの状態を理解しようとします。「おもしろかったよ」と言葉で言ったとしても、その言い方から楽しさがあまり感じられない場合には、「ああ、あんまりおもしろくないことがあったんだな」と推測します。
このように言葉での語りと、それを発したときの非言語的なメッセージ、つまりフィーリングの両者が一致していない場合、正しいのは、その語りの周囲に漂っているフィーリングのほうであって、語られた言葉のほうではありません。
返事が返ってくるまでに、いつもよりちょっと間があいた、表情がちょっと曇っていた、しぐさがいつもと違うとか・・・・。あるいは、それを言った後、すぐに自室にはいってしまうとか、用もないのにぐずぐずとその辺にいる、ゴロゴロしている、顔色がさえない・・・・等々です。
そういうときには、「大丈夫」といっても、その言葉で表現しきれていない「何か」があります。つまり「大丈夫ではない」というメッセージだとわたしたちは受けとめます。
そして、その子がただ言葉だけを羅列し、心ここにあらずのような状態である場合、何か心のなかにひっかかっていることがあるのだろうとわたしたちは推測します。このように、語られる言葉とそこに漂っている非言語的なメッセージを含め、まるごとで対話というものは行われています。言葉になっているものは、本人がある程度、自覚している分です。
言葉になっていないで行動や仕種、雰囲気のなかに表出してくるものは、まだ意識化できていない、いわば自覚していない思いのほうです。そして自覚できていないことのほうが、圧倒的に多いのです。そしてこの、言葉になっていないメッセージを読み取るのに用いられるのが、親の「察する心」です。
それが子ども自身も気づいていない、心の奥深くでうごめいているものをやがては表面化させ、言葉として凝縮させていく原動力になっていくのです。わたしたちは「対話」というと一般的なおしゃべりを連想したり、あるいは議論しあう関係を連想しがちです。
しかしわたしの言う対話とは、このような互いに心の中にある、無意識的な思いを手探りしながら察し合うことを通して言語化していき、徐々に意識化していこうとする試みのことなのです。
わたしたち関東自立就労支援センターは、自分の携わっている相談ケースを見直し、より深く理解するために研究会を行い、先輩の先生たちに指導を受けます。それをスーパービジョンとよんでいます。わたしは大先輩であるある先生に師事しているのですが、そのある日のグループ・スーパービジョンの会でのことです。
ある問題を抱えて相談に来ていた母親が、自分の子どもとのやりとりを語った、一つのシーンを、その担当スタッフが次のように報告しました。
「小学校三年生の子どもが、僕はお母さんにいやなことを言われたのを思い出して、木に石を投げているんだといったのに対し、その母親がああそうだったの、といい、思いっきりそれをさせてから、すっきりした?と言って公園から帰った」と。それに対して、先生は「それは間違った対応です」と語ります。以下はわたしの記憶を頼りに書き綴ったものなので、その場の正確なやりとりはちょっと違っているかもしれませんが、日常よく起こる誤ったやりとりの典型的な例なので、わたしの理解した範囲のなかで描いてみましょう。
先生は続けます。「木に石を投げるという行為はアクト・アウト(act out:行動によって表現すること)ですね。それに対してなすべき正しい対応は、どうしてそんなことをするの?と問うことです。
それはトーク・アウト(talk out:言語によって表現すること)ですね。そうすると子どもは、たとえばお母さんにいやなことを言われたから、むしゃくしゃしてやったのと答えたとしましょう。
これは言葉で言っているのだから、トーク・アウトですね。そして先の子どもの木に石を投げるというアクト・アウトは、母親からのそうしてそんなことをするの?と問うトーク・アウトを誘発し、それに続く子どものむしゃくしゃしたから・・・・というトーク・アウトを誘発したことによって、その役割は終わります。
そうすると、この木に石をぶつけるという行為は、木さんがかわいそうよね。だって木は八つ当たりされているだけなのだから。だから母親がそこで、木はあなたに石をぶつけたりできないんだから、やめなさいね。お母さんが悪かったから謝るからというのです。
ここで木に石を投げるという行動のなかに含まれていたアクト・アウトの要素が、親との語り、つまりトーク・アウトになかに吸収されていけば、あとはただ、木をいじめている行為が残るだけです。だからこの、残った木をいじめる話をして、それをやめさせるのが正しい対応なのです」と語っています。
わたしたちはともすると、日常のなかでこの母親と同じような応答をしてはいないでしょうか。この少年が木をいじめるという行動は、本来母親に向けられるはずの怒りです。それを母親に向けられないので、別のものに置き換えてごまかしているだけの、実は筋違いな行動です。
ですから、それを存分にやらせたとしても、少年の心は母親がいうようにけっして「すっきりする」ことはありません。それは「八つ当たり」の推進でしかありません。自分のなかのやりきれなさを抱える力が弱く、八つ当たり的な行動が世間に増えているのは、このような間違ったやりとりの結果による、とは考えられないでしょうか。
先の先生の対応は、子どものなかに生じた攻撃性を、行動というかたちで発散させずに、言葉をやりとりすることによって、吸収させ、おさめていく道筋を育てているように思います。また先生は、他のケースについても、次のようなコメントを出しています。「ある長期的にひきこもりを続けている青年がいます。
彼は悪いとは思いつつも、自分の部屋に自分の食事を毎回お盆に乗せて運んで食べています。あるとき彼は父親に対して、次のように言いました。父さん、親は淋しいかもしれないけれど、僕は自分の部屋へ行って食べますと。それに対し、父親はいいよとひと言いいました。」という担当セラピストからの報告です。
これに対して「これはやりとりではない」と先生は言います。「やりとりというのはテニスと同じで、相手が打ち返してこれるような球を投げるものです。正しいことを言うと、それはただのスマッシュと同じでまいったといって、球を打ち返せません。
ここで父親がめずらしいねー。昔はそんなことなかったのに、何があったのかねー、あるいはそりゃ淋しいよ。だから、何で自分の部屋にもっていくのかねーと思っているよ。でもその理由、まだ聞いてないものねなど、会話の連鎖をつくっていくのがいいのです。
たとえば、わたしは子どもの意思を尊重しますと親が言ったとしましょう。それは果たして、親の意思のすべてでしょうか?すべてであれば、もうその子どもは独立した存在としてみなされていることになり、親は安心しているということになります。
ところが多くの場合、実際にはそうではありません。親は心配なのです。では、この親の心配はどのようにして尊重されるのでしょうか?それはぐちを言う、ということによってなのです。親がぐちを言うことによって、親と子の間に心配が共有させるのです。
たとえばお前の意思を尊重したいと思っているよ。でも果たして本当に、お前の意思を尊重していいものなのか、悩むなあ・・・・。でも妨げたとは思わないよ。妨げたいけど、妨げまいと思っているといえば、親の本音が伝わります。そうではなくて、子どもにお前の意思を尊重するとだけ言うと、あとはすべて子どもの責任です。
もしも失敗しても、親は知らないよ、ということになります。何かをしようとする子どもは、先が見えない不安におののいています。うまくいくかもしれないけれど、失敗するかもしれないでしょう。それをすべてお前が責任を取れというのはかえって二の足を踏ませてしまうものです。
格好はいいけれども、これでは子どもをかばっていません。そしてね、これが家庭のなかに問題児が現れてくるときの父親の姿なのです。これが典型的な父親不在です。正しいことしか言わない、正しいことをいうというのが父親不在です。
これは評論家の姿勢です。理論をしゃべってもだめなわけで、ぐちゃぐちゃ言ってくれる実務家としての助言が、子どもには必要なのです」
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