お母さんたちの手記
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お母さんたちの手記

一人ひとり思いもよらぬ子どもからの問いかけに戸惑い、それからはまさに「生き地獄」であり、自らの人生観を問い直す営みでもあったようです。

 

 

 

 

そして、やっと子どもの訴えを「親へのメッセージ」として受けとめることができたとき、信頼回復への関わりがはじめられたようです。

 

 

 

 

どの時点を子どもの「自立」、親の「安堵」としてみるかは実に個別的ですが、わたしは唯一共通するその思いとして、「このまんまでいい。なにもがんばらなくていい」と、あるがままの子どもを受け入れたときのように思います。

 

 

 

 

そして、もうひとつは、ささやかでも子どもの健気さに気づき、「よくやってるよ」と思え口に出したときのようにも感じられます。

 

 

 

 

みんなと同じ痛みを背負い、そして日々の関わりの中からその心を癒されていったお母さん方の手記をお届けしたいと思います。

 

 

 

 

 

〇 父親の努力に支えられ

 

 

 

 

最近は何かとものわかりのよいお父さんが多い中、わが家の22歳の息子が小学生の頃は、父親はとても怖い存在でした。

 

 

 

 

子どもにとっての父親像、親にとっての子ども像、とてもかみ合わない一時期でした。

 

 

 

 

親が子どもにとってよかれと思ってやったことが、実は子どもにはたいへん迷惑なことばかりでした。

 

 

 

 

明治生まれの親に育てられた父親は、やはり男の子は男の子らしくたくましく育てと厳しい面が多かったのです。

 

 

 

 

今だから言えるのであって、そのときの子どもの性格はそれぞれで、その子に合った教育が必要などとまったく思いもしませんでした。

 

 

 

 

あるとき、キャッチボールができないと、雨の中、無理やり投げさせられ、また高いところが登れないと登れるまでやらされる、臆病な子どもは怖がってしまって泣きながらやらされていました。

 

 

 

 

わたしはそんな子どもの姿を見てとてもかわいそうで、やめてほしいと頼みましたが、父親は自分のやっていることに水を差すなといわんばかり、聞き入れてくれませんでした。

 

 

 

 

何もかもできなくてはいけないなどということはないので、もう少し余裕のある子育てができなかったものかと悔やまれます。

 

 

 

 

そんなわけですから、子どもはもちろん、野球大嫌い人間になり、スポーツを毛嫌いする少年になってしまったのです。

 

 

 

 

父親と楽しみながらのスポーツではなく、苦痛しかないスポーツに変わってしまいました。

 

 

 

 

子どもが自発的に行ったことと、やらされてやったこととは、その結果に大きな差があることにまったく気づかず、子どもの視点に立てていなかったのだと思います。

 

 

 

 

今、あらためて親としての未熟さと身勝手さを恥ずかしく思います。

 

 

 

 

息子は中学生になり、突然不登校になりました。

 

 

 

 

来るものが来たかと思い、父親に子どものことを全面理解するように頼みました。

 

 

 

 

思ったより素直に応じてくれました。

 

 

 

 

短気な父親も、ある面、ずいぶん我慢していたようです。

 

 

 

 

はじめて子どもに本音で向かい合うようになりました。

 

 

 

 

わたしは極力父親と2人で旅に出ることをすすめました。夏休みの2人での北海道旅行が大きな転機となり、それ以来少しずつ親子の会話ができるようになりました。

 

 

 

 

旅の話題や戦争のこと、車など共通の趣味に発展しました。

 

 

 

 

そんなとき、子どもの顔はいきいきとしていて本来の姿を取り戻したように見えました。

 

 

 

 

何が不登校にさせたのか今だによくわかりませんが、これを機に父親が大きく変貌したことは間違いありません。

 

 

 

 

子どもにとって、何が大切か、親はどうあるべきか、この頃やっと理解することができたのです。

 

 

 

 

子どもの一つの挫折によってわたしたちも本当に勉強になり、またこのことがなかったら、以前と同じわからず屋の父親でしかなかったでしょう。

 

 

 

 

今では多様な生き方があるということを、息子、父親とともにわたしもそう思いつつ歩み出したのです。

 

 

 

 

〇 黙って協力してくれた義父

 

 

 

 

「学校、どうするの」「今からでも行こう」の言葉にも、うなだれて泣くだけの娘の姿に、頭の中は真っ白で、何も考えられませんでした。

 

 

 

 

もう体調はいいはずなのに・・・・。

 

 

 

 

不登校ではと、どこかで思いながらも、そう考えることで現実となってしまうような不安から口にすることはできませんでした。

 

 

 

 

そして、娘は文化祭の頃より登校しましたが、文化祭の当日、1ヶ月近く休んだ娘には、居場所がなく、ベランダに隠れるようにしていたのです。

 

 

 

 

それを思うと、もうこれ以上、登校を促すことはできませんでした。

 

 

 

 

学校を休ませると、機嫌よく過ごし、親も子も楽になりました。

 

 

 

 

でも、これからのことを思うと不安で、友人に相談すると「行く場はあるはずよ」の言葉とともに数冊の本を渡され、いっしょに考えようねと励まされました。

 

 

 

 

徹夜で拾い読みし、「不登校と引きこもり」の子どもたちをはじめて知り、つらいなあと思いました。

 

 

 

 

娘は塾へは通い、病院への通院(小児科・カウンセリング)、買い物等はわたしと出かけ、生活のペースもしだいに落ちついてきました。

 

 

 

 

わたしも、不登校を一人で冷静に考えられず、相談室で開催していた親子学級へ参加し、同じような悩みのお母さんたちと話し合えることになり、ずっと気が楽になりました。

 

 

 

 

不登校の子だけでなく、子育てに大切なことも教えられた気がします。

 

 

 

 

弱音を吐ける家庭、快話の多い家庭、子どもにもっと関心を持つこと等と言われましたが、わたしにとってはなかなか難しいことでした。

 

 

 

 

喉まで出かかるタブーの言葉を飲み込みながらの娘との接触は、甘やかしすぎ、気の使いすぎではと言われ、たびたび落ち込みました。

 

 

 

 

担任の先生は、娘とは顔を合わせないけれど、週1回わが家を訪問し、学校の様子を伝えたり、連絡を取ってくれ、そのうちに「2年生になったら学校に行くからいいの」と言い始め、通知表が届くと、「一生に一度の成績だわ」と言いながら、塾の冬期講習へ出席しました。

 

 

 

 

外部と接触があるだけでもありがたいと思っていました。

 

 

 

 

兄弟の新学期の準備に雑巾を縫いながら思わず、「あなたはどうするの」と口から本音が飛び出し、「行くに決まってるでしょ」という返事が返ってきました。

 

 

 

 

それから、夕方になると慌てて制服等の準備をはじめ、翌日より登校していきました。

 

 

 

 

娘の登校に家の空気が明るくなり、義父の「よく行ったなあ」の言葉にわたしはうなずくだけでした。

 

 

 

 

それまで娘に何も言わないでと頼んでも、いつもならひと言多かった義父も、いつの頃からか黙っていてくれたのです。

 

 

 

 

学校での様子は、一学期より明るく、同級生と適当にしゃべり、さりげなく入っていったようです。

 

 

 

 

部活も、先生や先輩たちにマネージャーとして参加しないかと声をかけられ、少しずつ復帰していきました。

 

 

 

 

 

同級生に、長欠や早退についていろいろ聞かれるとそれなりの返事をしては、うまくはぐらかしていたようです。

 

 

 

 

自分では長欠したことは、ごく普通のことと思ったいたようで、理解できない同級生に「それなら休んでみれば・・・・」と答えて驚かし、それを聞いたわたしもびっくりしました。

 

 

 

 

疲れたり、テスト前になると2、3日休み、勉強の遅れに落ち込み、それをとりなすこともたいへんです。

 

 

 

 

進級のクラス替えでは、気の合う同じ部活の友人といっしょになれて、助かりました。

 

 

 

 

そして、林間や体育祭等の行事を楽しみ、その報告がうるさいほどで、わたしも喜んでいます。

 

 

 

 

今回の件では、改めて親子、夫婦、家族を見つめなおす良い機会だったと思います。

 

 

 

 

不登校の子どもたちは増えているといっても、親も子もその地域では孤立し、疎外感は想像以上でした。

 

 

 

 

早い時期に、関東自立就労支援センターの相談室と出会えたことに感謝しています。

 

 

 

 

〇 親が明るくなることで・・・・

 

 

 

 

息子は現在24歳で、アルバイトをしながら自分の好きな鉄道模型を作ったり、文章を書くこと、絵を描くこと等をときどきやりながら暮らしています。

 

 

 

 

小さい頃より友だちが少なかったし、おとなしいので人にいじめられたり、また父親が厳しかったためにいつもビクビクしていたりなど、彼にとってとてもつらいことがいろいろ重なって引きこもりになった時期もありました。

 

 

 

 

また、人間を信じられなくなるような事柄が起こって、それまであまり出すことができなかった自分の感情を物に託して非常に激しく爆発させたりしました。

 

 

 

 

その傍らにいるわたしは、いつもどうすることが最良なのかわからず、ただただハラハラしていました。

 

 

 

 

そして人の心と心を結んでいくことというのは、本当に難しいものだと思いました。

 

 

 

 

元来、わたしは、ものを考えるときにマイナスになりやすい傾向を持っています。

 

 

 

 

それはあまりよくないと思いますし、プラスに変えたいのですが、そうしているつもりでも、またいつの間にかクヨクヨしてマイナスに戻ってしまいます。

 

 

 

 

ある本の中に、母親が明るくなることで子どもは変わっていく、という文章を見つけました。

 

 

 

 

本当にそうだと思い、すぐに実行できればよいと考えましたが、なかなかそう簡単にはいきませんでした。

 

 

 

 

そこで、この明るいというのはどういうことなのか少し突き詰めてみましたら、それはたぶん「自分」というものをしっかりと持っているということではないかと気がつきました。

 

 

 

 

子どもがどういう状態のときも、そっと寄り添って、そして自分をも見失わずにいられればよいのではないでしょうか。

 

 

 

 

わたしは読書が趣味で、今読んでいる本の中に次のような文章がありました。

 

 

 

 

「普通の人の目にはどんなに不可能に見えることでも可能なのか。

 

 

 

 

そうである。出来ると確信さえすれば、どんなに不可能と見えることでも可能なのである。

 

 

 

 

人間の心というものが、そういう不思議な働きを持っているのである」

 

 

 

 

これは子どもとの関係においても、すっかり当てはまることだと思います。

 

 

 

 

子どもが引きこもりをしているときにも、「彼は今、一人で自分と向き合って、じっとサナギのように心の内部にあるすばらしいものを、時間をかけて醸そうとしているのだ。

 

 

 

 

今にきっと、美しい、明るい蝶になるに違いない」と、心から確信して、けっしてマイナスの考えを持たないようにしています。

 

 

 

 

わたしは強い心の人間ではありませんので、息子についての一つ一つのことにぶつかったとき、たいへん大きな影響を受けてしまいますが、しかし、彼を信じていることは変わりなかったと思います。

 

 

 

 

そして、振り返ってみて言えることは、どんなにそのときそのときがつらくても、何の疑いもなく、ひたすらに信じる心を持ったまま、ずっといつまででも待ち続けていくこと、それだけしかないと思います。

 

 

 

 

〇 誰にも逆らえなかった母親として

 

 

 

 

夫は58歳、長男25歳、社会人として普通に働き外で自立した生活を送っています。

 

 

 

 

次男は19歳、高校中退です。わたしは専業主婦の49歳です。

 

 

 

 

次男は高校中退後、2年間は民間のカウンセリングを受けていましたが、同じ年頃の友だちが欲しいというので、昨年の夏から関東自立就労支援センターの相談室に週1回通うようになりました。

 

 

 

 

ずっと喜んで通っていたのですが、ここ2ヶ月ぐらい、友だちとのコミュニケーションがうまくいかなくなったらしく、不眠症になり、イライラしたり自己嫌悪に陥ったりして、わたしに言葉でつっかかってきます。

 

 

 

 

そんなときこそわたしは大きな壁になり、どんと受け止めて立ち直るのを静かに待つべきなのに、いっしょになってオロオロしたり泣いたりしてしまい、ほんとうに頼りない母親だと子どもに言われてしまいます。

 

 

 

 

子どもの担当になるスタッフの方にご相談したり、お医者さんにかかったり、自律神経失調症の本を買って読んだりと親子で泣き笑いの毎日です。

 

 

 

 

最近つくづく思うことは、子育ての基本は夫婦が仲良くし、しかも対等の立場でものが言えるということではないかと思うようになりました。

 

 

 

 

母親の心の安定が子どもにいちばん必要なことではないかと思います。

 

 

 

 

わたしの場合は、まったくその反対でした。

 

 

 

 

長男が1歳のときに、寝たきりの姑を引き取っていっしょに生活をするようになってから、わたしの苦労は始まりました。

 

 

 

 

亭主関白の夫と、身体は不自由なのに口だけは出す姑、それに赤ちゃんの世話で、わたしはパンク寸前でした。

 

 

 

 

それでもおとなしすぎて主人や姑に逆らえないわたしは、不満を自分の中にみんな収めてなんとかやってきました。

 

 

 

 

でも、5年後に次男がうまれてからはもうノイローゼ状態だったように思います。

 

 

 

 

何でもハイハイと言うことを聞くのではなく、もっと自己主張をすべきでした。

 

 

 

 

人間の人格形成にいちばん大切な3歳までの間に、わたしは次男の顔をしみじみとながめることなく、日々の雑事に追われて、ドタバタと過ごしていたように思います。

 

 

 

 

このときのことが、わたしの人生で最大の悔恨の事柄です。

 

 

 

 

姑は10年前に亡くなりましたが、忙しかっただけでなく、夫や姑に叱られても口答え一つしない母親は、子どもから見てなんと弱く頼りなく思え、心の支えにならなかったのではないかと思います。

 

 

 

 

それでも長男の就職のときには遅まきながら夫に反抗しました。

 

 

 

 

次男を連れて家を出る覚悟でした。

 

 

 

 

そのことや次男のことで、夫はみるみる理解のある人となり、今ではほとんど大声を出すこともなくなりました。

 

 

 

 

でも、本心ではどうなっているのか、妻といえども心の底まではわかりません。

 

 

 

 

ですが、恐ろしいだけの父親と、叱られてもかばってくれない冷たい母親に育てられた子どもが、まっすぐに大きくなるはずがありません。

 

 

 

 

わたしはもっと早く気づいて、もっと早く行動すべきでした。

 

 

 

 

子どもが幼いうちに今何が子どもに必要なのか考え、子どもに不利なものすべてと戦うべきでした。

 

 

 

 

母親だったら、自分のみの安全など考えてはいけなかったのです。

 

 

 

 

この世に生まれてきたことが幸せであったと、子どもに思ってもらえる日が来るのを祈りつつ、がんばらねばと自分を叱咤している毎日です。

 

 

 

 

早く元気になって、相談室に希望を持ち、笑顔で行くようになるのが、立ち直りの第一歩だと思っています。

 

 

 

 

〇 まったく手のかからなかった子が・・・・

 

 

 

 

2年前の10月末、当時高校3年生だった息子が突然学校を中退したいと言い出したあの日・・・・・・・。

 

 

 

 

何でこんなことになったのかという愕然とした思いと、ついに来るべきものが来てしまったという気持ちが交錯し、目の前が真っ暗になってしまいました。

 

 

 

 

思い起こせばこの日より1年前の高校2年の10月のある日、中学時代の友達との電話中にたまたま通りかかったわたしの耳に入ったひと言、「この一週間近く学校でシカト(無視)されている」。

 

 

 

 

すぐに息子に「学校で嫌なことでもあったの?」と聞きましたが「自分のことは自分で処理する。人の電話を立ち聞きするな」との返事でした。

 

 

 

 

心の片隅にこの日のことが、わだかまりとなって残っていましたが、息子は翌日から何もなかったかのように高校生活を送っていました。

 

 

 

 

2ヶ月近く平穏な日々が続き、きっと自分で解決できたのだろうと安堵していました。

 

 

 

 

期末試験が終わり、テスト返却後の休みに入ると、息子は自室からほとんど出ることもなく、ときには食事もしないという有様でした。

 

 

 

 

成績が芳しくなかったのでふてくされているのだろうと軽い気持ちで考えていました。

 

 

 

 

その上、今まで皆勤で通学していたあの子が、終業式当日の朝、頭痛がするので学校を休みたいと言い出し、成績表は主人が取りに行くという始末でした。

 

 

 

 

案の定、成績がかなり低下していました。そのためのショックだからしばらくそっとしておくほうがよいだろうと考え、当たらず触らずの冬休みを過ごしました。

 

 

 

 

3学期始業式はいつも通りでした。やや元気はなかったのですが、「行ってきます」と家を出たときはほっとした気分になりました。

 

 

 

 

翌朝、「気持ちが悪いので病院に行くから学校に連絡して」と言い、病院に行きました。

 

 

 

 

胃炎との診断で翌日からはいつものように通学し始めました。

 

 

 

 

その後は休むこともなく通学し、ただ気がかりなのは帰宅後、食事と入浴以外部屋から出なくなったことですが、年頃のせいだろうと思っていました。

 

 

 

 

3年になり、クラス替えもあり6月の三者面談の日、先生が「友達は?」と聞きますと「友達なんか作ろうとも思いません」と返事をしたようです。

 

 

 

 

そのときからわたしの心にとてつもなく重く暗い大きな塊が存在するようになりました。

 

 

 

 

それでもまったく一人というのではなく、たまに2年のときの友人との電話のやりとりではとても楽しそうでしたので、思い過ごしかなとも考えました。

 

 

 

 

この頃から試験当日になると、朝トイレに何度も駆け込み登校するという不登校の「症状」は出ていましたが、口に出すとそれが現実になってしまうのではという恐れから見て見ぬ振りを装っていました。

 

 

 

 

小さい頃から、いわゆるおりこうさんでまったく手のかからない子・・・・・まったく息子そのものです。

 

 

 

 

10月になって、あと2、3ヶ月で卒業できる、大学進学は無理かもしれませんが、なんとかここまで来れた、やはりわたしの思い過ごしだったのかと反省し始めた矢先、息子が「風邪気味なので学校を休む」と病院へ行き、翌日も休み、その日の夕方、食事の支度をしているわたしのそばに来て、「学校を辞めたい。大検でもう一度やり直したい」と言いました。

 

 

 

 

すぐ学校に連絡し、翌々日、親子3人で学校に出向きました。

 

 

 

 

息子は「シカトされていることにも気がつかない教師がいる学校にはいたくない。大検でやり直す」の一点張りでした。

 

 

 

 

担任の先生が「とりあえず、急に退学したいと言われても受理できない。

 

 

 

 

成績低下によって卒業できないという不安からだったら、今までの君の真面目な生活態度からなんとか考慮したい」と言ってくださいました。

 

 

 

 

素人考えでは対処できないと考え、市の教育相談室を訪れました。

 

 

 

 

そこの先生から、今の息子にとって、たった一枚の卒業証書が彼の将来にはとても大きな意味を持つと言われました。

 

 

 

 

相談室の先生の協力のもとに学校と連絡を密にし、息子の日々の生活報告書(といってもほとんど部屋から出ないのですが)、親の気持ちや1月から通い始めた関東自立就労支援センターの相談室の母親教室での講義内容を報告したり、「後に担任の先生から総計60枚以上にもなっていたとねぎらいの言葉をかけていただきました)親として今出来ることの限りを尽くしました。

 

 

 

 

幸い、周囲の人々がとても理解を示してくださり、息子の卒業に向けてとても協力的で、一日も登校しないまま、3月半ばわが子のために卒業式を挙行してくださり、わたしが代理で出席しました。

 

 

 

 

落ち込んだり、気持ちが高ぶり精神的に不安定なとき、励まし、温かく見守ってくださった人々がいたからこそ、どんなに心に安らぎを得られたか計り知れません。

 

 

 

 

親の心をカウンセリングすることの重要性を身をもって体験しました。

 

 

 

 

〇 子どもの自立の前に母親の自立

 

 

 

 

子「この電車は金沢に行きますか」

 

 

 

 

車掌「普通で長野までですよ。新幹線で長岡乗り換えで行くといいですよ」

 

 

 

 

子「どうしよう。今日中に着く?長岡までいっしょに来て」

 

 

 

 

母「一万円しかないから無理ね」

 

 

 

 

お金のことで家に電話するが通じない。

 

 

 

 

子「駅員さんに聞きながら、長岡まで乗り換えていくよ」

 

 

 

 

このとき、心の中で「やった!」とわたしは叫んでいました。

 

 

 

 

母親任せになっていた子が、「家に帰る」と言わなかったのです。

 

 

 

 

親離れができたことと、運賃不足に感謝しながら、サマースクールに出かけていく子に行ってらっしゃいをしました。

 

 

 

 

この子のことですが、現在、中学1年生です。

 

 

 

 

越境入学をした学校をやめ、地元への転校希望がすぐに認められず、二学期からの転校になり、現在自宅待機の状況です。

 

 

 

 

幼児期は、自然の中で遊ばせるようにし、絵本もたくさん読み聞かせて育てました。

 

 

 

 

外で遊ぶことの好きなヤンチャ坊主でした。

 

 

 

 

小学校低学年では、担任があまり好きになれないところに、兄が学校で八つ当たりをされていたので、その兄に家で当り散らされていました。

 

 

 

 

家はまるで嵐のようでした。このときの子どもの言葉として、「お兄ちゃんは、家でストレスを解消するけれど、僕は学校で友達に当たってケンカになってしまうよ」と言ったことが印象に残っています。

 

 

 

 

高学年では、このストレス発散といつも兄の友達と遊んでいたために、友達が少なくなりました。

 

 

 

 

そして「〇〇ちゃんがいじめる」と言うようになり、6年生のこの時期に1ヶ月ほど不登校になりました。

 

 

 

 

 

それから卒業までは、父のいるときは登校し、母だけのときは登校したり、しなかったりでした。

 

 

 

 

この時期はいわゆる「いじめ」にあっていたようでした。

 

 

 

 

登校後、教頭先生には「〇〇ちゃんがいやだから学校に来たくなかった」と話をしたそうです。

 

 

 

 

登校できたのは、教頭先生、担任の先生の家庭訪問、学校全体で協力してくださったおかげだと思います。

 

 

 

 

ほんとうに感謝してもしきれないくらいです。

 

 

 

 

中学校ですが、小学校の友達が一人もいない新学期は、クラスを落ち着かせるための力の試し合いが見られ、殴る、蹴る、脅すなどがありました。

 

 

 

 

そして、ついに「もめごとは見たくないし、したくもない。ケンカは絶対にしないと決めていたのでつらい。

 

 

 

 

やり返せばいいと言われても、その後どうしたらいいのかわからない。

 

 

 

 

地元の子にやられたほうがまだいい」と言い、不登校になりました。

 

 

 

 

学校側も転校は早いほうがいいとのことで、すぐ手続きをしましたが、教育委員会のほうで学校調べがあり、すぐに移動できなくなったようです。

 

 

 

 

中学校へ通い始めたときは、瞳が美しくキラキラしていましたが、不安と同時にその輝きはどこへやらです。

 

 

 

 

休養したおかげで、学校には行きたくてしかたがないようです。

 

 

 

 

しかし、わたしは嫌な学校からの解放によって今は安定しているだけで、次の学校への夢だけが大きくなっていないかと心配です。

 

 

 

 

さて、わたしの子育てですが、学校での出来事は外因に当たると思います。

 

 

 

 

この外因に対して、不平・不満を抱き、子どもの心にマイナスばかりを植えつけていました。

 

 

 

 

そして、現象ばかりを見ているために、子どもの心を受けとめられずにいて、子どもの心は下降へと向かい、建設的に動くことができなかったのだと思います。

 

 

 

 

次に、家庭という内因ですが、これがくせ者でたいへんなことだと思います。

 

 

 

 

よく「親が変われば、子どもが変わる」と言われているように、このことに尽きる気がしてなりません。

 

 

 

 

やがて最終的には、外因は姿を消し、内因だけが残っていき、原因がはっきりしてくるのではないかと考えているのですが。

 

 

 

 

わたしのいちばんいけなかったことは、困難に対して自分で切り抜けようとせずに、主人、先生、相談員の方々に依存ばかりしていたことだと思います。

 

 

 

 

不安になれば、相談をして安心はするものの、形式的にとらわれた行動に過ぎず、効果の薄いものだったと思います。

 

 

 

 

たとえば、「お母さんは、顔は笑っているけれど、目は怒っているよ」と言われたりもしました。

 

 

 

 

それから、子どもの自主性を求めるより先に、母親の人格の建て直しの勉強が必要だったのではと思いました。

 

 

 

 

また、子どもを信じて、子どもに責任を持たせ、その行為等は「子どもに任せる」態度が大切になっていたのだと思います。

 

 

 

 

しかし、先回りの子育てをした親にとっては「忍」の一字であり、辛いものです。

 

 

 

 

そして、家族の心が「快」になるように心がけることによって、お互いの愛情の確認ができ、安心していられるのだと思います。

 

 

 

 

子どもは常に親の愛情を確かめながら、成長しているように思えます。

 

 

 

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関東自立就労支援センター
理事長:
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住所
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TEL
042-439-4355
メール
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活動内容
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 学習 支援、生活訓練
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